第二話
ガボガボと音を立てて沈んでいた我が身から空気が漏れなくなって久しい。
何度か意識を手放しているから数時間……下手したら一日や二日経っているのかもしれない。無心でいるように努めていたが、一向に終わりが訪れないことに不思議を感じてしまう。
鼻からも、喉からも相当な量の水を飲んでいるはずなのだ。窒息するなり何なり、していなければおかしくないだろうか。
水圧も気にならない。手は動く、足も動く。目も……はっきりと、とはいかないが、見える。頭も、正気を保証はできないが、働いている。
だが、恐怖を感じない。
ここで初めて若干混乱し、心が動き出してしまった。このままではどうしようもないと浮かぶか沈むかを悩み、意識して沈んでみることにした。
水を蹴り、水を掻き、深く深くへと泳いでいく。光は弱いが、水は澄んでいて綺麗だ、熱帯魚など泳いでいればさぞ楽しいだろうと思う。
ダイビングには興味があったが、終ぞ手を出すことはなかった。
息苦しさや疲労を欠片程にも感じずにぐんぐん沈んでいくと、やがて薄暗さの中に水底と、そこから伸びる縦穴を見つけた。
直径十メートル程のやや崩れた円形をした穴ぼこ。はっきりとした闇をたたえるそれに若干怯むが、何もない水中をただ泳ぎ回るよりはいいだろうと、軽く考えその中に身を泳がせる。
見上げれば若干光が差し込んできているような気がするが、見下ろせばはっきりと分かるほどにとにかく暗い。漆黒の闇というやつだ。
斜めに泳いで壁にぶつかったり何なりしながらぐんぐん沈んでいくと、程なくして行き止まりに突き当たる。頭からぶつかった、水底に。
穴はほぼ垂直に、どれくらいだろう……百や二百メートルは優に超えているとは思うが、よく分からない。ここまで来ると日の光も差し込まず、混じりっけなしで漆黒だ。
辺りを調べてみようと外周に手を付きぐるぐると泳いでいると、横穴が開いているのを発見する。
当然の如く何も見えないが……何も考えずその中に向かって泳いでいくことにした。これは夢だ、私は無敵だ。
ただ投げ遣りになっているのではない、考えたって無駄だからだ。ぼうっとしてても終わらないなら、行動するしかないからだ。
横穴は更に、緩やかに下方に伸びているようだった。両手を目一杯広げれば手を付けられる、縦穴に比べれば小さい穴。
手を付きながらゆっくりと、着実に深部を目指す。何もなくてもいいが、何かがあるような予感があった。
しかし、これだけ泳げるならそのまま陸地を目指せたんじゃないだろうか。
私は沈めば溺れて死ぬと思っていた。普通はそうだろう。誰だってそうだろう。
木の枝を失ったことで、その喪失感に打ちのめされ、絶望に囚われて全てを諦めた私ではあったが、こうも泳げると分かっていたなら、枝なしでもまだ見ぬ陸地を目指して適当に泳いでいくことはできたと思う。辿り着けるかどうかとか、その陸地があるのかとかは置いといて。
ただ、同じような場所に都合三度も叩きつけられたことを思うと、この夢の主──私じゃないのは癪だけれども──は、ここを目指して欲しかったのではないかと、そう思うのだ。
そうであったら、ある程度離れた時点で戻してくれればいいのに、などと思わないでもないけれど。
夢にそんな整合性を求めても仕方がないが、もし、もしもこれが夢でないのならば……。
そんな事を考えながら横穴を進んでいると、微かな光と共に終わりが見えた。
予感に従い、浮上していく──。
久しぶりに肺に空気を満たす。クジラか何かになったような気分だ。肺に水が詰まっていたと思うが、何故か吐き出すこともない。そのまま息ができた。
久方ぶりの、おそらくもう水面に叩きつけられることはないだろう陸上への進出に安堵を覚える。
そこは小さな洞窟だった。海底洞窟? 水没していないのが不思議な程地下にあると思うのだけれど、息ができる。
周りの壁がほのかに明るく、視界は良好だ。水面か水中しか見てなかった日々からすれば大変新鮮でよろしい。
草の一本も生えてはいないが、渇望した確かな陸地。その中央に、白い石を積んだだけの、装飾のない簡素な祭壇のようなものが設置されていた。
(祭壇なんて立派なものでもないけれど、これは祭壇だろうなぁ)
