第百十七話
「見てください! ルナが見えなくなりましたわ!」
「そうだね、満足した? 寒いから部屋に戻ろうよ」
「もうっ、サクラには旅を楽しもうという気持ちはありませんの? せっかくのお休みですのに」
私は彼女の年齢を知らないが……もしかしたら、外見相応に若いのかもしれない。あっちへ行きましょうこっちへ行きましょうと出港早々に船内をあちこち連れ回され、今はルナが視界から消える瞬間を目にしようと住居区の上にある展望スペースに何時間も居座っていた。
冬の盛りは過ぎたとは言えまだ寒い。海上なら尚更だ。このお嬢は日々の修行で熱波寒波に延々と晒され続けた結果、信じられないほどの耐熱耐寒性能を会得するに至っている。冬場の風呂上がりに下着一枚でうろついているし、なんならその格好で薄布一枚被って暖房も使わずに熟睡する。遅れて寝室に入ったフロンはさぞ苦労していたことだろう。
そして今もこの寒さの中、白いキャミソールとホットパンツというどこかで見たような恰好で楽しそうに拗ねている。流石魔導具と言うべきか、白い上に生地が伸びても二つのポッチは透けていない。
私は耐寒付きの魔導服を着込んでいるが、剥き出しの腕と足元から吹き込む冷風はどうしようもない。さっさと部屋に戻りたい。
「楽しんでるよ、でもそれ以上に寒いんだよ。リリウムよく平気だね……それ耐寒付いてないのに」
「慣れますわ!」
本当に慣れてしまっただけな辺りが……恐ろしいポテンシャルだ。
パイトからルナへ向かう際の船旅はそれなりに色々とイベントがあった。リューンが鑑定や身体強化の術式を刻んだり、その鑑定で一波乱あったり。
だが今は特にすることもない。気魔力を枯らして身体を動かして食べて寝るだけだ。手合わせしようにも甲板で暴れるわけにはいかない。部屋の中で槍は振れないし、リリウムは楽しくなってくると擬態が疎かになる傾向があるため、屋上や甲板でこっそりと……ともいかない。船を壊してからでは遅い。
「サクラっ、退屈ですわ!」
毎日毎日飽きもせず一人で船内の探検に出ていたリリウムがわざわざソファーの背中に回り込み、そのまま抱き付いてくる。人目……と言うよりはリューンの目がないからか、このお嬢は最近やたらと甘えてくる。
ここは往路とは違い普通に左右に部屋があり、人がいる。きちんと扉を閉じ鍵を掛けるようになったのは良い成長だ。初めはその辺が緩かった。
「私も退屈ではあるけどね。かといって本を読むくらいしかできることないし」
「リューンと二人でルナまで来たのでしょう? どうやって時間を潰していましたの?」
「溜まってた物品を鑑定したり、魔法の修練をしたりかなぁ。術式を刻んだり本を読んだりもしていたけど」
「えぇ、つまらないです……。もっと何かありませんの? わたくしなんでもしますわよ?」
頬をひっつけたまま後ろから抱きしめられるというのは……ちょっとドキドキするな。薄着なので肌と肌が密着する面積が大きい。リリウムは暑さ寒さに耐える修行の後に私が念入りの手入れを施しているので、肌の艶という点では私以上かもしれない。最近は湯たんぽを抱いて寝ていない、とはいえ……。
「暇ならちょっと話に付き合ってよ。色々教えて欲しいことがあるんだ」
私もそこまで節操なしではない。本を閉じ、法術師への擬態に本腰を入れる計画を進めることにした。
私の感覚では聖女というと、何やら宗教関係者で唯一無二の、高位の女性というイメージが強かった。
だがこの世界において聖女というのは、騎士や神官といった聖職関係者の役職の一つといった意味しか持たない。女神官と聖女に具体的に違いがあるのかは分からないが。
そして求められる素養も宗派によって様々であり、大抵は瘴気を明確に感知できて、守りの術式に適性があれば聖女を目指せると言う。
別に神の声が聞こえるだとか、特殊な技法に適性があるとか、神力が扱えるとか……そういったものは必要ないわけだ。
酷く曖昧な境界だと思う。そして法術使いと他の魔法使いとの区別もまた曖昧だ
