いけないおもちゃ
プラスチックのボックス型の幼児用玩具で、ティッシュを抜いたりリモコンをいじったり、好きなように遊べるもの。
よく、見かけます。
帰宅したら、妻が怒っていた。
三歳になる長男は良い子に寝ている。
部屋は片付いているし、一体なにが悪いやら。
ぷんすか取り留めなく機嫌が悪い妻に、話を聞いてみるとする。
チン。
夕食を温めてテーブルに出してくれながら、妻の話したことはこうだ。
「白澤田さんが今日昼間にうちに来て、お子さんにっておもちゃをくれたのよ」
白澤田さんとは、うちの下の階の独身男性で、一人暮らしである。
陰気で不潔っぽくて目つきが悪くて、見るからにもてなさそうだ。近所からも、あの人は変態かもしれないから子供を近づけない方が良いと陰口をたたかれている。
白澤田さんがアパートの住民に嫌われる理由は、もちろん外見のせいだけじゃない。
この人は根性がねじ曲がっていて、多分、自分以外の全ての人間が、クソ穴に頭から突っ込んで、そのまま誰にも助けられずに息絶えるような死に方をすればいいと思っている。なんでもかんでもクレームをつける。あの陰気で陰険な形相でネチネチ言われるのが、みんな怖くて嫌でたまらないのだ。
以前、白澤田さんの隣の部屋にいた新婚夫婦は、夜の営みが壁越しに聞こえる静かにやれと、半期ごとの寄り合いの時にみんなの前でイチャモンを着けられた。
流石に旦那の方がむっとして言い返したら、白澤田さんは具体的な声音と台詞を巧妙に真似をして、アパートの全住民に聞かせたのである。
「アアン、もっとビシバシ、アアア」
「ほほほ下僕、安月給のこの下僕、汗水たらして働いて平社員、ほほほ、そうれお仕置きびしばしびしばし」
性癖がばれた新婚夫婦は、その月のうちに別のアパートに引っ越していった。
住民たちは心の底では、夫婦なんだから勝手に好きなことをやればいいと理解している。誰ひとり、夫婦を咎める者はいなかった。それに、いくら安普請でも、そんなに音が響く造りではない。
(きっと白澤田さんは、毎晩壁に耳をつけていたのに違いない)
その白澤田さんの次の標的は、上の階の我々家族である。
なにしろ腕白盛りの男の子がいるのだ。足音が聞こえると苦情を言われれば、すいませんと謝るしかない。
俺はこのとおり、遅くに帰るから、白澤田さんの苦情を受けるのは妻になるわけだ――白澤田さんはどんな仕事をしているのやら、出勤して行く様子が見えない。
かといって、このアパートに住み続けているという事は、何らかのお金の手段を持っているはずだ。全くの無職ではないと思われる。
自分の事は全て謎に包んで打ち明けないまま、他人のことはほじくり返し、けちをつけるのが白澤田さんなのだった。
その、嫌な白澤田さんが、息子におもちゃをくれたという。
俺はその事実に驚く。そして、いいじゃないか、素直にお礼を言えば、と言った。
人間、いがみあっていても良いことはない。向こうから折れてきてくれたのなら、有難く受け入れるべきじゃないか。
しかし妻は顔を紅潮させ、しまいには涙ぐみ始める。
「違うの違うの」
地団太を踏み始める。どすんどすん――ヤメロ白澤田さんが苦情を言いにくるじゃないか――俺は飯を食いながらたしなめた。
妻は真っ赤な顔をして、もごもごしている。
何か言いたいことがあるのに言えない様子だ。
一体、どんなおもちゃをくれたんだと俺が問うと、妻はぐっと涙をのみ込んで、今持ってくるわねと言った。
どうやら寝ている息子が大事に抱えて布団に入れているらしい。そう大きなものでもないようだが。
(虫とか蛇とかのおもちゃかな)
俺は思った。
だが、妻が汚いものをつまむようにして持ってきたそれは、そんなものではなかった。
「あー、CMでもやってるじゃん。玩具屋でも見る」
箱型になっていて、ティッシュをつまみだしたり、ドアノブを開けたり開いたり、電話をかけてみたり。
およそ、子供がやってみたいと思う事を、ありったけ詰め込んだ、やりたい放題楽しい玩具である。
まあ、うちの子は三歳で、そういうおもちゃを喜ぶには大きくなりすぎているような気もするが、それにしても妻が憤るようなものではないと思った。
「男の子はこれからこういうのが必要になってきますからねイッヒヒ、って言って、これを押し付けて行っちゃったのよお」
妻はしくしく泣きだしている。
ちょうど、保育園から子が戻って、うちで遊んでいる時間だったらしく、白澤田さんは子供に直接、そのおもちゃを手渡したらしい。
「取り上げようとしても、夢中になっちゃって、絶対に離さなくなっちゃったのよお」
えーんえんえん。妻は号泣した――だから、下の階に声が響くじゃないか――俺はつくづくと、そのカラフルな面白ボックスを見た。
楽しそうじゃないか、別に害になるわけじゃなし。
そう思っていたら、よく見てと妻が大きな声をあげた。
「これっ、これなんかなによっ」
ボックスのある一面には、なにかヒラヒラのフリルのような布が付けられている。
なんだこれは、女性のスカートのようじゃないか。
