第二百六十二話
東西の瘴気溜まりの間には、かつて泉の底にとある神様の神域が存在していた。
泉とは名ばかりで、水は飲めたものではなく、そもそも岩盤が硬くて水が引けず、食べ物が泳いでいるというわけでもない。役立たずな水溜り扱いされてはいたが。
他の誰でもない、私の愛しい女神様の神域だ。
ただ、ここは正確には女神様の本来の拠点ではなく、単に終の棲家であっただけなんだろう──そんな気がしている。
私にとっても特別に特別な土地だ。ある意味生まれ故郷のようなものでもある。
かつての私なら、ここのことを他人に明かそうだなんて欠片ほども思いはしなかったであろうが……既に十手のことも転移のことも、色々とエルフ達にバレてしまっている。
しかも今の同行者は、まさにその女神様が創りたもうた私の使徒だ。あの人の娘のようなものだし、いきなり連れて行っても怒られはしないだろう。
大したもてなしはできないが。
魔石収集に用いる迷宮が第一第二の二つから第四の一つに減ったことで、時間に余裕ができている。今のうちに発掘調査と洒落込んでしまおう。
今を逃せば次がいつになるか分からないし、その時に単独行動ができるとも限らない。
今日は既に瘴気溜まりの探索で時間がなく、次の風石集めの後は夜になってしまうので、推定零時からの探索を終えた後に、連れ立って再度森へと向かうことにした。
アルシュ北西の森を更に北へと抜けて、記憶を頼りに枯れた泉の底を練り歩き、《探査》で見つけた空洞と、そこに鎮座している縦穴へと飛び込む。
「あー……やっぱりこうなるか……」
私の女神様の神域。その縦穴。案の定というか、底には転落死したであろう魔物の死骸がちらほら転がっている。
流石にクマやカバはいなかったが、リスや猿に加え、狼がそれなりに散らばっていた。狼だけでも二十はいそうだ。ほぼ全ての個体が白骨化しており、魔石は食べられて血肉となってしまったのか、一つを残して見当たらない。その肉が残っている個体も存在しないけれども。
(蟲毒とかって言ったっけ。最後には孤独になるわけだ)
「あの、サクラ……ここは?」
臭いがないのが幸いだが、これは何か手を考えないといけない。最初に遭遇したヤツもそうだったが、ここいらの狼はかなりアクティブで行動範囲が広いようだ。
そして好奇心旺盛で、思わず穴に飛び込んでしまうお馬鹿さんでもあるのだろう。
「うちの女神様の神域というか、終生の地だね」
私の実家だ。家具なし水なし白骨死体あり。窓はないけど穴はある。踏み板も、今ではもう存在していない。鳥でもなければ出られない。
「しっ!? こ、ここがですか……」
周囲をキョロキョロしているリリウムにランタンを手渡して改めて眺めるも……まぁ、見事に骨しかない。帰りがけに掃除していこう。
「私の生まれ故郷みたいなもんだよ。何も居ないとは思うけど、一応気をつけておいてね」
《探査》に生物の反応はないが、用心するに越したことはない。
興味と恐怖が半々といった体のリリウムと横穴を下り、祠の洞窟へと至った辺りで、早速お目当てのブツを発見する。
「やっぱりそうだ……水白金だね」
夜目の効かない私がかつて、《引き寄せ》の検証をしたりとこの場であれこれ活動することができていたのは、横穴までと違い、この洞窟の内部がそれなりに明るかったからだ。
光源がこれ。水白金。横穴の出口から、かつて祠が立っていた断崖絶壁を登った先の広間、そこからでも更に高さを感じる天井の先まで、外壁中に埋め込まれている。銀よりよほど銀らしい、明るい銀色の鉱物。
満天の星空のようだ──などと陳腐な表現をするには、些か明るすぎるだろうか。
そびえ立つ断崖絶壁側には何もないので、外壁沿いを調べて回る。
純粋、純真といった純の字が格別に似合う。この色合だけで断言してしまってもいい。少なくともこれは、ヴァーリルで一番偉いドワーフのお爺さんに見せてもらった鉱物と同じ物だ。
