第百三十七話
急ぎ王都まで出戻り、魔導具屋でコンパスを、本屋で大雑把な世界地図を購入する。
方位計は割りとどこにでも売っているものだということを過去の私は知らなかった。良い物は多少値が張るが、そんなことを言っている場合ではない。
そのままコンパーラまで向かい、ありったけの保存食と水を樽で購入する。次元箱の容量はカツカツになってしまったが、そんなことを言っている場合ではない。
そのまま地図と照らし合わせ、セント・ルナの真北の見当をつけて北大陸を移動すると──。
(力技ここに極まれりだな。認識阻害プラス転移での単独渡航と参りましょう)
姿を消して単身海へと駆け出した。アホかお前はと言いたいところではあるが……そんなことを言っている場合ではない。
三百六十度、見渡す限りが一面の水平線となって久しい。本当に進んでいるのか疑わしくなってくるのだが、船と出会いそれを追い越し、真正面に見えていた船とすれ違い……なんてことを繰り返していれば、なんとか……自我を保っていられる。
「気が狂いそうだ……これ下手したら遭難するよね。っていうか普通遭難するよ……」
無心でポンポンと転移できるわけではない。きちんと視程の限界位置を見据えて……そこに転移。更に転移まだまだ転移。
下手したら船にぶつかるどころか、船の内部に転移しかねない。機関室にでも飛び込めば死ぬかもしれない。流石に防御系の結界まで張ってはいられない。
限界まで転移を続け、神力が枯渇しそうになったら走る。魔力や気力が尽きそうになれば微妙に回復した神力を使って転移を繰り返し、いよいよ空っぽになれば次元箱に避難して眠りにつく。海面を走るより空を走った方が都合がいいと気付いたのは一泊してからだ。それからはずっとお空を駆けている。
気が急いて仕方がない。一分一秒でも早くルナへ向かわなければ……。
パイトに残されていた言伝は、十年以上前の物だった。
「本気を出せば……こんなもんよ」
全力で南進すること二泊と少し。お船の百倍の速度でお昼のセント・ルナへと到着した。神力も魔力も気力も限界だ。多少休息を取ったからと言って疲れが直ちに癒えるものでもない。正直もう……一歩も動きたくない。
しんどい身体に鞭を打ってよろよろと町中を駆ける。神力は空っぽ、魔力も尽きかけている。かろうじて残っている気力を振り絞って無理を押す。ここで倒れるわけにはいかない、家に……あの家に向かわねば──。
私の家、エルフ工房。だがそれは今ではない過去の話で、今は一度すれ違ったきりのギースの持ち家、家主不在の空き家だ。
中の状態が良いことは知っているが、一見でそれを推し量るのは難しい。
長らく開かれていないであろう茶色いレンガ造りの門には蔦が這っており、庭も草が伸び放題で荒れ果てている。雨戸はしっかりとしまっているし、結局手直ししなかった外の井戸も……ふさがったままだ。人が住んでいる様子はない。
玄関の扉も当然しっかりと鍵が掛けられており……内部には侵入できそうにない。
「敷地内までが……言い訳できる限度だよね。ここから先はダメだ。門の外で待ってる分には怒られないよね?」
フロンは毎日ここを訪れているんだろうか。あの迷宮大好きっ子がそれは……流石に考えにくい。
「十年って何だよ……こっちからフロン探した方が早いかな……ああもう疲れた……どうしようこれから」
門に背を預け座り込む。冬が過ぎていてよかった……この時期なら野宿したところで死ぬことはない。
考えもまとまらない。疲れきった身体を襲う睡魔に抗うことができようか、いや、できはしない。
「……クラ! サクラ! ちょっと! ねぇ、起きてよ! サクラーッ!」
ガクガクと身体を揺さぶられ意識が覚醒する。うるさい。
こんな起こし方はソフィアもギースも、もうすっかり顔も思い出せなくなってしまった実の兄姉もしない。
「おはよう。ごめんねリューン、もう少しだけ寝かせて……色々品切れで本当にしんどいんだ」
「サクラ!? 生きてるのね!? けっ、怪我はないの!? 病気なの!?」
怪我だと思うなら身体を揺さぶるのは止めた方がいいと思う。でも今はそんなことどうでもいい。
「ないよ、違うよ。後できちんと話すから、今はお願い……」
やっと会えた──私の大好きな泣き虫エルフ。
だが今は再会を喜ぶ余裕がない。夕焼けの下、大好きな温もりをギュッと抱きしめて……私は一人深い眠りに落ちた。
「その女性が探し人か? 随分と待たせたものだな」
「うん、うん……やっと会えた……もう、どこで道草食ってたのよぉ……」
「とりあえず連れて帰ろう。部屋を取らねばな」
