第十四話
翌朝、身体を拭き、衣服を水洗いした。井戸から水を汲み上げるのは手間で強化を使ってみたくなったが、我慢して自力で努めた。
素振りを繰り返しているとギースが現れ、小さなパンと干し肉、それに緑色の果実のような物を渡され食べるよう言われた。これまでは夜だけだったのだが。
「今日からは身体を動かすからな、簡単なもので悪いが朝晩食べてもらう」
食事を頂けるだけでありがたい、文句などあろうはずがありません。礼を言い食べ始める。彼はそのままでいいから聞けと話を続ける。
「まずは昨日言った通り、どの程度できるようになったか見せてもらう。その後、実際に身体を動かして貰う。戦ったりはしないぞ。力を入れたり、腕を振ったり、歩いたり走ったりじゃ。それが問題ないようなら、今日は少し町の外へ出る」
外? と首を傾げる。果物は少し酸味があったが甘く、しゃくしゃくして美味しかった。リンゴとはまた少し違うが。
「ここは走り回るには狭すぎるしな。物を打つと音もするし、近所迷惑になる」
「お前さんのそれと同じくらいの長さの棒を用意した。参考になればと思っての」
そう言って、無骨な鉄の棒を持ち上げた。少し太さもあり重さは段違いだろうが、私の相棒と同じくらいの長さだ。わざわざ工面したんだろうか。
「刃物も持っていくから万が一もない、きちんと学べ」
食事を終えた私は、ギース指示の下、気力を使い始めた。
今日は立って両手を前に出している。彼の手が私の手首を掴む。
筋肉、骨、関節。抜く。全身に言われた通りに通していく。これはほんの一分程で終わり、優秀との太鼓判を押された。
そのまま身体を動かす段階へ移った。彼は私の手を掴まず、少し離れたところからこちらに指示を出し始めた。
「気力を満たしてそのまま聞け。まず右腕だけをゆっくり体の前に上げてみろ。……そして下げろ。左も同じことを繰り返せ」
「次は腕にだけ少しだけ力を入れて、ゆっくり腕の力だけで腕を持ち上げてみろ」
これには驚いた、ほんとうに軽い。腕の重さがないようだ。力を入れているはずなのに何の抵抗もなく腕が上がった。
「うん、問題ないな。一度気を抜いてみろ、違和感はないか?」
ない。普段思いっきり力を入れた時に感じるあの疲労感、それを全く感じない。
「次は指は力を入れないように軽く握って……まだ力を込めすぎるなよ。腕を上に上げた状態で気を込めて、腕を肩の高さまで振り下ろしてみろ」
風を切る音がした。また驚いた。いや、これ人体が出していい音じゃないぞ。しかもまだこれ全力じゃない。
「止め方が甘いな。腕を振る際、いい加減に振り切るようにしてはならん。力を入れて振り、力を入れて止めろ。どこまで振るのかを常に意識するんじゃ。やってみろ」
言われた通りのことを意識して繰り返す。腕がビュンビュン鳴っている。なんじゃこりゃ。
「ん、良いな。左でも同じようにやってみろ。……それでいい。次は歩いて貰う。向こう、敷地の端まで移動したら太腿の力だけで歩いてこっちに来い。地面は踏みしめるな。転ぶから走るなよ」
この年で走ったら転ぶとか注意されるのは酷く新鮮だったが、事実なのだろう。今の私は身体の動かし方を覚えた赤子も同然だ。
そして、歩いてるだけで転びそうになった。歩いてるというよりは、単に腿を上げ下ろししているだけなのだが、バランス感覚が狂う。
これを裏庭の端から端まで行って戻るのを数回繰り返した。途中少し腿に力を込めるよう言われてまたバランスを崩しそうになったが、今度はすぐ対応できるようになる。
「問題ないな、次は腕を振った時と同じ程度の強さで全身に気を流して普通に歩いてみろ。お前の思う普通でいい」
踏み出して前に転びそうになり、慌ててそれを支えようとして後ろにひっくり返った。
