第二百十三話
「違うんですのよ? これは、お約束というヤツですわ」
「──そう」
滅茶苦茶寒い。この似非お嬢、海に落ちやがった。意気揚々と突っ走って、そのままドボンだ。
「ほら、ここは身体を濡らした方が、より良い修練が行えるのです。初めから想定していたのですわ」
「──そう」
滅茶苦茶寒い。この似非縦ロール、泳げないでやんの。そりゃあもう慌てた。十手を放り出して飛び込んだ。『黒いの』を作っておいてよかった。《引き寄せ》使ったのいつ以来だろう。予備の武器は絶対に必要だ。水中専用の得物も用意しておいた方がいいかもしれない。
「サクラぁ、機嫌直してくださいまし……あんなに脆くなっているとは思わなかったんですもの……」
滅茶苦茶寒い。この似非ロール、何度も何度も落ちやがった。今では縦ロールもただのウェーブになっている。私の髪も塩塗れだ。しっかりとしょっぱい。
この塩気には、きっと奴らの血も混ざっているんだろう。勘弁してくれ。
「泳げないなら最初に言っておいてよ、もう……。知らなかった」
ここで泳ぎの練習させようかな。でもこいつ、でかい胸してる癖に沈むんだよ……どうなってるんだ。
「サクラは随分と達者でしたね」
得意というわけではないけれど、人並みには泳げる。私に最初に課せられた呪いは、敵対神の元へと泳ぐこと──嫌な思い出だ。
「リリウムも足場魔法刻んだら? まさかこの分厚い氷を踏み抜くとは思わなかったよ」
加減すれば何とでもなりそうだが、加減ができないとこうなる。泳げないとなると、迷宮によっては先に進めなくもなる。パイトの水迷宮がいい例だ。浅瀬でパシャパシャと遊んでいるしかなくなってしまう。平和な光景だ、ほのぼのだね。
リリウムは過去、足場魔法の修練の際に海にドッボンドッボン落下していた私を、ずぶ濡れでギースからもらった家に帰った私を笑ったりしなかった。だから助けたんだ。これがエルフ共だったら──そういえば、彼女達は泳げるんだろうか。
「……考えておきます」
まぁいい。是非そうして欲しい。これは大変便利な術式だ。先に身体強化を三種掛けできるようになるべきであろうが、その後にでも。
あのイッカクモドキ、角も身体もそれなりの値段で売れるらしいのだが、リリウムが潰した連中は既に海底に沈んでいってしまった後だ。取りに行くのは……諦めた。
六十六層へと進んで氷弾を飛ばしてくるペンギンを手早く片付けた後、より過酷になった寒冷地の環境にひたすら耐える。超キツイ。とにかくキツイ。お家帰りたい……。眼尻に浮かんだ涙も一瞬で凍てつく。これが序の口というのだから……たまんないね。
二個目の砂時計がおおよそ半分程減ったので、火山地帯へと移動する。六十六層も氷の海で戦闘訓練はできなかったので、ずっと喋ったり食べたり。一層戻ってリリウムは折れた木剣を浮き輪代わりに泳ぎの練習をしていた。アホだこいつ。
「普通はこっちの方がキツイはずなんだけどねぇ」
所々に塩の結晶がこびりついている元ずぶ濡れの女二人が、灼熱の溶岩地帯で和んでいる。それなりに暑いが、言うほどでもない。慣れましたわ。
トカゲとゴーレムを手早く処理した後にドラゴンさんとこんにちはして、しばらく戯れた後に魔石になってもらった。こいつの魔石はでかいので嬉しい。宝箱にはノータッチだ。
「慣れですわ! さぁさぁ、やりましょう!」
両手に握った猫トンファーをグルグルと回しながら、リリウムが燃えに燃えている。階層と相まって暑苦しい。
ここいらは力強く踏み込んだところで、足下からマグマが噴出するなんてこともない。
髪を耐火布のターバンで覆って、外れないように紐で縛って──さて、始めよう。
髪の毛の再生ができれば苦労しないのだが、残念ながら私にできることは脱毛のみだ。しっかりと守っておかねばならない。
「本気でかかってきていいよ。なるべく当てないようにするけど、酷い怪我したら引き返すからね」
ソフィアがいれば解決する問題だが、彼女はお家か……この迷宮のどこかにいるんだろう。そちらもそちらで修練して欲しい。お姉ちゃんも頑張るよ。
リリウムと対人訓練をするのはいつ以来だろう。これを目当てに私に付いてきたのだろうし、存分にやり合おう。
