第二百四十五話
修練をして、休息を取って、また修練をして──と、代わり映えのない日々を過ごしていれば、半年なんてあっと言う間だ。
ルナで自宅と迷宮とを往復しているのと、どちらが有意義な時間であったかは比較が難しい。退屈な時間になるかもと思ってはいたが、半年に渡る船上生活から得られたものも、想像以上に多かった。
ギルマスのおっさんと膂力を抑えた上で軽く手合わせできたことも、独自の歩法や近接戦闘術に関して教導を受けられたことも、おっさんと同行している男達──現役の騎士とのこと──の剣術の型というものを見せてもらえたことも、私に活かせるかはともかくとして、大層刺激になった。
だがその中でも一番大きかったのが、デコピンに至ったことだろう。
人差し指でも中指でも、ただ曲げた状態から伸ばすよりも、親指で押さえてググーッと力を込めて、それを解放する方が、圧倒的に痛いわけだ。
当たり前だと思う。矢もぶん投げるより弓につがえて射った方が普通は強い。何をそんな当たり前のことを言っているんだとなるが、このひらめきに至れただけでも、この依頼を請けて良かった……と思わずにはいられない。まだ請けてないけど。
ようはあれだ、ただ素振りをするよりも、左手で十手を押さえて、力を溜めて……それを解放した方が、より強い打撃をお見舞いできるようになるわけだ。
そして思った。私の打撃の全てを、デコピン化することができれば──。
ガキンガキンと硬質的な打撃音が立て続けに響いたが、三発目のそれは聞こえなかった。
「ひぃぃぃ……やあぁぁぁ……」
そして気の抜けた悲鳴をあげながらリリウムが吹っ飛んでいく。アーチを描いて母なる海へと飛び込む──寸前で足元に生成された不可視の足場へと身体を捻って器用に着地し、そのまま後部甲板まで走って戻ってきた。
これが新しい特訓──デコピンホームランとでも名付けようか。リリウムをボールに見立ててぶん殴り、その飛距離を競う競技だ。ゴルフの方が近そうだな。
残念ながらボール役に志願する人材は他におらず、バッターをやりたがる者もいない。わざわざ人を的にする必要があるかどうかも怪しい。
「結構飛んだねぇ。初撃は見えた?」
「まさか。前もってコースを指定されていなければ直撃しています。仮に反応できたとしても……どうしようもありません」
猫トンファーを脇に挟んで手をぷらぷらと振りながら、お手上げのポーズをとる。私はリリウムより低い位置から打ち上げているため、甲板や彼女の足腰にはダメージがない。
ただ、立て続けにこれを受けられるのは数回が限度だ。ソフィアがいなければ、いくらリリウムの強靭な肉体を持ってしても折れてしまう。
こいつはストーカーだった時分よりこの手の受けが得意であったので、万が一の心配はそれほどしていない。
「もうちょっときちんと制御できるまで実践はお預けかな……ズレたよね?」
「少しではありますけれど、ズレていましたわ。習熟するための修練ではありますが……相手をするのは今でも少々、恐ろしいです」
でもいずれは……! などと燃えている。これを受けたがったのはお嬢の方であって、私からボール役をお願いしたわけではない。そしてまたリリウムが飛んで行く。
立て続けにデコピンパンチを繰り出せる秘密は、私の《結界》にある。
初めは左手で押さえて素振りをしていたのだが、何かが違った。これは有用な技術になるという確信があったが、左手を使うということは構えを変えるということにもなる。
船上から戦場へと赴くわけで、十分に習熟を図れない今、これが逆に命取りにもなりかねない。慣れ親しんだ正眼の構えを変えることには抵抗があった。
それに横薙ぎはともかく突くには不向きな構えになってしまうし、その変な構えから誰かに情報を与えたくもなかった。
じゃあどうしようか……となるが、すぐに解決する。魔法って便利だね!
