第二百二話
人は慣れる生き物だと誰かが言っていた。私は未だに日常でもリューンにドキドキすることがあるし、美人は三日で飽きるという説には異を唱えたいけれども。
最初は早いペースでベッドシーツや洗濯物が回収されていったり、部屋に定期的に清掃が入ったり、立派な食堂やそこで供される豪勢な食事にと、とにかく日々をおっかなびっくり過ごしていたが、この豪華なお部屋での船旅にもそろそろ全員が慣れきってしまった。それだけの時間が流れた。
傷をつけたら貯金が吹っ飛ぶと、少し青い顔でワニ革を短剣十一号君で加工していたミッター君も、今では思い切りよく黙々と机上で刃物を振るっている。
裁縫組と術式組が仲良く、今日も今日とてそれぞれの作品を作り上げている。私は残念ながら蚊帳の外。今日も今日とてすっかり半専用と化したソファーに横たわり、一人で本を読んでいる。
そんな長閑な日中に、珍しく私に仕事が割り振られた。休憩中、息抜きに別の作業をしていたフロンによって魔石の加工を依頼され、二つ返事でそれを引き受けた。
今回のお仕事は、簡単に言えば過去に私とリューンが使っていたメガネを再現できないかどうか、そのための実験資材を作ること。
私やリューン、フロンにしても、過去に使用していた魔導具──迷宮産魔導具の効能の程が身に染みている。
すね当てはこの際とにかく……で片付けてもいいが、初めてお揃いで身に着けた魔導具であるところのメガネ、エルフの身体強化が二重にかかる、これまたお揃いのワンピースの魔導服、そして魔力回復を促成するネックレスの三点は、他に比肩する物が無いと言っていい程の逸品だった。同じものを身に着けることはおろか手に取ることも二度と叶わない以上、効果の再現を強く望むことになるのは当然の流れだと思う。
この中で、ワンピースとネックレスの二点は最初の一歩のとっかかりすら掴めていないらしい。可能性があるとすれば、リューンが嫌がっているエイフィスなのだが──今は置いておく。
そこでメガネだ。私の魔石を湯水のように使えさえすれば、暗視と遠目はやってやれないことはないだろうと、親愛なるエルフ先生が、頼りになる方の先生が豪語してくれた。愛してるよ!
あのメガネは、暗視、遠目、水中視、といった機能に加えて、頭にピッタリフィットして勝手に外れないというおまけまで付いていた。
私は夜に弱い。時間を問わずに活動していられたのは、活動拠点がほぼ迷宮だったことに加えて、メガネの存在が非常に大きい。
この際形状はなんでもいい。効果も多少弱くても文句は言わない。夜間の活動に不自由しないくらいの暗視力が欲しい。これはその一歩と成り得る。
(まぁ、そのお仕事は秒で片付くわけだけど)
闇石──浄化紫石を手頃な大きさに分けて、変形させて、それをその場でフロンに渡すだけだ。よく分からない注文を受けて作った部品をいくつか受け取ったフロンは、それを一通り確認すると、一言礼を告げて足早に作業場にしているテーブルへと戻ってしまった。
それからしばらくして再度こちらに足を向けたフロンは、私に覆いかぶさって溶けているリューンの首根っこを掴んで、無言で引きずっていった。休憩は終わりらしい。私も中断していた読書の続きを……いや、その前にお茶でも淹れようか。
日記をつけているわけでも日数を数えているわけでもないので酷く曖昧ではあるが、おおよそ百三十日ほど、全行程の半分を過ぎていくらか経ったかといったある日のお昼前のこと。
とうとうハイエルフ二名の力作である浄化魔法の術式が上がってきた。
「我ながらいい仕事をしたよ! これはもう、サクラ専用と言ってもいいくらいの仕上がりだからね? 一所懸命頑張ったんだよ?」
褒めて褒めてーと、にへら笑いで寄ってくるものだから、褒めて褒めてあげなくては。
「ありがとうリューン、すごく嬉しいよ。フロンも、ありがとうね」
「あぁ、リューンの言う通り渾身の作だ。ルナに着いたら使用感を確認してくれ」
二人共やりきった顔をしている。足場魔法といい浄化といい、このハイエルフ達には足を向けて眠れない。
