第十話
「この辺は深かったはずです、少し下った……あの大きな石があるあの辺り、分かりますか? あの辺りからこちらに渡ってきて下さい」
女性に言われた通りの場所まで移動して、渡河に移る。騙そうとしていたわけではないようで、膝の辺りまでの水深しかない。
ざぶざぶと歩きながら、今後の事について考える。そうしなければいけないのだが、少々疲れた。思考するのが億劫だ。
(散々考えて最初から詰んでいた。そりゃないよ。でも、私には必要なことなんだ。これからもずっと)
とりあえずどうしよう、ここで武力に訴えるのはバッドエンド一直線なので駄目。必要なのは食べ物と情報……お腹空いたなぁ。
糖分が欲しい、先に草でも食べておけば……いや、言っても仕方ない。
町に入ることができるのならば、まず貨幣を稼ぐ手段が必要だろう。それもできるだけ身体を使って──いやらしい意味ではなく──強さの糧になるような。
力を何かに使う前に、その前提となる力をつけなくてはいけない。今の私の筋力は並もいいところだ。地力の強化は急務だと思う。
この世界にきてからやたらと泳いだり歩いたりしているせいか、特に持久力が伸びているのは感じている。だがまだ全く足りていない。修練になるような、そんな仕事があればベストだ。
次点で直接的な魔物退治など。そんな仕事があればとは思うが、今の私に任される仕事など高が知れていそうだ。魔物討伐は経験的な意味でもなるべく数をこなしたいのだが。その次に対人戦の修練になりそうな、人間を合法的に打ち据えられる仕事……これはないかな、流石に。
今の私に最も必要なのは戦闘力。それに関する知識も必要だ。
女神様が言っていた生力を始めとしたいくつかの力、まずはそれに対する知識が欲しい。それらを鍛える手段まで判明すれば十全だろう。
誰かに教えを乞うか、書物などを漁れば知ることができるのか……。神力だけは自力で何とかする必要があるはずだけれども。
盗賊を始めとした犯罪者、それを殺したら罪になるのだろうか。その辺の法知識とまでは言わなくとも、常識も要るな。あまり変なことを聞いて回って注目を浴びるのは困る。
町に入ることができても、近くの村や町、そういった地理についても学んでおく必要がある。今から案内される町は即脱出してしまってもいい。
「その辺りからこちらに登ってきて下さい! すぐに道が見えますので、こちらに合流できます!」
ああ嫌だ、誰かと……母娘に護衛、これも一人二人ではないだろう、きっと数人はいる。囲まれたら終わりだ。悪人でないことを願うことしかできない。
団体行動ができないほど人格が破綻しているわけではないが、それとこれとは別問題だ。
指示された場所は人が頻繁に通っているのか踏み均された跡がある。子供でも行き来できそうだ。
そこを少し苦戦しながら上がると、すぐに一目でそうと分かる道が確認できた。
手に付いた砂を払い、駆け足で合流を急ぐことにした。あまり待たせるのも印象はよくないだろう。
「お疲れさまでした。このまま連れと合流しようと思うのですが、よろしいでしょうか」
女性は近くで見るとはっきり分かる、美人さんだった。
森で暮らしているわけではないだろう。肌は白くとても綺麗で触れば滑らかそう。やはり出はいいとこのお嬢様か何かだと思う。
幼子もやはり可愛らしい。近くで見ると本当に瓜二つといった感じで、将来この娘も美人になるのだろうな、という予想は絶対に外れないだろう。
少々ふくよかな気がしないでもないが……成長期ならこんなものかな。
「お待たせして申し訳ありません、何分不慣れな物でして。はい、こちらはそれで構いません。どうぞよろしくお願い致します」
十手を右手に握り、前で手を組むようにして右手首を左の手のひらで抑えながら答える。
昔の人が刀を抜かないように右手を抑える仕草、それが人に安心感を与えるとかなんとか、そんなことをどこかで説明されたのを思い出したからだ。バイトでだったかな?
