第二百十四話
一人で来ればよかった……心からそう思う。
三日ほどは平穏無事に過ごしていたが、そろそろお風呂が恋しくなり、一旦戻ろうかと考えた矢先の出来事だ。
「ちょっと! もうちょい優しく──」
「何を甘っちょろいことを! 女は度胸ですわ!」
寝ぼけたことをほざいて床をぶち破り、氷の海に沈んでいくリリウム。助けに行かないと食われて死だ。
身体強化の制御に励むのはいい。推奨する。だが全力で踏み出せば氷が割れて沈む。どうして学ばない。
少し冷えますわね、などと吐かしてお酒を呷り始めたのを止めなかった二十分前の私をぶん殴りたい。景気良くバンバンと氷の大地を踏み抜いて、母なる海へと飛び込んで行く。こんなんでも一応私の大事な使徒だ。クジラモドキに食べさせるわけにはいかない。
戦闘訓練と魔石集めのみでは退屈する。リリウムが迷宮にお酒を持ち込んだことを咎めようとは思わない。
傍目にはドワーフに──胸部以外──見えないリリウムではあるが、ドワーフらしくお酒には強い。今日までもずっとそうだったし、まるで心配していなかったが、まさかこんなところで酔っ払うとは思わなかった。
「──はっ、はっ……あぁぁっ! もうっ! いい加減にしてよ! 何か変なもの混ざってんじゃないでしょうね、それっ!」
座り込み、ひーひー笑いながら酒瓶を呷ろうとした似非お嬢の手からそれをはたき落とす。それはもう塩水だ。
「あーあ、もう……魔法袋びしょ濡れじゃない……また洗って乾かさないと……」
水没でアウトにならなかったのは本当に結果でしかない。初日にやらかしたのは仕方がないが、嬉々として海に飛び込んでいくこのポンコツを早く何とかしないと……。少し眠くなってきた。凍死は不味い。
「修練ですわ! 訓練ですわ! はーなーしーてー! もうちょっとでいけそうですの! 沈む前に次の一歩を踏み出せば沈みませんわ!」
後ろから羽交い締めにして身体を持ち上げる。身体強化魔法一つ分腕力では勝っているが、地団駄を踏ませたらアウトだ。二人共海に沈む。
いや、私は十手で沈みはしないけれど、まだクジラモドキその辺にいるんだってば!
「暴れんな! そんな忍者みたいな真似できるわけないでしょ! あーもおぉぉ……」
おかしい。何でいきなり酔っ払ったんだこいつ。昨日までは、ついさっきまでは普通にしていた。飲んでいたお酒は普通の物のはずなんだけど。
下から突っ込んでくるイッカク……クジラモドキを避けられる高度まで上昇して、実力行使で《浄化》を施す。それで顔からスッと赤みが消え、蒼白になって震え始めた。
「ささささサクサクサクささささむいですですわ!」
よしきた! 酔いは覚めたな。おもしろリリウムが帰ってきた。
「生力が切れるとこうなるのか」
中央の六十四層まで撤退して明るいところでよくよく見れば、顔色が悪い。リリウムも、私もだ。手鏡作っておいてよかった。
やはりと言った感じではある。生力にも格と器がある。
格に関してはリリウムは私より上を行っているようだが、器の方は例の如く私の方が広いんだろう。
積極的に寒中水泳に明け暮れたことで余計に生力を消費したリリウムは、体機能が低下して、アルコールも分解できなくなって酔っ払った……そんな感じなんじゃなかろうか。
(休まないとダメだなこれ。下手したら二人揃って衰弱して、死ぬ)
溶岩地帯で肩を寄せ合って浅い眠りにつくのではなく、しっかりとベッドで身体を休める必要がある。このまま身体を苛めた先に見えてくる世界なんてものもあるのかもしれないが……まぁ、安全第一でいこう。
とりあえずお風呂だな。一刻を争うというわけではなさそうだし、公衆浴場じゃなくて家で沸かして入ろう。
「撤収するけど、まだ動ける?」
「う、う、ごご……ごごけ……ますわ……」
魔力が切れれば魔法は使えない。生力が尽きれば……こうなる。普通の生物だ。当然の理だね。よしよし、いい発見だ。
「じゃあほら、走るよ。無理そうだったら抱えてあげるから、ほら立った立った!」
やっぱりリューンを連れてくるべきだったな。気力と生力が相関関係にあるか、調べたかったのに。
面白似非お嬢のリリウムだが、二十年女一人で冒険者稼業を続けてきただけあって、確かな根性を身につけている。
中央の六十四層から一直線に中央一層まで走り抜け、無事セント・ルナ……ギルド内部の入り口まで辿り着いた。
迷宮都市で冒険者が焦げていたり濡れていたり、土埃に塗れて歩いていても、普段は特に奇異の視線が送られることはない。