打撃武器同士で殴り合うのは随分と久し振りだ。ギース以来かもしれないな。
トンファーとは、拳の先から肘の少し先程度の長さの棒に、垂直に一本握りの取っ手が付いた、シンプルな構造の打撃武器だ。
武術のようなものもあるのだと思う。これは、相手をすると思っていた以上にやりにくい。
単にグルグル回して遠心力でドカン! の威力が馬鹿でかいというのもあるのだが、肘の先までを覆う後ろの方を前に出されると、普通に短剣以上の長さがあるわけで……足下からビュンッと飛んでくると、見えない。
リリウムはこういう、リーチを自分でいじれる武器と縁があるというか、好きなのかもしれない。『ぐにゃぐにゃ』もそうだった。
一番驚いたのは、長い方を握って取っ手を鎌のようにして殴りかかってきたことだ。危うく喉を刈られるところだった。
身体強化も、相当修練したのだろう。意のままに……とまではいかないが、戦闘に用いることができる域にはなっている。
変幻自在から一歩二歩手前の習熟と、遠当てまで組み合わされるのだから……参ったね、これは。
「何で、全部っ、弾いてぇっ!……弾け……はぁ、はぁ……」
あまりゼーハー呼吸しない方がいいと思う。いくら熱に耐性ができるとはいえ、普通に身体は渇く。水袋は用意しておいて正解だった。数口呷ってリリウムに投げ渡す。お裾分けだ。
「そりゃあ、まだまだリリウムが甘いからだよ」
訓練なので、私はドワーフの方の強化魔法を使っていない。近当て二種も《結界》も。膂力をおおよそ揃えて、それでも一方的に私がマウントを取れているのは、単に得物に対する練度の差が大きいからだ。
「サクラ、反応が異常ですわ……捌けるわけがありませんのに……完封されるだなんて……何かやっているのですか?」
「何もやってないよ。足場魔法は使ってるけど」
ただ──経験だけによるものなのかは、正直自信がない。
ほんの十年そこら前まで、私は地球で殴り合いの喧嘩の一つも経験のない、普通の女の子をやっていた。その数年前まで女子高生だったんだ。それがこんな……たった十年でこうもなれるものなのだろうか。
リリウムの動きは見えている。一挙手一投足から次の行動が予測できる。特に《探査》が何かをしているような感じもしない。こうして対面してみると明らかではあるのだが……ただの経験によるものだとは、考えにくい。
「ふむ……」
「──隙ありっ!」
口に出しちゃダメでしょ。右を弾き、左を受けて、そのまま押し飛ばす。多少強めに当たっても、リリウムは吹っ飛ぶだけで大怪我はしない。世界で一番気楽に打ち合える相手だ。得難いね。
砂時計を確認すると砂が落ちきっている。四時間以上経過したようだ。いやはや、身体を動かしていると時間が経つのが早いね。
「どこで寝る? その前に魔石取りに行くけど」
迷宮に侵入してからおおよそ八時間以上が経過している。朝一で出てきたから……夕方、十七時くらいだろうか。一日が二十四時間であるかは分からないし、そもそも砂時計の八時間もかなり大雑把ではあるのだが。
とにかく、そろそろ幽霊大鬼が生まれ始める頃合いだ。ついでに土石も集めておきたい。
「そうですね……少し手間ですが、こちらへ戻ってきませんか? 走るのも修練になりますし、氷上よりは安らかに眠れるのではないかと」
当然のように火山氷山で眠る心づもりでいるらしい。ストイックだな。生力が起きている間しか育たないなんてことはないだろう。魔力だって魔導具に吸わせ続けていれば寝ていても器が育った。溶岩地帯で眠れば、氷上で眠れば……きっと育つ。死ななければ。
いや違う、育たぬ者が死ぬんだ。私は生力を育てないといけない。死ぬわけにはいかない。
「それがいいね、そうしよう。じゃあ走ろうか、暑くないから楽だね」
行って戻ってくれば、眠るのにもちょうどいい時間になっているはず。
「えぇ、走りましょう。ふふっ、楽しいですわ!」
楽しいのか。マラソンして戦闘訓練をしてまたマラソンをして──楽しい。楽しいかもしれない。こうやって互いに高め合えるのは素晴らしいことだ。
一人なら私は次元箱で寝泊まりしていたかもしれないし、もっとこう、諾々と……義務感に寄りかかってこの時間を過ごしていただろう。
リリウムが一緒に来てくれてよかった。心からそう思う。