痛みを感じるかと思ったが……衝撃を感じた程度で痛みはない。肌が擦れた程度だ。
「最初は皆そうなる。だが、踏み出す力を弱めるな。今の気力に慣れろ」
そうして、普通に歩くよりも遥かに速いスピードで裏庭を往復し始めた。
これもまた途中で力を増やすように言われた。
「次は気力はそのままで走れ。地面は踏み荒らしてもいい」
視界が一瞬で後ろに流れて一歩目で倒れ、地を転がった。
「まぁこれは仕方ないか。少し早いが町の外に出るぞ。まず転んでもいいからとにかく走ってもらう」
気力は抜かずに着いてこいと言われ、ギースは門へ向かって歩き出す。何度も何度も追い抜きそうになった。
追い抜いて戻って、行って戻ってを繰り返しギースに続く。端から見たら絶対変な人だと思われてるよこれ……。
「あそこに、木が見えるじゃろ」
街を出て門から外壁沿いにしばらく歩くと、遠くにギリギリ見える木を指差し告げる。あそこまで走って、戻ってこいと。
「気力は今のままでいい、戻ってきたら少し気力を強めてみろ。途中で気力の強さを変えないように意識してやれ。木はへし折ってもいいが、町の防壁に突っ込んで壊すなよ」
笑いながら言われる。私も笑いたかったが笑えなかった。やりかねないからだ。少なくとも壁に激突しない自信はない。
「なるべく急停止、急加速できるようになれ。走ってる間は速度を変えずに一定になるようにな。人も魔獣もおらんが、一応衝突には気をつけろ。気力は抜くなよ」
ワシはここで見ている。と彼は食事を始めた。やたら量が多いが朝昼兼用なのかな……最初からこれをやらせる気だったのだろう。あるいは三食取る派で一食がこの量なのか。
そして私は走り出した。
(いやこれ怖い怖い怖い!)
猛烈な勢いで視界が後ろに流れていく。数歩は耐え切れたがすぐに転び……転がり回った。気力を抜いていたら余裕で全身打撲だ。
ギースの笑い声が聞こえる。一瞬ムカっとしたがすぐ深呼吸して落ち着く。十手がなければこのまま殴りこみに行っていた。この呪いは激情を殊の外煽る傾向がある。気付いたのは井戸から汲んだ水をぶちまけた時だ。
再び私は走り出す。そして転ぶ。何度か繰り返し折り返し、慣れたと思いきや壁が猛烈な勢いで近づくことに恐怖を感じてまた転ぶ。
ギースは無情にも次はもう少し気力を強くせい、などとのたまう。今の力でもう一往復したいのだが……バレるよね、言われた通りにする。
慣れてくると、風を切って走るのは気持ちよかった。まだ余計なことを考えると転ぶけれど。
何より身体が痛くならないのがいい。足裏も横っ腹も腰も、呼吸も問題ない。痛いのは転んだ時だけだ。それすらもそう大したことはない。
無心で何往復かしていると、復路にてギースが立ち上がってこちらに手を振っているのが見えた。
速度を変えないまま走りきって急停止する。
「問題なさそうだな。気力はそのまま歩いて着いてこい。気力なしで歩くのと同じようにな。追い抜くなよ」
追い抜きを咎められた。力を込めたままゆっくりと歩いて着いていく。
(うぁぁぁこれきっつぅぅぃ……)
力を込めているが伝えられない、踏み切れない。エネルギーを全力で無駄遣いしている気分だ。足運びが雑になるとそれだけで勢いづいて倒れそうになる。
「きついじゃろ? しかしそれも修練よ。疲れは食べて飲んで眠れば癒える。気力も魔力もな。そして筋力だろうが魔力だろうが、気力だって使って疲れなければ育たぬものよ。お前さんは可能な限り、気力を使い続けて生きよ。今のように、周囲に合わせられるよう擬態してな」
流石師匠。色々と考えている。
走ればすぐの距離をたっぷり時間をかけて散歩し──私はだいぶ苦しんだ──おそらく町の南、殺風景な岩場へとやってきた。
街の建物や外壁に使ってる岩はこの辺りから切り出したものなのだろう。色が似ている。