「水白金って……伝説上の金属では──」
「ないんだなぁ、それが。掘り返せないかな、これ」
以前はよく分からなかったけれど、今はなんとなく肌で分かる。範囲は不明瞭で、泉全土がそうなっているというわけではなさそうなのだが、少なくとも断崖絶壁側の一帯は不壊化していると思われる。
少なくとも祠が立っていたあの辺りは不壊だろう。試しに第四迷宮で仕入れてきた、体内に僅かばかり残っている瘴気を用いて、明るい外壁ではなく祠側の断崖絶壁を、身体強化の五種掛けを始めとしたありとあらゆる暴力要素を乗せに乗せた上でぶん殴ってみたが、予想に違わず、いつかのように砂粒一つ分も削れなかった。
二度三度と繰り返してみたが結果は変わらず。これ以上は無駄だろう。ボチボチ五種強化が切れるが、その前に、だ。
「取り出したるは──っと」
久し振りに『黒いの』の出番となる。十中八九不壊だと思うのだが、まだ断言はできない。もしかしたら、これなら切れ込みの一つでも入るかも──。
「知れないよね……っと!」
「ちょ、ちょっと! サクラっ!」
形容し難い、とにかく大きな衝撃が身体を駆け巡り、弾き飛ばされた先をしばらく転がり、ボロ雑巾のようになってうずくまった。放り出した『黒いの』に意識を向けることもできずに、ピクピク震えながらも必死に耐える。
だが耐えてどうこうなるものでもないわけだ。これはちとマズイ。
「ぁ……ぅ……ぁ……」
脂汗が止まらない。十手はいかなるダメージをも私の身体に残さない。普段はあまり気にすることがないが、私が『近当て』なんて物騒な技術を常用して、ゴーレムだろうが何だろうが全力でボコ殴りにして平気な顔をしていられるのは、全てこの相棒のお陰だ。
一方『黒いの』にそのような優しさはないが、これは切れ味が狂っているので、大抵の物を斬ったところで感触すら残さない。スパッと斬れる。
例外がこれだ。不壊だ。盾が矛より強いのが不壊の理。この否定の壁は、肯定の槍では決して貫くことができない。
頭では分かっていたけれど、この度、身体にもしかと刻みました。超痛い。泣きそう。
死に体の身体で、『不壊だと思ってはいたけれど、とりあえず全力でド突いてみた』と告げたところ、泣きそうな顔であわあわしていたお嬢が夜叉と化した。
「このお馬鹿っ! 想像できていたのであればどうして初めから全力でかかるのですかっ! 猪ではないのですから、もっとやりようがあるでしょうに! このっ……馬鹿なんですかっ!? のーたりん!」
「何度も、馬鹿馬鹿、言わないでぇ……」
馬なのか鹿なのか猪なのか。脳はともかく考えが足りていなかったのは事実だな。水白金を見つけたことでテンションが上がっていた。これでは狼を馬鹿にできない。
とりあえずこのままでいるとマズイ。生力は鍛えることで傷の治りが早くなるわけで、このままだと折れた腕やら肩やらが変な具合にくっつきそうだ。
それに何か肋骨辺りもイッてそう。呼吸が苦しい。「肋が一本やられたな……」なんて平気な顔してニヒルに決めていられる漫画の登場人物は凄い。動くどころか、満足に喋れもしないぞ、これは。
しかしなんだ、私はここの床大好きだな。あの時も飛び降りて──床とキスした気がする。
とりあえず、その床に『黒いの』が刺さることが分かっただけで良しとしよう。
アルシュの町に治癒師がいるかどうか、私は知らない。バイアルや、バイアルとパイトの間の村や町にいるかどうかも、パイトにいるかも実は知らない。いるにはいるんだろうけど。
私が治癒師の世話になったのは、南大陸の迷宮で《浄化》の技法に至った際に、ぶち撒けたハエトリグサの体液を飲み込んでしまった後の一回のみだ。それも別に怪我をしてのことではなく、保険程度に念の為、といった具合だった。
その聖女ちゃんも今はガルデにいるわけで──いや、彼女にお願いしたら大騒ぎになるな。リューンにバレたらまた管理生活に逆戻りしかねない。
