第二百一話
旅立ちの日がやってきた。しんしんと雨雪が降り注ぐ、気温は低い、湿度は高い。絶好の船出日和だ。
過去、北大陸からルナへと向かう際に初めての船旅を経験し、ルナから北大陸に戻り、死んだ後に走って辿り着いたルナから西大陸へ、その後西大陸から南大陸へ向かった。
そして今、南大陸からセント・ルナ行きの船へ乗り込む。これで都合五回目のお船の旅だ。もうだいぶ慣れてしまって、特に感慨もない。
(また二百日そこら、まったりする日々が始まるわけだ)
──と、この程度のものだ。
朝一で寒さから逃げるように船まで駆け足で向かい、船員と言うより船長っぽい風体の男に案内された最上階にある私達のお部屋は、ただ広いだけではなく──ファーストクラスと言うよりはロイヤルスイートルームとか、そんな感じのアホみたいにお金の掛かった豪華絢爛な船室。
調度品一つを取ってしてもお金のかかり方が明らかにおかしい。明かりも冷暖房もソファーも机も完備されている。寝室は当然複数あり、シーツも希望があれば毎日、そうでなくとも二日に一度は換えられるとのこと。洗濯のサービスまでついている。
シャワーどころか浴槽までついており、机上には無駄に果物が大皿に盛り付けられていたり、食堂も専用で、お酒も飲み放題だと説明を受けていた。四名ほどすごく喜んでいる。
大金貨三千枚も取るなんてアホかと思っていたけれど、暖房を使えるのはありがたい。客室は火気厳禁のはずだ。これまで利用してきた個室は全てそうだった。五人で西から南へ向かう際に使った部屋も二千枚弱はしたものだけれど、それは変わらずだったわけで。
追加千枚程度の出費で寒さを凌げるなら、正直安い買い物だと思う。
この船もよく見る大きさの普通の魔導船で、特別豪華な客船というわけでもない。どの船にも、大体こういうお部屋が設定してあるのだと思う。
「天国ってあるんですねぇ……下は地獄なのに」
「格差がありすぎるよ……大部屋、もう使えない……絶対やだ……」
わんこ達は震えていた。歓喜か恐怖か、まぁなんでもいい。頑張って稼げるようになって欲しい。
普段なら船内探検が始まるところだが、若者も年寄り組も、誰一人として部屋を出ようとしなかった。初日はどの道混んでいるし、まだ普通にお外は雪だ。暖かなお部屋で家具を眺めたり、設備の確認をしたりしている。皆が楽しそうで何よりだよ。
はしゃいで物を壊さないでいてくれさえすれば、好きにしていてくれて構わない。私も楽な格好に着替えてまったりモードだ。この湿気ともおさらばできると思うと胸が晴れやかになる。
ソファーに身体を沈めてリラックスしていると、珍しくお嬢っぽい仕草で、しおらしく、隣にリリウムが腰掛けてきた。
「どしたの、最近元気ないじゃない」
このお嬢ヘアーの縦ロール、アイオナを発ってこの港町に到着する頃までは活力に満ち溢れていて元気いっぱいだったが、布屋を出て宿に着いた頃から、らしくもなく、ふとした瞬間にアンニュイな表情を浮かべるようになった。その後も何か逃避するようにして針をチクチクやっていたことに気付かないわけがない。
リリウムの可愛い顔が曇れば私は一発で気付く。ただ、これまではあえて問い質そうとは思っていなかった。
これはきっと、聞いて欲しいのだろう。
「いえ……その、前にサクラとお船に乗った後に、その……」
(ん? ──あぁ、そのことを気にしてたのか)
小声で言い難そうに、囁くようにボソボソと。
過去、ルナから北大陸の港町──なんて名前だったかな──まで二人で船に乗って、その後暇潰しにパイトで遊んでいる最中に二人揃ってお亡くなりになってしまった。
普通なら死んでしまえばそれでおしまいなわけだけど、私達は時間遡行やら使徒化やらの関係でそのことを自認したまま、やり直しに近い形でこうして今を生きている。
リリウムに私達の死亡の原因があるわけではない。本心からそう思っているし、そのことは再会した時にはっきりと告げている。
(なんだけど……まだ気にしていたのか。お船に乗るとなれば、否応もなく思い出してしまうのかもしれない。割り切れるものでもないのかな)
十四、五歳の頃ならともかく、今の彼女は三十四、五歳といったところで、私と年の近い大人だ。
言葉はいらない。こういう時は、黙って抱きしめてあげればいいのだ。