「この周辺の岩場は加工するにはちと硬すぎるのでな、放置されておるのよ」
だから、打ち据えて破壊しても問題はないのだ、と。
「気力使いに限らず言えることではあるが、大きく振りかぶり、それを振り下ろすというのはあまり良くない。──無論そうした方が威力は出る、上から下へ思いっきりというのはな。だが、それは次が続かん。隙も大きくなるしの」
ギースは岩場に持ってきていた鉄の棒を一本、片手で正面に構える。剣道での正眼の構えだったか、そんな名前だった気がする。それに似ている。
そして、そのままの姿勢からおもむろに岩場の一つを叩き付けた。けたたましい音が鳴る。岩場は穴が開いたように抉れていた。
いや、突き付けたのだろうか。速すぎてよく見えなかった。あまりにも鋭いそれは、打と突の区別がつかない。
「そんな戦い方を続けていれば、遠くない未来に死ぬ。隙を作らず、隙を突け。そして隙がなければ作れ。それこそが打撃の本領だとワシは思っておる」
「立派な兜や鎧を身に着けようが、中身は人じゃ。頭を強く打てば気を失うし、関節部を壊せば動けなくなる」
落ちていた大きめの石を掴むと、それに向かって鉄の棒を打ち据えた。石が砕けて飛び散る。
「一撃で仕留められずとも良い。そう出来るに越したことはないがの。だが、崩せたのならば二の太刀で必ず殺せ」
「打と突とを使い分けろ。兜を打ち、隙を突け。突きとは本来避けられやすいもの。じゃが、避けられない相手を突けば、当たるのは自明の理であろう」
彼は続ける。それは魔物相手であっても変わらん、と。
「まぁ、とりあえずやってみよ。まずは暴力に慣れんとの」
彼は最後に背後に向けて鉄の棒を横薙ぎに振り抜くと、岩場の上半分を吹き飛ばした。
身体強化を使っていれば身体は痛くならない──。そんな無邪気な結論に至っていた数刻前の私を殴りつけたい。
まずは思うがまま、とにかく力を振るえ。その指示に従い、私はひたすら岩場を打ち据えていた。
上段に構えて振り下ろす。正眼に構えて突き付ける。振るように突き付ける。振り切らないように、柄ごと腕を内側に捻りこむようにして。
反動で身体が痛むのは、守りに働きかける力よりも攻めに働きかける力の方が強いからだろう。
何度も何度も腕を振るうにつれ、どう力を込めれば威力が出るのかとか、どこに力を込めれば反動が和らぐのかとか、色々なことが分かるようになってくる。
足を踏み込むようにして前に出し、突き付ければ確かに威力は出る。だが、それでは次の一撃が遅くなる。
足裏は動かさず、左で蹴って右で抑えるようにして、その反動を──、やりすぎると次が遅くなる。身体も不安定になる気がする。いや、反動にこだわらなくても──。
手首も肘も、肩も腰も、膝も足裏も、私に教えてくれる。より良い暴力の在り方を。
やがて終止の声がかかる。気を抜いて一息入れると、身体はもうガクガクになっていた。
「これに関してはお前さんに教えられることはないのぉ。相性がいいんじゃろうな、武器の持ち替えを本気で勧めようと思っていたんじゃが、中々どうして様になっている」
お褒めの言葉を頂いた。やっぱり嬉しい。何よりも十手を認められたことが。
「ありがとうございます。しかし、まだ岩を崩すには程遠いです。このまま泊まり込んででも続けたいのですが……」
「駄目だ。休まんと必ず身体を壊す。今お前さんの身体にかかっている負荷はこれまでの比ではない。本来なら明日一日は休養じゃ」
一蹴される。まぁ、これ以上無理なのは自分の身体だ、よく分かっている。
「明日は少なくとも昼まで気力を使うのは禁止。破るなよ。その後出かけるからそのつもりでおれ。昼まで寝とってもいいぞ」
そして徒歩で屋敷へと戻る。走ればすぐだと進言したが、ギースは頑なにそれを認めなかった。