全身から絶え間なく襲う痛みに、足りていない脳が「動くな!」との指令を送ってくるが、それは無視。
《次元箱》に『黒いの』を収納しようとしたところで激痛が走る。何とか耐えて、パイトまで《転移》で移動しようとしたところで、神力を動かすことでこれまた信じられないくらいの痛みが迸り、これは到底我慢も制御もできるものではないと断念することになる。
だがいつまでも穴の底でうずくまっているいるわけにはいかない。脱出せねばならない。リリウムに負ぶさって横穴を抜けてもらい、なんとか気合で足場を作って神域を抜けてもらったところで、奴は猛烈な勢いで南へと走り出した。
「ほれ、これで終いじゃ。小金貨三枚でええよ」
疾走するリリウムの背中で衝撃に失神しそうになること数度。駆け込んだアルシュの町で聞き込みをしてくれて、程なくして無事治癒師にかかることができた。
人種の、清潔な白い衣服を身に着けたお医者系のおばあちゃん。赤毛と白髪が混ざって可愛い色の頭をしている。
だがその腕は本物だ。全身バキバキになっていた私を見ても顔色一つ変えずに、寝台に寝かせて迅速に処置を施してくれた。
治癒魔法はどうやら、予想していた通りに魔法で骨が正常な位置に勝手にくっつくというものではないらしく、衣服を剥ぎ取られ、気力を切るように指示された上で全身を抑えこまれ、整体か何かかと言わんばかりの荒療治で、強引に骨の位置を合わされた後に、念入りに魔法をぶち込まれ続けた。
咥えた手ぬぐいを噛み切らないようにするのが大変だった。これがないと気魔力のサポートなしでも食いしばって歯が欠けるし、あったところでうっかり気力を通してしまえば、食いちぎった上で粉々になる。
ちなみに折れたり虫歯になった歯は引っこ抜いて、専用の魔法を用いればまた新たに生えてくるらしい。メルヘン。
「ありがとうございました。お陰様ですっかりよくなりました。助かりました」
疲労が激しい。二十一時間迷宮よりよほど疲れた。怪我をすると生力の減りが激しいんだろうか。単に気疲れという線もあるけれど。
「裂傷はないし、一日安静にした後なら動いてええよ」
「分かりました。重ね重ねありがとうございました」
のほほんとしたお婆ちゃんだ。縁側と緑茶がよく似合うような。私もこういった年の重ね方をしたいものだが、きっと永劫こうなることはない。
「お大事にの」
お婆ちゃんに指定された箱に代金を入れ、頭を下げて部屋を出る。今の今まで気付かなかったが、結構大きな建物の一室に運び込まれていたらしい。大病院かと思ったが、受付のようなものはなかった。
「いやぁ、ごめんね」
「……本当に悪いと思っているのですか?」
リリウムがジト目と横目のコンボで見つめてくる。治癒は凄い。医者にかかった後は全身を苛んでいた痛みが綺麗さっぱりと消え失せ、神力を動かすだけで死にそうになっていた身体は完全に回復した。
骨が肉を突き破っていたりしていたわけではないが、確実に何本も折れ、ヒビなぞ数えられないくらい入っていたはずなのに。あのお婆さんの腕が良かったんだろうな。
「思ってる思ってる。リリウムがいてくれて良かったよ。ありがとう」
じゃあ……と、改めて発掘調査へと出向こうとしたところで、腕を掴んで止められた。何を聞いていたのだと吠えられた。
「一日はっ! 安静にっ! するんですっ!」
「大丈夫だよ、もう治ったって」
「ダメに決まっているでしょう!」
なんだなんだ、だいぶ子供っぽい反応を見せるな。駄々をこねる娘っ子のように、腕を掴んで必死に引き止めてくる姿が大層可愛らしい。
そんなお嬢の姿に和んでいると、反省の意を示していないと思われたのか……スッと目が細められ、歳相応の表情で即座に切り札を切ってきた。
「──あまりワガママばかり言うのであれば、リューンさんに報告しますからね」
やめて。