第二百五十八話
もしかしたら幼少期にでも眺めたことがあるのかもしれないが、私は恐竜図鑑といったものを読んだ記憶がない。
だが地球で過ごしていた二十年近い時間の中で、そういった過去に存在していたなんちゃらサウルスみたいな物の知識などは、知らず知らずの間にお脳へと蓄積されていっている。
ティーなんちゃらとか、なんちゃラプトルとか。おぼろげに記憶にあるような、そういった手足を地につけたような個体しかここまで目にしていなかったが、ようやく出現した。
ドンだ。なんちゃらのドンだ。
「ひゃああああああぁぁぁ………………」
二人で雑談しながらいくつもの大岩に侵入し、階層間通路を渡り、一度も十手を抜くこともトンファーが唸ることもなく、冒険者を避けながらまた次の大岩へと──正直気が抜けていたんだろう。私も、リリウムも。
そういえば、ここは二十五層……いや、二十六層か。ミッター君は、ここいらまでは攻略が確認されているとか、情報があるだとか、言っていた気がする。
──なかった。確認でも情報でもなく、地面が。
階層間通路を先に抜けたリリウムの後ろを歩いていた私は一面に広がる青空に数瞬の間だけ見惚れ、眩しさに目を細め、近くにお嬢がおらんことに気づいた。
そして何やら下から見知った声がかすかに届いたことに気づき、視線を下げたところで血の気が引く。
重力に任せて自然落下している私の縦ロールが、ドンの群れに集られている。
「ちょっとちょっと! あーもうっ!」
鳥迷宮だ。恐竜迷宮だ。そりゃあいるだろう、ドンが。足場が不安定だったり、固体でなかったりした階層とはこれまで散々遭遇していたのに、この体たらくだ。足場が存在しないなんてこと、普通に考えれば十分あり得るだろうに。
上部に設置した足場を、重力に負ける前に全力で蹴り込んで急速落下を敢行する。気分はカモネギだ。
しかもこのドン達は視野がやたら広いらしい。お嬢と共に下降していた一部は、縦ロールを見限って私の元へと駆けつけてきた。大きい翼をバサバサとはためかせて。
デカイ。翼幅何十メートルとかはいい。分からない。とにかくデカイ。というか翼が邪魔で先が見えない。しかもこいつら、恐らく火を吐く。口から喉元にかけて、火系の魔力がもやもやしているのがはっきりと分かる。やる気満々だなこの野郎。
いつぞやの戦争で戦艦が飛行機に負けたのは仕方がないと思う。フロンが空を飛べば城だって簡単に焼き落とせるんだ。船なんて物の数ではない。
空飛ぶ魔法師こそが最強である。制空権を支配した方が勝つ。ドンも進化の過程で箒乗りの魔女と同様に、その結論へと至ったに違いない。
「君達にっ!構ってる暇はっ! ないんだよっ!」
向かってくる個体をガン無視しながら三角飛び──三角降り? ──を繰り返してリリウムに突っ込み、その身体を全力で抱き締めてから薄い足場の膜を割りまくることでブレーキをかける。
リリウム側に膜を張ればよかったのだが、勢い余って背中が下を向いてしまい、仰向けとなった背と尻とでバリンバリンと景気良く足場を割り続けるはめになった。勢いが弱まったところで立ち上がり、すぐさま戦闘モードへと意識を切り替える。とりあえず距離を取りたい。
「リリウム、無事?」
私は後頭部がちょっと痛い。首をやらなくてよかった。こういったアクロバティックな動きは練習する機会が少ないので、かなり必死で格好悪い感じになってしまった。
もっとスマートにこなせるようにならなくては。修練しよう。ドンとは長い付き合いになるかもしれない。
「え、えぇ……油断が過ぎていました……。ありがとうございます。助かりましたわ」
リリウムも声が引き攣っている。心なし顔も赤い。久しぶりに命の危機を感じた瞬間だったのだろう。
「私も油断しきってたよ。いつかの爆発キノコ並に焦ったね」
迫り来る飛行特化の恐竜モドキからの猛攻を避けながら軽口を叩き合うというのも中々に新鮮だ。こういう時放出魔法があれば話が早いのに、私は何一つ持ち得ていない。
どこかでパイトだからと、小中規模の迷宮だからと侮っていたんだろう。思えば、この迷宮群は結構性格が悪いのだ。
到底探索行動を取れやしない、アホみたいな暗闇に覆われていたり、その暗さが一段と強くなった上で急に階層が大広間からアスレチックさながらの穴ぼこだらけのフィールドへと変化したり。階層中が水に浸っていて人食いサメを掻い潜って泳がなければ先に進めなかったり。徐々に階層の温度が上がって、異常に気づいた時には取り返しがつかなくなっていたり。
六層といった序盤もいいところに、霊鎧が出没する死層が待ち構えていたり──お空だけの空間に放り込まれたりするわけだ。