膂力を上げていくと足場魔法では強度が足りなくて暴発してしまうようになってしまったので、すぐに私の十八番の登場となる。
《結界》は強度はもちろんのこと、出すも消すも私の思うがままな上に、足場魔法と違って必ずしも空間に固定しなければいけないというわけでもない。溜めながら位置を微調整ができるのも素晴らしい。
これを使いこなせるようになれば、私の攻撃力は更に上がるだろう。このバッティングセンターでは当然近当ても《浄化》の技法も使っていないし、身体強化もかなり抑えてある。それでもリリウムがギリギリ反応できる程度の速度と、遠くまで吹っ飛ぶ暴威を備えているわけだ。
これは素晴らしい。素晴らしいが、今の私が対人で全力を出すのはあまりにも危険過ぎるので、魔物相手に修練を重ねる必要がある。
退屈しない。あまり気乗りしていなかった今回のスタンピードの鎮圧──目標ができた。全部乗せをモノにする。
全力の身体強化を併用しながら近当てと《浄化》の技法を乗せ、それらに魔食獣狩りで磨いた正拳突きと、デコピンの威力までもを相乗させる。
些か欲張りすぎな気がしないでもないが、目標は高く持っておく。
身体強化も、近当ても、正拳突きも、モノにするのは大変だった。大変だったが、今は確かに自分の技術にできているのだ。できないとは思わない。できるまで頑張ればいい。死ななければ、私にはそれだけの時間がある。
幸いなことに、相手には困らない。掃いて捨てるほどいる。掃いて捨てるのが今回の仕事だ。
私にも魔物を狩る機会があることを、切に願う。ここが一番の不安要素だ。
住居スペースの屋上、展望台からお手製の望遠鏡を覗くと、遠くに北大陸が見えてきた。
高倍率の物に替えて観察を続けると──とてもではないが、魔物の群れでてんやわんやになっているとは思えないくらいに、南端の港町も、そこから伸びる街道も平和だ。普通に船が出入りしているようだし、少数ではあるが商隊のような馬車が方方へと散っているのが確認できる。しかも大した護衛をつけてもいない。
ルナから北大陸の問題は対岸の火事であったが、この南端の港からすれば中央の問題もまた、同じなのかもしれない。
「あまり……切羽詰まっているようには見えませんね」
「そうだ。俺の知る限りではあるが、まだ港はどこも潰れていない。だから……かろうじて抗えている」
今日は一切の修練は中止にして、全員休暇に当てている。近くにはすっかりお馴染みになったおっさんに加えて、顔見知りくらいにはなったガルデの騎士達も一緒になって、故郷に視線を向け、複雑な表情を浮かべている。一年で戻ってこれたと喜ぶべきか、こんなに早く戻ってきてしまったと嘆くべきなのか。そんな感情が見て取れる。
騎士がいくら高貴な職業とはいえ、戻ってきたからにはこれから戦地に出向くわけで、彼らも割と胸中は複雑だと思う。南大陸も大概だったが、あそこよりも今はデンジャラスだろうし。
「私達は一度ガルデに向かえばいいのですね?」
「そうしてくれ、王が謁見をされる」
望遠鏡を近場の仲間に渡しておっさんに確認をとる。既に説明は受けているが、実のところ何も決まってはいない。
依頼の内容も、それに対する報酬も。このおっさんは冒険者ギルドとして私に依頼をしにきたわけではなく、国の命令で私を探しに来た使者に過ぎない。
事が事だけに、迷惑な龍を討伐してそれで終わりでいられるとも最初から考えていない。私達だけで討伐に向かえるかも、正直怪しい。
おこぼれ目当てで有象無象にくっついてこられるのは困るので、そこだけは我を通させてもらいたいが……それも完全には難しいだろうな、とは思っている。
「私、南大陸の帝都でお城から依頼を受ける際に、皇帝を城の外に呼び出して直々に説明をさせたんですよ」
あのお姫ちゃん、元気にしてるだろうか。まだ暗殺されまくっているのかもしれないが、せめて命あることを願っておこう。少なくともあのお父ちゃんは味方のはずだ。
「……止めてくれ。お願いだから止めてくれ……俺の首が飛ぶ……」
「さて、どうしましょうかね」
態度如何によってはそのままルナまで帰ってもいい。私は王様に媚びを売るために遠路遥々やってきたわけではない。
「……俺の悪運もここまでかもしれんな……」
「お疲れさまでした」
天気は良い。王都までの道程は、それほど辛いものにはならなさそうだ。