第百十四話
「あー……やっと終わった……。待たせてごめんね」
「いや、これを前に文句など言えようはずもない。三万と六百個、確かに受け取った。改めて礼を言わせてくれ、ありがとう。これでどれだけ維持ができるか……何度考えても心が踊るな!」
そんなある日、ついにノルマ分の幽霊大鬼狩りが終了した。フロンは魔石が収められた木箱を並べてニヤニヤしている。リューンはにこにこと、リリウムも慣れたもので、呆れたような顔で透明な宝石を眺めていた。三万個……我ながらよくもまぁこんなに集めたものだ。パイトに卸せば百十五億になる。それだけの幽霊大鬼を狩ったということでもあり……よく絶滅しなかったな、霊体ハンターだな私は。
さておき、今後も幽霊大鬼を定期的に狩りに行くことは全員に伝えてある。私もある程度ストックは欲しい。結界の練習ばかりでは身体も鈍るしね。
「大きい浄化黒石があれば完璧なのにね、未だにスライム以外から取れてないんでしょ?」
「一通り迷宮内は当たったんだけど、スライムから麦の粒みたいな大きさの物しか取れなかったよ。迷宮外で瘴気持ち相手にしないとダメかも」
「瘴石も浄化黒石も……言っては何だが需要がないからな。外だとある程度供給も多いし高価な物でもないが、姉さんからしてみれば真石より余程貴重な物か」
私はルナで単独行動をするようになってから、階層の魔物とそこで取れる魔石の情報を集めて回っていた。修行場を探すついでにではあったが。フロンが居なければ中層以降を試そうとは思わなかっただろうが、彼女の協力のお陰で六十五層までは全て網羅を完了している。
三百以上の階層を探して……瘴石、浄化黒石を落とす魔物はスライム以外に一種も出てこなかった。迷宮の死層は霊体が出てくる決まりでもあるのか、魔物のサイズを問わず、一貫して霊石、真石の採取しかできない霊体ばかり。瘴気塗れの空間なのだから、一種類くらい出てきてくれれば……話は早かったのだけれども。
「必要ってわけでもないんだけど、ここだけ空きがあるのは……魔石蒐集家としてちょっと思うことがあるよね」
「ルパ方面にも瘴気持ちくらいいるだろう、ついでにいくつか採取してきたらどうだ? 大して価値のあるものでもないが……気休めにはなるだろう」
「いないこともないけど、それ探し回るのは大変だよ……それだけのために遠出するくらいなら、早く帰ってきて欲しいな」
「量を集めるのなら南大陸まで降りる方が手っ取り早いかもしれませんわね。向こうへは……あまり船も出ていませんけれど」
私が女神様に呼び出された大陸は北大陸と呼ばれている。今居るセント・ルナはその南の大洋にある島。更に南の大陸には瘴気持ちが多いのだろう。
ちなみに西、東にもそれぞれ大陸があるし、大陸に分類されない中、大規模の島もいくつもある。伝聞によれば大陸一つに国が一つというわけでもない。大きさも環境も様々だ。
「南かぁ……行くかはともかくとして、次はどうしようかな……ルナに居てもいいけど、色々見て回りたいし」
「特に目的があるわけではないのか?」
「ないね。強くなって生きていければ割りとどこでもいいんだ。やりたいことがないわけでもないけど……あまり期待もしてないし、強いて言えば観光かな」
ルナの自宅は居心地もいいが、ここに居座っていても私の疑問は何一つとして氷解しない。
私の愛しい女神様のこと、敵対神のこと、その呪いのこと……。この世界の神々が、私の女神様に対してどのような立ち位置でいるのかも興味深いし、魔導具や魔法についてもゆくゆくは知識を深めたい。色々と世界を見て回るのは目的とも言えるのだが……そのためにはせめて、私が法術師として擬態できる程度のスキルを身に付けてからにしたい。
全ての魔法師が放出系の攻撃魔法を身に付けているわけではないように、法術士という立場の人達も、身に付けているスキルは様々だ。
共通しているのは精々浄化を使えることくらい。結界はともかく、引き寄せに類する術式も見つけられていないし……いっそこれは諦めてしまってもいいかもしれないが、そうすると大っぴらに浄化を使えなくなる。
(いや、使えなくてもいいのか……? 浄化のことを知っているのはパイトで知り合った人達の一部と、この家にいる面子くらいだ。お金を稼ぐ必要もなくなるし……冒険者としても……冒険者?)