十手の存在は隠せない。母娘、少なくとも女性の方には既に見つかっているし、護衛にも隠し通せないだろう。服の中も無理だし短パンに挟むわけにもいかない。森の中に隠して後から取りに戻るというのも却下だ。
これを手放せば私はすぐにでもヒステリックに騒ぎ出して、最悪殺されるところまでいくかもしれない。平民一人の命は日本とは比べ物にならないくらい軽いはず。
護身用の武器を持っていること自体は別におかしくはないだろう。剣でも鉈でも槍でもないのは、不思議がられるかもしれないが。
(十手と言って通じるだろうか、鈍器……棍棒? 杖、だとおかしいな)
「では、先導しますので付いてきて下さい。足元にお気をつけて」
そう言って女性は歩き出し、幼子もその横に駆け足で並ぶようにして続いた。こちらをちらちらと振り返り見ているのが可愛らしいが、どう見てもその顔には警戒の色が強い。お前なら害することはできるとか言ったしな、仕方ないね。
近場とは言っていたが、幼子を一人で護衛の元へ戻すほど安全な場所ではないのだろうか。安全でも流石にしないかな、過保護という程でもないだろう。
「はい、お手数おかけします。ありがとうございます」
接近するのも緊張するので適度に、五、六メートル程距離を置いて後に続く。何か話した方がいいだろうか、あまり騒ぐのも良くないだろうし、声をかけられたら返事だけするようにしよう。私はそもそもあまり社交的な方ではない。
道は人や獣も通るのか、踏みしめられてしっかりとしているものが続いている。所々木を伐採した跡のようなものが確認できることから、森に入る人間にはよく使われているのだろうことを察せられる。あまり鬱蒼とした印象は感じず、視界も悪くない。
五分程歩き、視界に切り開かれた広場のようなものが見えてきた。
男が二人に女が一人。辺りには大きめの背負鞄二つに幼子が持っているものより大きめの籠が一つに薬草だか野草だか、それなりの量が摘み取られているのが見えた。この三人が護衛だろう。
物音で私に気付いていたのだろう年配に見える男だけが立ち上がり、刺身包丁のような細身の刃物を油断なく構えていた。他の二人は私に目を留めるまで気付かなかったようで、慌てて立ち上がり腰の刃物を抜く。
私は年配の男にだけ軽く会釈をすると、護衛と並んだ母娘と向かい合うようにして足を止めた。
「お嬢、こちらの方はどちら様なんで?」
年配の男が女性に尋ねる。不用意なことをすればすぐにでも襲いかかってきそうだ。睨みつけるとまではいかないが、その目に油断の色は一切見えなかった。身体はがっしりとしているが背はそれ程……私よりも頭一つ分程低い。人間というよりは……ドワーフ? 鉱山と鉄と酒と、そんなイメージのあれだ、あんな感じ。ひげは剃っているようだけど。
「水源から三つ手前の川辺で出会ったのです。旅の方らしいのですが、色々と大変だったみたいなので……町まで案内して差し上げようとお連れしました。旅の方、この三人は私達の護衛です。手荒な真似は致しませんのでご安心下さい。今日ここで一泊して、明日の日の出と共に町へ戻る予定です。それでよろしいでしょうか」
やむを得ない。元より日は天頂を過ぎて久しい、あと数時間もしない内に日は沈むだろう。我儘を言う気にはならなかった。
それに、ここには大人が四人いる。もしかしたら私の欲している情報を引き出せるかもしれない。
「お心遣い痛み入ります。よろしくお願い致します」
野営の準備をすると言い始めて動き出した護衛達を見て、何か手伝わなければ何か、と内心はらはらしていた私がやるべきことは何もなかった。
森の中の野営と言っても、テントを立てたり天幕を張ったりするわけではなく、火を炊き毛布をかぶって就寝といった簡単なものだった。女性と幼子は一枚ずつ布を敷いてその上に寝るようだったが。幼子が自分のものを私に貸してくれると言った。お母さんと一緒に寝るから大丈夫、と。
いい子だった。脅してごめんね。ありがとう。可愛い。お礼を言ってありがたく受け取った。
夕飯は携帯食。量だけはある、塩辛い乾燥肉のようなもの。誰も飲酒をしないようで、水を沸かして白湯を飲みながら食べていた。
久しぶりの食事。涙を流しながら食べていた私を見て護衛の若い女の子がギョッとしていたが、許して欲しい。食べ物を失くしてもう長いこと食べていなかったと言った私を見る目が少しだけ優しくなった。
お腹に物が入り、暖かな火と毛布のお陰で眠気が襲ってきたが……ここで寝落ちしたらいけない。食事で私の警戒は解けたが、まだ聞きたいことを何も聞けていない。
まず何から聞こう、話の取っ掛かりは……などと思考していた私に突如ドワーフから「さっさと寝ろ」の一言が。
夜番はしなくても良いと言われた。役に立ちはしないと。ぶっきらぼうに。ムッとしそうなものだが、声音に照れが隠しきれていないので大人しく言うことを聞くことにした。ういやつめ。
(ここで騙されたら……ああもう、寝てもいいと言われたら急に耐え難くなってきた。だめだ、おやすみ)
泉を抜けてその日の内に水場を見つけ、色々あったものの、今はこうして食事を得て布にくるまり眠れている。トントンと話が進んでいるというか、都合がいいと言うか。
微かに薪が爆ぜる音が聞こえる。木に登って寝ることにならなくてよかった……。