目が覚めた時、私はギースの空き家の前でも牢屋でもなく、どこぞのベッドの上にいた。
やたら綺麗な……宿の一室だろう。過去の私一人ならまず選ばない、リューンと二人でも選んだことのない、ちょっとお高めのいい部屋だ。
魔力はほぼ満タンといった具合に回復していると思う。身体強化……リューンに切られたか。寝る前に張り直したはずなんだが、彼女は私の術式を二つ共把握しているせいか、私に触れていれば外からでも操作ができる。
神力の回復具合からして、おそらく……丸一日以上眠っていたのだと思う。これでもまだ全回復してない辺り、やはり器の伸び方は気魔力とは違って緩やかなようだ。単に時間当たりの回復量が少ないのだろうか。
(無理は禁物だな……。特に神力を切らし続けるのはまずい。気をつけないと……)
さておき。それはさておきだ。この少し大きめのベッド、そこから漂う残り香から察するに、彼女はここにいたようなのだが──どこ行ったんだろう。
枕元に十手が置かれていて一安心だが、とりあえず服を返して欲しい。部屋の中には見当たらない。
寝続けていたためか身体が痛い。髪もボサボサだ……お風呂入りたいな。
探査を掛けてみるも近場に人の反応がない。このくらいの部屋であれば、内湯かシャワーの一つはありそうなものだが──。
結局お風呂は見当たらなかったので、寝室の窓を開けて大人しくしていた。微かに潮風の香りがするその部屋は……港からは離れているが、結構いい区画の宿の一室ということで間違いなかろう。喧騒が耳に届く。今日もルナは賑やかだ。
(さて、リューンは私のことを知っていた……フロンやリリウムはどうなんだろう。もしかしてリューンも過去に飛ばされ……いや、戻されたんだろうか。となると先にリューンと腹を割って話した方がいいな……)
リューンが戻されたとすると原因は何だ? 十中八九私の死亡に巻き込まれた、ってことになると思うんだけど……彼女は別に神格持ちというわけではないと思う。
(身に付けていたものがほぼお揃いだったから? でもそれでどうして巻き添えに……って話ではある。そもそも何で十年以上前まで飛んだの? って話でもある。考えても埒が明かない。どうしたものか)
次元箱の中に服はあるが、下手したら私が次元箱を持ってないことに気づ──いや、絶対に気づいてるよなぁ。あれが私の身体をまさぐらないわけがないんだよ。その服どこから盗ってきたの? って話になる。
盗ってきたか……もしかしたらリューンも、全裸でどこぞに飛ばされたのかもしれない。黒いのも魔導服もなく……それなら私が次元箱を没収されていることも不思議に思わないかもしれない。
よもや、次元箱を取り上げる手段があろうとはね……さすが私の女神様。
神力がもったいないので探査は使わず、身体強化だけ掛けてぼうっと寝転んでいた。ドタバタとした足音で微睡みかけていた意識が浮上し、身体を起こしたところでエルフが駆け込んできた。
「サクラ! サクラァ……よかった、起きた……起きたよぉ……」
「おはよう。久し振りだね、リューン。会えて本当に嬉しいよ」
「嬉しいよぉ……嬉しいよぉ……サクラ……サクラァ……」
「はいはい、サクラですよ。ねぇ、お風呂入りたいんだけどこの辺にない? 一緒に入ろうよ。あと服返して」
「うん、うん、いいよ、いいよぉ……一緒に入ろぉ……」
私が風呂にありつけたのは翌朝になる。朝までこの泣き虫エルフは使い物にならなかった。
ルナの公衆浴場にもきちんと個人風呂付きのものがあり、王都ほどではないがパイトよりは綺麗かな……といった感じの施設での朝風呂に私はご機嫌だ。今はリューンに身体を洗われている。
「ねぇリューン。今も結界石作れる?」
長い時間を掛けて全身を泡まみれにされ、それが洗い流されたタイミングで小声をかける。まだ私達は……ろくに話もしていない。
「うん、作れる。浄化橙石は?」
「たぶん二百はある。先にそれ作って貰ってもいいかな。万が一にも……他の誰にも聞かれたくないんだ」
「いいよ、それがいいと思う。話はそれからだね。──ねっねっ、私も洗って?」
あぁかわいぃ……これが私の嫁です。
「もちろんだよ。でも、まだアレはなしね」
本当は念入りにご奉仕したいのだが……今はまだ我慢だ。タオルも使わずに洗い洗われ、二人して言葉少なに長風呂を楽しんだ。
湯船で後ろから抱きしめて一点だけ確認をする。
「フロンとリリウムにはどこまで?」
「何も言ってない。リリウムは別行動してる。たぶん……二人とも違う」
「ありがと」
抱きしめているとムラムラしてくるが……流石にTPOは弁えている。