「しまった! 冒険者のギルド証……失効してる……」
愕然とした。今の今まで全く頭になかった。そういえばあれ、一年でダメになるんだっけ。
「更新してなかったんだ……でもサクラ、依頼はほとんど受けてないって言ってなかったっけ?」
「全く受けてない。どうしよう、これがないとガルデに入れない……ルナで再登録できるかな?」
「できますけれど、失効するまで放っておくだなんて……呆れましたわ」
「ある程度は階級を上げておかないと大きな国では冒険者は審査で弾かれたりするからな。これを機に多少は上げてみたらどうだ? 更新期間も延びるぞ」
面倒くさいし正直あまり気は乗らないのだが……そうも言っていられないか。私は見た目人種なわけで、何十年かすればどうせ捨てて作り直す羽目になる。天辺を目指すというわけでもない。
(登録名も偽名がいいかな……名前を偽るようなこと、本当はしたくないんだけど……思えば最初にサクラで登録したのは軽率だったな)
家屋の二階から階下を見下ろせば、人によっては恐怖を感じるだろうと思う。十階ならかなりの人が恐怖を覚えるだろう。私は高所を別に苦手としていたわけではないと思っていたが、それは単に高い場所に立つ機会がなかっただけ。いざその状況に置かれてみれば普通に怖いのだということを初めて知った。
空を飛び回るというのは、つまりそういうことだ。
「制御をミスったら落ちて死ぬんだよなぁ、これ……飛行機のなんて安全なことか」
南国の……北大陸から見れば南国の美しい青い海。天気もいい、魔物ではない鳥も気持ちよさそうに空を飛んでいるし、絶好の休暇日和だ。
魔力で作った一枚板の上で、横風に吹かれて足がプルプルしていなければ、最高のロケーションを独り占めして楽しんでいると言えるだろう。
初めはただの興味だった。踏み板を登っていけばどこまで上がれるのだろうと、足場魔法に慣れた私はふと考えてしまった。なんとも愚かしい。
一歩一歩高度を上げ、美しい景色を眺めながらの散歩が楽しくなってきて後先考えず段を登り、ふと強く吹きつける風に違和感を覚えて……アホみたいな高さまで達してしまっていたことに気づいた。
座り込みたいがそれはできない。なぜならば私は尻から魔法を放てないからだ。足を地面に向けておかなければ、魔法が切れた瞬間に落下する。それにまだ魔法を維持するにはそれなりに精神を集中せねばならない。座り込んだら破綻しそうだ。
こういうものは、往々にして登るよりも降りる方が難しいものだ。視線を下に向ければ否応なしに恐怖が心を握りしめる。これが今の私だ。
「お目付け役がいないからって調子に乗りすぎた……どうしよう、これ超怖いんだけど……」
怖いから下を向きたくない。お陰で涙が溢れるようなこともないし、まだ下着を濡らすようなこともないけれど、それも時間の問題かもしれない。乗り物で空を飛んでいるのとは違う、強めの風が肌を、腕や首元を容赦なく撫でているのだ。もうこの際海中でもなんでもいい。落ち着ける場所に行きたい。
(ここ地上何メートルくらいあるんだろう……結構な数の段差を駆け上がったんだよな……私の脚力で、結構な段差を、駆け上がった。……ああもうやだぁ……)
次元箱に逃げ込めば一時は凌げるが、その後が地獄だということくらいは理解している。箱から出た時私の足元に足場はない。つまるところ、私には今勇気を出して地面まで降りるしか手がないわけだ。
風が足元から吹き込んでくるのもまた、恐怖心を煽るのに一役買っている。裾がバタバタとはためいてはいないが、冷たい風が私の下半身を容赦なく撫でている。タイムリミットも近い。日が海面に沈もうとしているのがここからはっきりと確認できてしまっている。
メガネの魔導具で見えるとは言えど、闇は人を恐怖で縛るのだ。高所プラス暗闇に耐えられるほど私の心は……考えれば考えるほど泥沼に陥っていく。ああもうだめだあぁぁ……。
余計なことを考えてしまえば集中が乱れる。恐怖で滅茶苦茶になっていた私の頭では、術式を維持することはできなかった。
「馬鹿じゃないの!? いつまで経っても戻ってこないから! もうっ……ほんっとうにっ、馬鹿じゃないの!?」
「猫じゃないんですから……そんな、降りられなくなったって……」
「ごめんなさい……」
私が落下したのが沖合だったのは本当にただの偶然でしかない。当時の私を唯一褒めてあげられる点があるとすれば、何も考えずに沖合へと足を進めていたというこの一点のみ。
大きな水柱を上げる勢いで海面に叩きつけられた私が濡れネズミ姿で自宅に帰り着いたのは、辺りが暗くなってからだった。
最初は一様に心配されたのだが、事情を説明したところ……フロンは大口を開けて笑うし、リリウムは呆れたように苦笑してくれていた。
笑ってくれた方がまだ気が楽だ。そしてリューンがもう、怒る怒る……。