後ろからではなく、前からギューッと。後は時間が解決してくれる。
割と長いことそうしていたようだ。船が動き出したことで腕の中の半分エルフがもぞもぞと動いて、顔を上げると……一つ懐っこい笑顔を浮かべて、戯れるようにくたくたとしなだれかかってくる。
それはこれまで静観していた、空気が変わったことを機敏に察知したリューンによってすぐに引き剥がされてしまったが。まぁこの様子だと大丈夫なんじゃなかろうか。
紅一点の逆であるところのミッター君は、私が誰かといちゃついていても特に表情を動かすことはない。内心どう思われているかは分からないけれど、今も淡々と荷物の整理をしている。
几帳面な彼らしく、三人用にと貸し出している魔法袋も、扱いやすいように綺麗に整頓されているようだ。お裁縫もできるし女子力が高い。聖女ちゃんやペトラちゃんの下着も一緒になっているのは、わんこ達に言いたいことがないわけではないのだが……。
姉二人と妹がいるとか言っていたし、慣れているというか、下着程度でキャーキャー言わないのかもしれない。彼氏君と言うよりお兄ちゃんだなこれは。普通は逆だと思うんだけど……いいやもう。
今回の船旅は急に決まったことでもあったので、これまでに比べてやらなければならないことがかなり少ない。私の中ではリリウムと移動したルナから北大陸間の航海に次ぐ、何もなさ具合と言ってもいいと思う。
私個人は改良した浄化の術式を刻んでもらえばそれでおしまいだ。後は精々、リリウムに転写するためのエルフとドワーフの身体強化魔法の術式を御札にするためにコピーしてもらうくらいだろうか。
ハイエルフの術式はリューンから私に、そしてリリウムに。ドワーフの術式はギースからリューンの手を経て私に、そしてリリウムに。
魔法の回路は全くの同一なので、そのまま流用ができると言うことはリューン先生に確認済みだ。だが、現在は格の問題でどちらも刻み込めないらしい。
「今は何が入ってるの?」
このお部屋、なんと事前に申請さえしておけばコンロまでもが使用可能だ。もう毎回三千万支払ってもいい。火が使えれば部屋でお茶が飲める……最高だ。
「魔力訓練用の術式があるのです。主に幼子が魔法を使えるようになるまで、格と器を育てるために魔力を練り上げるだけのものなのですが」
そんなものがあるのか、初耳だ。確かに魔力持ちでも、最初から術式を刻めるレベルの格──魂のスペースがあるとも限らない。
省スペースで刻める簡単な術式を用いることで、それらを育てていくのだろう。
「それ、普通に魔法を使うのと育成の面ではどっちが効果的なの?」
「これは本当に取っ掛かりを得るために使うものだから、効率は最悪に近いよ。消費も多いし効果も弱い。でも、こうでもしないと最初はね……人種やドワーフは特に」
そう言ってリリウムの胸元、心臓の辺りをつんつんするエルフ先生。私は最初からエルフの身体強化術式を刻める程度の格はあったようだが、リリウムはどうやら昔の私よりも低いらしい。一方器の広さはそれなりとのこと。
エルフは魔法に長けた種族という印象があるのだが、半分エルフのリリウムは、そっちの方は半分ドワーフの因子が色濃く出ているのだろうか。
「指示された通り、限界まで使って休んでといった修練を繰り返しています。──ねぇリューンさん、そろそろ刻めるようになりませんか?」
珍しい、リリウムが焦れている。──珍しい? 昔はもう嫌ですわとかほざきながらピーピー泣いていた。そんなに変わってないな。
「どっちもまだまだ無理だよ。うーん……このペースだと……ルナに着くまでは無理そうだ。そこから馴染むまでに……サクラ十日くらいかかったよね」
十一日だ。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。動くことも食べることも許されなかった、あの地獄の日々を。
「思い出しただけで泣きそうになってくるよ……人生で一番辛かった時間かもしれない」
ハイエルフの方は一、二時間で終わったような記憶があるのだが、ドワーフの方の身体強化術式は……記憶から抹消してしまいたい。
体内に影響を与える術式は得てしてそういうものだと言われたことだけ忘れないでおけば、それでいいと思うんだ。