男の本能と言うか、俺はそのスカート状のものをめくってみた。すると、ものすごくリアルな白い肌と、純白の布から尻が透けるようなパンティが現れたのだった。
「ぶー」
食べていたものを噴いた。
「それだけじゃないわ、こっちを見てっ」
妻は泣きながら別の面を見せる。
チョコやらガムやら、お店の陳列棚みたいだ。片隅に「万引きは罪です。見つけ次第通報します」と貼り紙が見える。
その小さなチョコやらガムは、指でつまんで引き抜くことができた。
「一つだけ、引き抜いたら怖い声のアナウンスが流れるお菓子があるのよ」
妻は説明する――ちょっと君、ポケットの中見せてもらえる――わあんと妻は顔を覆った。
(万引きゲームかよ)
俺は飲んでいるお茶をたばたば膝に零して、すこぶる熱かった。
次に妻が見せた面は、スマホの画面のようなものだった。
薄幸そうな顔つきをした、眼鏡をかけた少年が青ざめて立っている。
そっと触れると、ぱたたたっと文字列が並んだ。
「問題:この少年はポケットに小銭を持っています。あなたが寄越せと言っているのに小銭など持っていないと言い張るフトい奴です。さて、この少年に、小銭を持っていることを白状させるにはどうしたら良いでしょうか。次の三つから合っているものを選んでください」
(不良育成マシンがここに)
最早、俺はものを言う事ができない。
なんだこのおもちゃは。どこで売っている。誰がなんのために。
妻は最後の面を無言で見せた。
プラスチックの草むらの中に、小さなかりんとう状のものが一つ。大変にリアルな犬のうんこだ。
問題は、木の枝を模したスティックがはめこまれてあって、それはうんこに突き刺せるようになっていたのである。
「うんちを見つけたら、棒につけて走ればいいねって、あの子、笑顔で言ったのよ」
妻は震える声で言った。
俺は口をぱくぱくさせた。
手作りコロッケを前にして、急に食欲が失せてゆく。
白澤田さん、一体、うちの子になにをしてくれたんだ。
このタイミングで、チャイムが鳴る。ピンポーン。
夜の10時にチャイムを鳴らす人といえば、一人しかいない。
俺と妻ははっと顔を見合わせる。妻がヒステリックに騒いでいるのが下にまで響いたのだろう。
(いやよ、あなた行って)
妻の目が語っている。
俺は立ち上がる。ワイシャツのネクタイを緩め乍ら。
インターホン越しに話をすると、やはりそこにいたのは白澤田さんだった。
こういう場合は先に謝っておくのが良い。
「あのう、いろいろとご迷惑をおかけしてすいません。子供もいますし、いつもさぞ煩いことでしょう。今しがたは妻が家事をしておりまして、音を立てたみたいで」
しかし、白澤田さんは物柔らかな様子で答えたのだ。
「いいええ、良いんですよ。そりゃあ煩いと思う事はありますし、今もそう思って来たのですが、お子さんの事ならば、男の子はやんちゃが一番ですからねえ」
ひっひっと変な笑い声が続いた。
嫌な笑い方だ――俺はごくりと生唾を飲んだ。
やんちゃが一番、ええ、もっともっと、これからもっとやんちゃになってゆくのが男の子ですからねえ。
僕にも覚えがありますよ。
ええ、やんちゃになってゆくので良いじゃないですか。いっひひひひ。
白澤田さんが去ったらしい。
インターホンは途切れ、こつこつと階段を下ってゆく足音が聞こえた。バタンと下の階の玄関が閉まったのを聞いてから、俺は大急ぎで台所に戻り、テーブルに乗っている例の呪われたおもちゃを掴みあげたのだ。
「ゴミステーションに放り込む」
俺は言った。
妻は大急ぎでおもちゃを新聞にくるみ、さらにビニールに入れ、何重にも包装し、絶対に誰にも中身を見られないようにしてくれた。間違っても白澤田さんに、おもちゃを捨てたと知られるわけには。
俺はそのまま走ってアパートの横のゴミステーションに行って、おもちゃを放り込んできたのである。
これで、良し。
ぜいぜいとうちに戻った。
ゴミ箱から鮮やかな箱が見えていた。あのおもちゃのパッケージが残っている。
嫌だな、まとめて捨ててしまえばよかったのにと思いながら、なんとなく取り上げた。
とても楽しそうなパッケージだ。
「絶対気に入る、一度やったらもう夢中」
「小さなお子さんを早く大人にさせる魔法のおもちゃ」
「とりこになるお子さん続出」
ゴチック体のカラフルな文字が踊っている。
俺は妻からお茶を一杯もらった。
飲み干して、大きく息をついて、ふと強烈な不安に駆られた。
その不安を柔らかく撫でるようにして、小さい我が子が目をこすりながら布団から起きて、ここまでやってきた。
「ねえママ、おもちゃどこにいったの。今すぐ返して。そうじゃないと、コンビニからお菓子を取ってくるし、家じゅう犬のうんこだらけにするし、見かけた女の人のスカートは片っ端からめくるし、そのうち弱い奴からカツアゲもするからね」
白澤田さんの柔らかな口調が蘇る。
男の子はやんちゃが一番。
(冗談じゃないよ)
これを開発した人は、きっと、子供嫌いな人に違いないです。