二人が何の術式をいじっていたかは年寄り組にしか知らされていない。なぜならば、私が浄化の術式を持っていないなんてことは普通に考えたらおかしい、ありえないからだ。
たまに忘れそうになるけれど、私は傍から見れば物理障壁、魔法障壁、浄化、索敵、身体強化、変形、変質の魔法術式を持っているように見えるわけだが、実際に刻み込んでいるのは後ろの三つのみだ。
これで、万が一所有術式を見破られても……おかしいことはなくなる。魔法を《結界》で弾かなければ。
(フロン先生の隠蔽魔導具のお陰で二重に備えられている。うんうん、良いね。すごく良い)
今使っている物は間に合わせの品なので、そのうち作り直すとのことだけど──。
昼食を食べに専用食堂まで出向き、お小言の一つもなく景気良く大量の食事をお腹に叩き込んでいるリューンを眺め、部屋に戻ってお茶の支度をして、お先にお風呂をリューンと頂いて……就寝前に、久しぶりにこの身に術式を刻むことになる。
例の如く全裸に剥かれた。寝室は複数あるので問題はないけれど……こうしないとリューンのテンションが下がるので、諾々と受け入れている。
「注意事項は──まぁ、いつもの通りだよ。二日くらいで終わると思う、何もしないでね」
今回は魔力に限らず気力も神力も満タンの状態で、術式が完全に馴染むまでの間、一切の使用を禁じられている。
何もしないでねというのは、誇張なく文字通り何もするなと言うことだ。つまりドワーフの身体強化術式の時と同じ、食事もストレッチも読書も何もかも。思考にも制限がかかり、呼吸くらいしか許されない。
「分かった。大人しく寝ておく、また後でね」
例の如く魔石も魔導具も使えないので、私は端っこの寝室、端っこのベッドに一人で隔離される。
「たまにはゆっくりしなさい! じゃあ、術式入れていくからね」
しばらく口を吸われた後に、真面目な顔になったリューンが御札を使って私に浄化を仕込んでいく。
二時間ほど経ち、術式を不足なく刻み込めたことを確認したリューンは、ばいばいと可愛く手を振って部屋の明かりを落とすと、そっと部屋を後にした。
一般に出回っている浄化の術式で可能なことは二つ。魔物を浄化品にすることと、瘴気を祓うこと。
それだけならば絶対安静を強いられることはないのだが、エルフ先生達が一から構築し直した術式には三つ目の効果──体内の自動洗浄機能が組み込まれている。
下の処理を横着する方ではない、瘴気に汚染される方の洗浄だ。前者はなぜ浄化でこれが可能なのだと二人揃って首を捻っていた。私に聞かれても知らない。
これは体内の瘴気を感知したら、勝手に魔力を使って綺麗に掃除してくれるといった代物。もちろんスイッチはあるので自分で切っておくことはできる。
この機能を効率よく実装するために一から構築し直したとのことだ。もしこの浄化の術式を削除することになっても、この機能だけは別途で刻み直すようにとお願いされている。
定期的に自浄しておけば済む話ではあるのだが、一度心配をかけてしまった手前、首を縦に振るしかない。まぁ、うん。ごめんね。心遣いは嬉しいよ。
そして体内に思いっきり影響を与える術式のため、私は数日の間感情のないマネキンと化す必要がある。まぁ以前と違って十一日もかかるわけではない。ぼうっとしていればいつかは終わる。色々考えていると魔力が動いてよくないので、こうしているのが最良に近い。
──いつの間にか数日が過ぎ、両先生による検査が終了する。完全に術式が定着していることを確認され、ようやく身体を起こせた。
冬の寒さも嫌な湿気もいつの間にやら過去のものになり、すっかり春に近い陽気を感じられるようになってきている。
素っ裸で眠っていても風邪を引くことはないだろうけれど、微妙に寒かったり汗をかいたり、身体が変に乾いたりしていて気持ち悪い。
お風呂にも入りたいけれど、目が回りそう。まずはご飯だ。おなかすいた。
身体は浄化……いや、《浄化》で横着すればいい。引っ張られるようにして食堂に連れて行かれ、久しぶりの食事を二人で楽しんだ。