一般的には魔物の浄化ができればそれだけで法術使いと名乗って問題なく、浄化だけに専念する人もいれば、人によってはそれに加えて攻撃系の放出魔法を使ったり、支援に徹したり、剣を振るったり……人が私を法術師と呼ぶのもまぁ、別におかしなことではなかったというわけ。
法術使いと聖女には似たようなものを感じていたのだが、その実ほとんど無関係に近かった。その辺りの区分けはかなり適当なものだと思っておけばいいだろう。
「私が浄化使えるだけで法術師を名乗ることは、別におかしなことではないんだね?」
「それは確かです。と言いますか、浄化そのものが結構希少な技術ですので……組織に属すればまた違うのかもしれませんが、浄化しか使えない法術使いに文句を言うような方はかなり少ないのではないかと。一部の魔導具は浄化品がなければ動きませんもの」
内心どう思われているかは正直分からない。今更なんでそんなことをわざわざ聞くのか……程度は思っているだろうか。
「法術師が結界を使うことはおかしくない?」
「おかしくありませんが、結界もまた適性に大きく左右されると聞きますし……兼ね揃えているのは珍しいかもしれませんわね。話に聞いたことはありますが、わたくしはお使いになる方に直接お会いしたことはありません」
悩ましい。割りとレア技能にレア技能が重なると……目立つかなぁ。
私の目標はまず結界を使えるようになり、この世界で生き抜くことだ。エルフ達と穏やかな余生を送ることではない。
結界と浄化の両立がおかしなことではない以上、私は冒険者を名乗るより法術師として生きていく方が生きやすい。問題は普通に戦うと魔石の質が高くなりすぎることだが、手を抜いて殴打した後に浄化して倒せば問題なく質は下げられる。
それからの旅程の間はひたすら身体を動かして過ごした。
お肉がつかないように素振りもだが、ストレッチを特に念入りに行っている。今では私の身体もだいぶ柔らかくなってきた。アクロバティックな動きが増えてきたし、怪我をしないようこれは……女神様曰く永劫の間、続けていくことになりそうだ。
リリウムが槍を振れないことを不満気にしていたので、船員に聞いてみるとあっけなく許可が出た。特定の時間の間、その区画内だけではあるが。
爛漫な笑顔を浮かべて喜ぶ姿は大変愛らしいが、女としてそれでいいのかと思わずにはいられない。ちなみに当然ではあるが打ち合いは禁止されている。
そして部屋の外が使えるということは遠当ての練習ができるということでもある。毎日へとへとになるまで撃ち尽くしているのを見るとやっぱり少し羨ましい。今となっては以前ほど欲しいと思わなくなったが、私は適性の問題で一切遠当てが使えない。リリウムは習うより慣れろのタイプなので、私に指導をすることもできなかった。
「サクラサクラっ! ルパが見えてきましたわ!」
「そうだね、満足した? 暑いから部屋に戻ろうよ」
「もうっ、風情というものがですね──」
まぁ、旅なんてこんなものだ。思えばリューンもリリウムも、私もだが一切船酔いをしなかった。
リリウムは船酔いするらしいとフロンから聞いていたし、私はそれなりに車酔いをする方なので前回少し気にしてはいたのだが……至って元気だ、不思議だね。
とてもあっけなく半年過ぎ去ってしまった。出発前の診断では格が上がっている様子はなく、刻める術式は一つが限界だろうとのことだった。
パイト滞在期間もルナへの船旅の間も毎日隈無く修練は続けるつもりだが、私の格はやはり上がりにくいんだろうな……。器がぐんぐん広がっている実感はあるのだが、おそらく気力にも似たようなことが言える。死竜に敗北を喫したあの日以来気力を強める努力を続けているが、限界が上がっている気が全くしない。一方で器はこれもまた延々と広がっている実感がある。
(膂力は三種、神力まで含めれば四種強化でかなり出せるけど……女神様、頂点争いができる日は遥か遠い未来になりそうです)
「風情がないのは分かってるけど、日差しがきつくて暑いんだよ。リリウムよく平気だね……それ耐熱付いてないのに」
「慣れますわ!」