そんなことは当たり前で、日常の一部でしかないのだが、可愛い顔したリリウムがボロボロになって歩いているのは流石に目を引くのか、今日は周囲からの視線を色濃く感じる。
「ほら、歩いた歩いた。絡まれる前に移動するよ」
浄化で綺麗にしてから出てくればよかったか。どうせお風呂で念入りにやるからと、横着して塩塗れで出てきたのは失敗だったかもしれない。
「何でサクラはそんなに元気なんですか……」
寒中水泳の時間が短かったからだと思う。
「空元気だよ。さっさとお風呂入ろうよ、私も疲れた」
私達でも三日四日は厳しいとなると、うちの子達は下手したら二日どころか一日も保たないかもしれない。
(となると、あそこでしごくのはダメだな……でもあそこより穏やかな階層なんて──)
治癒で生力が回復したりするんだろうか。そんな都合のいい話、あるとも思えないけれど。
倦怠感の主張が激しくなった身体に鞭打って自宅まで駆け足で走り、そのままお風呂へと直行する。ハイエルフ組は不在にしていたが、リビングに居たミッター君によると、ちょうどわんこ達が仲良く入浴したところとのこと。
「たのもー!」
エネルギーが足りていないのか、あれだけ走ってきたにも関わらず、一向に身体が温まる気配がない。お酒を解禁したいが、またポンコツが酔っ払うと面倒だ。
「お、おかえりなさい……?」
ただいま、私の可愛いソフィア。温かそうだね。
「疲れたよ……身体洗わなきゃ……」
冷えきった手で聖女ちゃんのうなじを包んで、ついでにペトラちゃんの腰も触っていく。わんこは温い。
「キャアアア! 冷たい冷たい! やめ、やめてください!」
「ソフィアが温かいのが悪いんだよ。あーぬくい……リリウムもこっち来なよ、こいつら生意気に超ぬくいよ」
「やめてやめて! やめ、ちょ、くすぐったいですって!」
じたばたと暴れるわんこを無理やり羽交い締めにして温まっていると、死に体の身体を引きずってやってきたリリウムに引剥がされて、そのまま湯船に放り込まれた。
「ひどいよ」
「ひどいのはお姉さんですよ……」
身体を洗い直してから湯船再び。至福だ。もうちょっと温度上げてもいいな。
ボイラーをちょちょいと弄って全身の力を抜く。気力も身体強化も切ろう。お風呂中は切っていいことにしよう。そうしよう。
「あぁ……疲れた……ソフィアぁ、お姉ちゃん疲れたよぉ……」
あんな目に遭ってもそばに来てくれるこの娘は本当に可愛い。ペトラちゃんは身の危険を感じたのか近づいてこない。
「修行……に、行ってきたんですよね?」
そうだ。リリウムがぶっ壊れて大変だった。そのお陰で……というのもあるのでうるさくは言わないけど。
「限界ギリギリまで追い込みましたから。わたくしも……今回は流石に……」
(遊んでたわけじゃないのか……)
リリウムは気力を切っていないので、うつらうつらしているとはいえ、今ちょっかいをかけると返り討ちにあう。
「逃げて正解でしたねぇ……お二人がこんな風になる修行に同行したりしたら……」
正解だったかもしれない。でも生力は何としてでも鍛えてあげたい。身体は資本だ。
髪を湯船に落とさないように気をつけながら弛緩すれば、ここは天国だ。
金髪美少女二人と生意気ボディの面白ドワーフのいる世界。わんこには一匹逃げられてしまったが、逃げ遅れた聖女ちゃんに頭を預けてリラックスすれば……癒される。嫁に出したくないなぁ……。
塩臭くないだろうか。手早く《浄化》はしたんだけど……親しき仲にも何とやらだ。臭いのは困る。
「ねぇ、私塩臭くない? しょっぱくない?」
「えっと……はい、特に臭いませんけど……海に行っていたんですか?」
味は? 舐めてもいいんだよ。お姉ちゃぁん、しょっぱいよぉって言ってもいいんだよ。
「海じゃないけど、迷宮に塩水の階層があってね。そこに何度か入って泳いだから」
元凶は我関せずと、目を閉じてまったりしている。
「そんな階層もあるんですね! 見てみたいです!」
かかったな……!
「そこに修行に行ってたんだよ。凍ってて大変だったんだ。次は一緒に行こうね?」
「え゛っ……」
乙女の出していい声じゃないぞ、それは。
「お姉ちゃん、ソフィアと一緒に迷宮行きたいなぁ。ダメ?」
「う……あ……ぐ……わ、わか──」
「ダメだよソフィア! 命を粗末にしたら!」
ペトラちゃんもしごきあげたいんだけど、この娘は勘が人一倍良いんだよな……どう騙して連れていったものだろう。