大岩は遥か上空に浮遊している。メルヘン。
こうして見ると、第二迷宮は結構良心的なんだな。虫は嫌がる人も多いけど、サイのようなやつはひたすら物量を盾にして押し寄せてくるだけだし。
(いや、あそこ結構狭いんだった……十分脅威だな。性格悪いや)
試練や恩寵とはよく言ったものだ。飴だけではなく鞭の面も抜かりなく備えている。
「さて、どうしようか……私としては、あいつら全滅させたいんだけど」
正面からギュッと抱きしめていたお嬢をお姫様抱っこに持ち替えて、ようやっと地に足を付けてドンと対面する。
デカイ。顔がキモカワ系の爬虫類っぽい。火を容赦なく吐き続ける。爪が鋭い。鳴き声がギョエギョエとウルサイ。数も──普通に六十そこらいるのだろう。今この瞬間も階層中から集まってきている。
昔カモネギを倒せずに引き返し、リューンと出会ってからも十層そこらの小竜を倒して先には進まなかったが……当時の判断は最高だったな。
あの頃の私がうっかりこの階層に足を踏み入れていたら、十手と《引き寄せ》のコンボをもってしても、大岩へと辿り着けずに転落死していたかもしれない。
「それは同感ですが……サクラ、足場ってどの程度の距離まで置けるんです?」
「距離? あー、どうだろう……確認したことないや」
あまり遠くに足場を設置しても仕方がない。嫌がらせにはなるかもしれないけれど。
(いや、狭い通路で流入を抑えるとか、そういうのには使えるか……確認しておいた方がいいな)
大挙して襲い来る千のオーガは恐ろしいが、五匹を二百回討伐なら危なげはない。
「ひとまずあの浮いている大岩の上に置いてくれません? わたくしを抱えていては戦えないでしょう。殲滅の後に、検証と参りましょう」
検証。検証は好きだ。殲滅も好きだ。
もちろんリリウムも大好きだ。無事で本当によかった。
ドンの火炎吐息──ブレスは魔力由来の魔法に似た何かで、火の魔力と吐息とを併用した、私の火炎放射器とそう変わらない仕組みの代物のようだ。
つまり、岩場に足をつけたリリウムであれば、『黒猫さん』の魔力破壊で何の問題もなく霧散させることができる。
火弾や火玉と違うのは、ある程度の時間吐き続けられることだが……『黒猫さん』はトンファーだ。グルグル回していれば、まるで盾をかざしているかのような安定感でそれを防ぎ続けることができる。それでも多少熱は残るだろうが、そこはほら、リリウムだし。
大岩は縦横高さ、それぞれ十メートルはあろうかといった大きさの、文字通り大きな岩だ。多少動き回ることも十分可能。ブレスはこれを覆い尽くすほど巨大なものではない。
囲まれてしまえば厄介だが、リリウムには遠当てがあるのだ。殺してしまうのはもったいないが、ちょっと頭を小突く程度であれば全く問題ない。それでブレスも反れるし、ちょっと本気を出せば簡単に死ぬ。
まぁ、あれだ。後顧の憂いはないのだ。
「他愛もありませんわ」
二本のトンファーを握ったまま器用に腕を組み、豊満な胸を持ち上げてお嬢が勝ち誇っている。
ドン自体は高々三十層近くの魔物とあって、別に大して強くはなかった。打突一で浄化緑石一。交換レートはヒヨコと変わらない。
三次元的な戦闘は相変わらず練度が甘いが、高さの調整に多少気を配れば、何ら問題なく突っ込んでぶん殴ることができる。
「地に足を付けられれば、そうなんだけどねぇ」
この縦ロールは私の使徒と化した際に身体をうちの女神様に弄くられ、かなり私に近い性質を得るに至ったのだが、細部まで徹底的に比較すると、似通っていない部分の方がむしろ多いかもしれない。
このお嬢は浄化赤石大好きな半分ドワーフっ娘らしく、根源に持ち得ている属性は火だ。私は少し違う。
この縦ロールは遠当てができて近当てができない。私はその逆。
この元貴族は浄化と、そして結界魔法にも適性がない。これには参った。
リリウムは魔力の格を育てていけば、いずれ足場魔法を会得できると私は決めつけていたのだが……先ほど問うてみたところ、どうやら全く適性がないらしいのだ。
どこかで聞いたような気がしないでもない。でも私は何故かできる気でいた。勘違いをしていた。これには頭を抱えることになる。
「サクラと共にあれば、わたくしはどこでだって戦えますわ!」
「なんでそんなに自信満々なの……流石に三次元戦闘で足場敷くのは無理だって」
ルナでイノシシワニと戦った時のような、二次元での遠隔足場設置なら請け負えなくもない。ある程度動きも予想できるし、船上でもかなりの時間を費やして修練を重ねた。障壁を先置きしても問題は出ない。