それに近づきしばらく眺めていると、どこからか湧き出た淡い光が人型を作るように集まってくると、意思や声のようなものが頭に響いてきた。
《よくぞ参られました。私はこの世界の神の一柱、貴方に呼びかけていた者です。今は名も無きただの亡念、最後の残り香に過ぎませんが》
「私を何度も水面に叩きつけていたのは貴方で間違いないのですね。頭の中を殴りつけるように何かを伝えようとしていたのも。私の大切な棒を奪い取ったのも」
はい出た。居ると思ってたんだよ神様。あんなの私の頭がイカレたか、神様がいるでもないと説明つかないだろう。
夢の中で神様に会った、なんて言えば世が世なら聖者か魔女裁判で磔火炙りにでもされそうだ。現実で吹いて周れば檻に放り込まれるだろう。
水上で数度に渡り私に語りかけてきた《それ》の意思が、今ははっきりと理解できる。
《それについては謝罪しなければいけません。私は私と波長の合う生命体の召喚を続けていました。貴方は適合していたはずなのですが……実際に喚び出してみると、その魂は私が思っていた以上に私と相違がありました。完全には同調できなかったのです。本来ならばこの場に直接召喚できるのですが、貴方は前述の通り同調が難しく、神域から離れた場所だとあれが限界だったのです。何度『引き寄せ』を行っても離れていくし、諦めて沈んでしまうしで、正直私も諦めて送還しようと考えた程ですが、この機会を無駄にしたくはありませんでした》
私は候補の一人でしかなかったらしい。しかも半端者? どうやらあのまま諦めていれば帰して貰えたらしいが、本当かどうかは怪しいなと思う。
この神様は死に体のようだし、力がもったいないだろう。私ならその辺に適当に打ち捨てておく。さておき、さておきだ。
「送還? 帰れるのですか? 私としてはこの夢が覚めてくれるのでも、それはそれで良いのですが」
わたしの棒かえして。
《かえしません。せめてこの話が終わるまではお付き合い下さい。そう長くはなりません。私にもそれほど時間が残されているわけではありませんので。どうかお願いします》
必死だ、腰が低すぎる。仮にも神様だろう貴方。女神……様? 女系だと思うが、よく分からない。人……人でいいや、人を見た目で選ったら痛い目に遭う。
私には私の生活があるのだが……とりあえず話を聞いてみることにしよう。
《私は信仰を失い、名と共に力をも無くしつつある、かつて神と呼ばれていた者です。神の力とは信仰の力です。忘れ去られ、命あるものの信仰を失った私は、既に神の域を外れつつあり、最後に残った僅かばかりの力と共に、今まさに消滅の時を迎えています。》
《このまま私が消滅してしまうと、この身に幾許か残っている神力が世界に無作為に撒き散らされて、諸々の調和を乱します。地上に今以上の乱を巻き起こすでしょう。私は既に消滅したことになっていますし、この神域の結界は強固です。如何に強力な力を持った現役の神々でも、私を見つけ出し対処することは不可能なのです》
神様が死んでも力は残る、しかも撒き散らす。自分のことは他に誰も知らない、知っていてもどうしようもできないと。
《私が貴方に求めるのは、このまま私の力が無秩序に世界に散らばらないよう、管理して頂くことです。人の身で行使できる神力には限界がありますが、私の神格を継いでより深く同調すればするほど、いずれは神々と同列とはいかなくとも、生命体の頂点争いができる程度の力は行使できるようになるでしょう》
色々言われているが、神様の言うことを正しく理解できている自信がない。
要は、このまま死ぬとコップに入った水をぶち撒けるから、そうならないよう私に持っていろと言っているのだろう。水を飲んでも使ってもいいと。
その水で他の神様と戦争しろってことではないと思うけれど、頂点争いなんてものに興味はない。そんなもの求めていない。戦いとかそういうものには極力関わり合いたくないなぁ。
とりあえず、このまま神様が消えると世界が不味いということは確かなのだろう。
と言うか、そもそもここは地球なのだろうか。この女神様は八百万の神々とやらの一柱なのだろうか。
そういえば、先程同調とやらが完全にできなかったとか難しいとか言われていた。半端者の私にそんな重責を背負わせていいものなのだろうか。できるの?
