第一話
《────────────────────》
意味のあるとはとても思えない文字や意思のようなものの羅列。叩きつけられたような《それ》による唐突な頭痛と、正に今、水中で溺れているといった状況に、私はパニックに陥っていた。
溺れている。沈んでいる。よく分からないが私は水のようなものの中にいて、頭に何かを叩きつけられて、刻一刻と死に近づいている。
徐々に光が薄れていく。死、死だ。身体が固まり、恐怖に身震いする。
暗闇に身を掴まれる恐怖から逃れようと、暴れていたのだか固まっていたのだか分からなくなった身体から、勇気を出して一度身体を弛緩させると、水を掻き、光に向かって水面を目指す。
浮かび上がった頃にはもう疲労困憊だった。水を大量に飲んだようだし頭も痛い。
口内に塩気が感じられず、そこが海ではないということは何となしに理解はできるが、それ以上の何かには及ばなかった。
不意に視界に、枝葉を付けた程よい長さの木の枝が浮かんでいるのが見え、そこまで泳いでそれを引っ掴む。
藁にも縋るとは言うが、こんな棒でも何かを掴んでいるというのは安心できた。
やたら浮力のあるその枝を支えに身体が安定すると、ようやく一息つけ、周りを見渡す余裕ができた。
海ではない、湖……泉? その違いが何であるかは知らないけれど、腹の立つような麗らかな日差しの下、私はどうやら大きな水溜りに浮かんでいるようだった。
(意味が分からない……。夢? 私は部屋で昼寝をしていたはず)
休日だと言うのに悪天候から出かける気にもならず、昼食をとった後、部屋着のままベッドに横たわり……。
そこまでは思い出せる、記憶がある。
ただ、そこから水溜りで溺れるに至った過程がまるで分からない。
どの様な経緯で私は今ここにいるのだろう。
身体が重い。Tシャツに短パン、それに素足という簡単な格好をしているが、水を吸ったそれは体温を失いつつある身体にまとわりつき、酷く重かった。夢にしてはなんというか、嫌に現実っぽさがある。
改めて周囲をよく見渡すと、遠く? 遠く……に、大きな木が一本立っているのが確認できた。距離もそれ程……少し遠いようにも思うが、木があるということは陸地があるのだろう。ここからその陸地を確認できないことに一抹の不安を感じるが、既に不安と大混乱の坩堝の中にいる。わずかばかり増えたところで大した違いはない。
(とりあえず泳ごう。あの木に向かって)
明るい内に移動しなければ不味いということは分かる。まだ明るいがぼちぼち日も沈むだろう。
これが夢なら早く覚めてくれるように願いながら、木の枝を握り締めて泳ぎ出した。
日が落ちかけて薄暗くなった頃に、ようやく陸地へと辿り着く。
途中何度か意識が飛んで戻ってこれなくなりそうになったが、無心でひたすら泳いだ。数時間にわたる遠泳に終止符を打った。
満足に運動をしなくなって久しいが、私はこんなにも体力がなかっただろうか……正直唖然とした。それでも泳ぎ切ったのは褒めてあげたい。
水面に浮上した時に感じた以上の疲労感。体力などとうに尽き果てている。気力と気合で這うようにして浅瀬から陸地へとずり上がる。
服が泥でぐちゃぐちゃだが知ったことではない。やたら寒い。とても息苦しい。だがもう、何も考えたくはなかった。
うつ伏せに倒れたまま片手にはしっかり浮き輪代わりの棒を握り締め、せめてもう少し水から距離を置こうと立ち上がろうとしたところで目眩に襲われ、服を脱いでいればもう少し楽に辿り着いたのでは……などと、ぼうっと考えながら、私は意識を手放した。
《─────────、───────────!》
ガラスを擦ったかのような、幼子があげる金切声のような、特に意味の無いように思える……文字記号の羅列での暴力。
幸か不幸か私はそれを理解できない。思考するほどの情報にはなりえない。ただ頭に響く《それ》を受け入れることしかできない。
次の瞬間、水面に叩きつけられた。
目が覚める。まだ夢を見ているのかもしれないが、とにかく目が覚めた。
私は沈んでいる。溺れている。またか……。
沈んではいるものの、特に恐怖を感じることなく水を蹴り蹴り、蹴り蹴り蹴り……微かな光を目指して水面に浮かび上がる。
衝撃を感じてすぐ目が覚めたような気がしていたのだが、だいぶ深い所まで沈んでいたようだ。呼吸が落ち着くと周囲に目を配る。
辺り一面水しかないが、遠くに一本大きな木が立っているのが見える。すぐそばには腕の長さ程の木の枝が浮いている。こちらは手を伸ばせば届く所にあったので捕まえておいた。
先程……と言うか、昨日? 必死に泳いで辿り着いたあの木だろう。あの陸地だろう。
この枝にも覚えがある。枝葉のついたやたら浮力の強い50cm程の木の枝。