だがそこに高さが加わると話はまるで変わる。下から上に駆け上がろうとして、先置きした足場に引っかかって……考えたくもない。足の裏から足下に生成できるから、動きを阻害することなく動き回ることができているのだ。
双子は似たような思考になるとか、麻雀で通しが上手いとか、そういった話を聞いたりもするけれど、私達を仮に女神様の娘達としたところで、双子ではなく精々が姉妹だ。従姉妹がより近いだろうか。
(あるいは種違いの妹か。お父ちゃんの巨乳遺伝子凄いな)
とにかく以心伝心とは程遠い。それなりに付き合いも長いし、ある程度は修練次第で何とかなるかもしれないが……正直こういった上下を使う戦闘で使うのは怖い。グラグラの金槌で鉄を叩かざるを得ないというか、穴だらけの桟橋を目隠しで歩かせようとしているというか、何とも形容し難い不安が心を支配する。
「修練ですわ! 慣れますわ! サクラっ、わたくしと一つになりましょう!」
そこはもうちょっと、上目遣いで、楚々と告げて欲しい。全然グッとこない。
「何言ってんのよ……」
いくらお酒を飲んでも赤くならないリリウムの顔がほのかに染まっているのは、とても可愛くて良いのだけれども。
だが、練習もせずにできないできないと諦めてしまうのも違う気がする。
我々は龍と戦うのだ。私とソフィアとペトラちゃんと、現在お空を飛び回れるのは三人いるが……私はフロンとアリシアの守りに就くことになるだろうし、そこをわんこのみに押し付けるのは負担が大きい。それに聖女ちゃんはまだ仮免中であったりするわけで、実質二人。
ルナの個体に近い特性をしているのならば、刃物なら勝手が違うかもしれないけれど……足や腹をいくらぶん殴っても無駄になるかもしれない。頭を刈りにいく必要がある。
そもそも頭を刈りに行かせるにはペトラちゃんとてまだ時期尚早感がありありなわけで、大変躊躇する。
あいつらは羽が動いていたし、推定お父ちゃんは空を飛んでいた。地面から脚力頼みで跳びかかっても、モグモグされて終わりだ。
だが、十全に動くことのできるリリウムがそこに加われば──。
身につけて無駄になる技術でもないだろう。フロンまでもがアリシアのように自力で縦横無尽に舞えるようになれば、私とリリウムとリューンでにゃーにゃーと空飛ぶ敵に群れで襲いかかるだなんて未来もあり得る。
「そうだね、余暇で試し……て……」
んっ? 余暇?
(余暇と言うたか私は。余暇……?)
パイトを始めとする多くの迷宮、その階層に出没する魔物は多少の差はあれど、多くてもおおよそ六十匹程度。一匹を余裕を持って五秒で討伐するとして、おおよそ三百秒──五分もあれば、私なら階層の殲滅ができる。
そこから次の階層へと向かって、敵の位置を把握して、殲滅経路を設定して──とするのに、これも余裕を持って一分。階層一つに要する時間を六分とすれば、一層と終層を抜いた三十八層分の殲滅に二百二十八分、三時間と四十八分。同じく第二迷宮は二十八層分なので、百六十八分で、二時間と四十八分。
終層一歩手前から迷宮入り口まで戻ってくるのに……頑張ればすぐだけど、まぁ階層一つに三十秒くらいは見ておこう。第一は二十分程度、第二も十五分程度はかかる。
入って戻ってくるまでの時間は、第一が四時間と数分、第二は三時間程度。おおよそ七時間ほどかかる。
(──あら? 第四迷宮で遊んでる暇……なくない?)
ぶっ続けで七時間魔石を集めて宿に戻っても、一時間も経たずに次の魔物が生えてくる。寝る間もない。何だこのブラック。戦慄したぞ。
しかもこれを一日三回ペースだ。どういうこと? 嫌な汗が止まらない。
一日二回ペースなら多少楽にはなるけれど、それだと魔石の量が七割を下回る。三割違う。三割は大きいなんてもんじゃない。昔パイトで使っていた宿だって、長期利用で二割しか変わらなかったんだ。三割は大きい。ヤバイ。
小中規模迷宮とはいえ、二つ合わせれば七十層にもなる。一、二時間で終わるわけがない。アホか、なんでこんなことに気付かなかったんだ……。
第一迷宮の専有を求めたのは失敗だったか。わざわざ手配してもらって使いませんでした! なんてことになったらバッシングは避けられない。
こんな時傍若無人モードの私なら、迷宮に足を運んでいないことを突っ込まれても、「それが何か?」と突っ返せるのだが、残念ながら彼女はまだ休暇から戻っていない。連絡も取れない。
「これはちとマズイかもしれんね……」
何も考えていなかった。独り占めできれば魔石いっぱい集まる! くらいにしか考えてなかった。どうしよう。どうしよう……。