《可能です。貴方が泳いでいた泉……貴方は水溜りなどと称していましたが、あれは神域を護る為に実体化している私の身体そのものだったのです。貴方は私の一部を取り込み続けることで、私を識り、この深き神域に気付くに至りました。試練の一つといった所でしょうか。それを乗り越えた結果同調も進み、貴方は掛け値なしに私の神格を継ぐに値しました》
蓋とか盾とかそういったものだったのかな? なんかゴクゴク飲んでた気もするけれど……女神様の身体だったらしい。
漏らすようなことがあったら大惨事だったかもしれない。プールとかだと、ほら……ね。
女神様の一部を踊り食いしたことで格とやらが適合し、女神様は私をおうちに帰してくれる気がなくなったのだろう。
本気で嫌がれば帰してくれそう……に思えなくも、ない……かなぁ。帰してくれると思うけれど、流石にここまで必死で頼まれると断りづらい。
それよりも、棒はどうしたの私の棒! 私の子かえして!
《あれはかつて私と敵対していた一柱の用いていた神器の欠片です。あまり思い出したくはありませんが……私を間接的に死に至らしめたものです。これまでは無害だったので無視していましたが、流石に捨て置けなくなったので……。貴方との同調が進み、神域の真上に召喚した際に回収して処分しておきました。あの浮力や貴方が感じる異常な執着もおそらく、ここに至らせないようにとの意志が働いた結果なのでしょう》
神器だったらしい。私達の出会いを阻むための。神器ってなんだろう。確かに異常なほど愛着が湧いたし、執着していた。都合のいい存在だった。
仕方がないとは分かるけど、それでもやっぱり少し寂しい。理屈じゃないのだ。
《私はもう、そう長くは私の神格を維持できません。私は世界に混沌を招く暴威としてではなく、せめて神としてこの身を終わらせたいのです。かつて私に祈りを捧げてくれた、民達の、命あった者達の為にも》
神様が神様っぽいことを言っている。よくよく見れば結構神々しい姿をしている。よく見ると顔立ちもかなり……。ここにきてやっと、私は《それ》が神であると本心から認めることになった。美人には弱い。
もういい、どうにでもしてくれ。やる。やります。引き受けます。
「具体的に何をすればいいのでしょうか。女神様の力を受け継いで他の神々との戦争? 名を挙げて貴方への信仰を取り戻す?」
《ありがとう。そう言って頂けると信じていました。特に何を成せということはありません。すぐに死なれると困りますが……戦に身を投じるも、家庭を築いて安息の日を過ごすも、一人で隠棲するも、貴方の心の赴くままになさってください。貴方に神格を引き継いだ段階で私の願いはほぼ満たされているようなものなのですから》
そういうのが一番困る。夕飯何がいいー? 何でもいいーとか、一番厄介なのと同じだ。でも隠棲はいいな……。
そんな事を考えていると、女神様の後光が少しずつ私の身体に吸い込まれ始めた。私光ってる。すごい。
これが神格とやらの引き継ぎなのだろう。言葉にしにくいが、体の内が拡がっていくような感じがする。
《生力、気力、精力、魔力、そして神力。貴方はこれらの力を使ってこの世界を歩んでいくことになります。貴方にとっては馴染みのないものであるでしょうが、知識をつけ修練を積む事で貴方の血肉となるでしょう。繰り返しになりますが、それらを以て何を成せということではありません。ですが、この世に遍く存在する力はいずれも、修練することでその器が広がり、格が上がり、その力の強さを引き上げ幅を広げてくれます。神力を十全に引き出すには時間がかかるでしょうが、軽度であればすぐにでも使えるようになるでしょう。もちろん、それも修練するに越したことはありません》
生力と精力は発音同じだなーなんて考えていると、徐々に吸い込まれていく後光が弱くなっていき、やがてそれも終わった。
そして女神様自身の光も薄れ、消えかけていく。
これでもう、おうちに帰れない。他に方法はあるのかもしれないが、今すぐどうこうすることはできないだろう。
落ち着いたら静かな場所に、小さな祠でも建ててあげよう。せめて私くらいは女神様のことを覚えていてあげてもいいだろう。
晴れ晴れとしたような表情──そう私には見える──の女神様とのお別れの時がやってきた。
《私は結界と浄化の神。私を私として終わらせてくれて、本当にありがとう。最期に一つ、贈り物を遺していきます。私の愛しい後継者……。貴方の、永劫の人生での、『支え』の、一つと、なれますように──》