これがなければ生存を諦めていただろう。敬愛する棒だ。
昨日? まぁ昨日でいい──は思い至らなかったが、こんな便利アイテムがすぐそばに浮いているというのは、何か作為的な物を感じないでもない。
ただの木の枝だけれども……こんな物でも今の私にとっては何よりも頼れる物だ。命を繋いだのは間違いなくこの棒のお陰だ。
御伽話に出てくる勇者にとっての聖剣のような、それくらいの価値はある。
例えそこらに浮いていただけのゴミだったとしても。
思考の泉に沈んで現実逃避をしていたところで、流れのないこの水溜り、陸が近づくわけでも遠ざかるわけでもない。
昨日と違うのは、まだ辛うじて冷静さを保っていられていること、そして日の上り具合や気温からみて、おそらく昨日よりもだいぶ朝に近い時間帯であろうということ。
この場所が昨日と同じ場所だとは限らないが、今から泳げば日のある内に陸地へ辿り着ける可能性がある。
昨夜はすぐ落ちてしまったが、今日は何か見つけられるかもしれない。
覚めない夢、しっかりとしている意識に、嫌な予感をひしひしと感じているが……陸地へと向かって泳ぐことにした。
考えたら折れる気がする。今はただひたすら、無心で──。
日の高い内に辿り着いた陸地はなんというか、普通の陸地だった。
ごく普通の、特に何ということもない陸地。水辺から少し行けば背の低い草が生え茂り、そこから更に歩けば鬱蒼とした森のような場所もある。目安としていた背の高い木はまだ遥か遠くにあるようで、森に近づけば木々に阻まれて見えなくなるだろう。
割と現実的な範囲に陸があったからよかったものの、下手したら辿り着けていなかったな。
生物の気配はしないが……そういえば水溜りにも魚はいなかったように思う。水は澄んでいたし飲んでも腹を壊すこともなかったし。
流れのない場所の水を飲むのは拙かっただろうか……。それなりに体力に余裕があったので渇いたら飲んでいた。枝がなければ早々に沈んでいただろうが、心の在り方一つでここまで消耗が抑えられたとは。気の持ちようというものも馬鹿にできない。
そんな事を考えながら、とりあえず森の浅い所で食べられるものでも探してみようと足をじゃぶじゃぶと踏み出し、水が途切れた辺りで浮遊感を覚え、何かを考える前に水溜りに叩きつけられた。
《────! ─────、──! ─────────!!》
(うるさーい!!)
即座に水を蹴り水面に浮かび上がった。ピーピーキーキーと《それ》が頭に流れ込んでくる。
相変わらず欠片ほども意味は理解できないが、やたらヒステリックに騒いでいるのは何となしに分かる。
「いい加減にしろ! 何なんだもう! 何がしたいんだ! 夢なら覚めろ! おうちに帰せ!」
この夢で初めて声を出す。《それ》に向かって喚き散らす。怒鳴り散らしたのは生まれて初めてかもしれない。
私は物静かや寡黙と言われることが多かった。感情もあまり大きくは動かない。出すべき時は出すが、必要がなければ一日中だって喋らないし、独り言も少ない。
そんな私も流石に頭にきた。散々泳いだ果てにこの仕打ち。流石に説明もなしにこれは苛立つ。
息を荒らげて《それ》の応答を待つが一向に返事がこない。あれだけピーピー騒いでいたのに何なんだ。
周りを見渡すと、遠くにあの大木が見える。木の大きさからいって今回も最初と二回目に落ちた辺りに居ると思っていいだろうと考えた。
また陸地を目指すしかないのかだとか、今度は別の方向に向かって泳ぐべきかとか、そうするには目安となるようなものが何も無いな、とか考えていると、ふと違和感を感じた後、水の中なのに嫌な汗をかいているのをはっきりと感じた。
枝が見当たらない。
見当たらないのだ、枝が。
私を支え、何よりも信頼していた棒が。折れそうな心を繋ぎ止めた心の添え木。私の半身。愛しい枝──。
慌てて周囲を探索するが、見当たらない。ない、ない……。
沈むはずがないのだ、あれだけの浮力を持っていたのだから。それを以って私を支え続けてくれたのだから。
今までで一番の恐怖と絶望を感じた。あの枝が、あの棒がなければ、私は……私は……。
あの木の枝なしに陸地を目指すなんて不可能だ。そもそも私は運動神経はともかくとしても、泳ぎが達者というわけではない。
学生の頃でも百メートルはともかく、二百メートル泳いだことはおそらくなかったはずだ。
なまじ棒無しで二百メートル泳げたところで、それ以上どこまで泳げるかなんて分からない。自信がない。陸地はそんな距離にはない。見えていないのだ。
(ああ、何かもう、疲れた。折れてしまった)
どうせ夢だ。ぼうっとしてればいつかは終わる。昨日もそうだった。今日もきっと、そうだろう。
力を抜いて、そのまま沈むことにした。もうどうにでもしてくれ。さっさと覚めてくれ。