腹黒傭兵とほんわか旅人
深い谷間には濃霧が立ち込める。
さっと吹き抜けた突風はそれを晴らすには至らない。
道とも言えないような細い獣道を自身の記憶に頼りながら進んでいたレイファは、途切れ途切れに聞こえてきた男の悲鳴に目を見開いた。次いで聞こえるのは獣の唸り声。獰猛な声に立ち止まって耳を澄ませていると、時々躓いたり転んだりしているのだろうか、不規則な足音と共に大地を蹴る素早い獣の足音が此方に近付いてくるのが分かった。
「面倒な……」
出来ることなら見なかった、聞かなかったことにしたいが、恐らく一人と一体はレイファの近くまでやって来ているから、何処かに隠れやり過ごすのも無理だろう。そんな時間はもう無いし、下手を打てばレイファ自身が獣の標的にされ兼ねない。
「倒すか」
さらりと物騒なこと呟いて、腰に佩いていた太刀を音を立てずに抜き放つ。白刃は霧で遮られた微かな日光を弾いて鈍色に輝く。
師匠であり育ての親に教わったように全神経を此方にやって来る一人と一体に集中させる。勝負は一瞬。
女という性であるレイファが獣や男を相手にして、太刀を振るえる時間はそう長くはない。基礎的な体力や筋肉の量が違うのだから。
「……来た」
「誰か助けてっ!」
走って来た男を見ることもせずに駆け出すと、横を擦り抜けて男の真後ろにまで迫っていた獣、狼の喉元に刃を滑らす。思いの外傷は浅かったようだが、それでもレイファを警戒すべき対象と見なしたのだろう狼は、体勢を低くして毛を逆立てながら威嚇の声を上げる。睨み合いの中でレイファは懐に手を伸ばし、二つの苦無を掴んだかと思うと狼の眼球に向けてそれを投擲する。
ある意味鬼畜であった師匠からは剣術以外にも体術や槍術、その他諸々の武術を教わっていて、その中には勿論投擲の仕方も入っていた。
見事に狼の眼球に刺さった苦無に狼は呻き声を上げて谷間に広がる森の中へ駆けていく。獣にとってかなり大切な目を潰したのだから、そう長くは生きられないだろう。
手元にある暗器は少しだけ減ってしまったが、今回は仕方が無いということで諦めることにした。助けてやった代わりとして逃げてきた男にある程度の額を請求すればいいんだから、と考えつつ、レイファは後ろで木の影に隠れている男を見据える。
この地方では珍しい金髪に翡翠色の瞳を持つ、色白で容姿端麗な男。そこそこの階級にあるのか、身に付けている服は庶民のものだが、端々に見える装飾の芸が細かい。少しだけ古ぼけた風合いにしてはいるが、見る者が見ればそれなりの品だと分かるような物ばかりだ。
そして、本当の一般庶民なら手を出せないようなものでもある。
「え、えっと、有難う御座います」
「……いや。偶々助けただけだ」
「そうだとしても、有難う御座います!」
「あ、嗚呼」
へこへこと頭を下げて気弱そうな男は存外意思が強いらしく、印象を悪くしない為に嫌味にならない程の謙遜をしたら思いっきり否定された。
しかも何気に顔が近いのに気付いているのだろうか。いや、気付いていないのだろう。
頬が引き攣るのを自覚しながら、次はどうしたら自分にとって良い方向に持って行けるか目紛しく考えていると、それを困惑ととったらしい男がレイファの両手を握る。
「本当に、本当に有難う御座います。貴女が居なければ、私は此処で死んでいました。本当に感謝しています。それで、貴女の名を教えて戴きたいのですか?勿論、貴女の名を悪用するとか、それを騙って悪さをするなどでは無く、純粋に御礼をしたいので聞く必要があるだけでして、決して疚しい気持ちなどなく、純粋に_」
「分かった!教える!教えるからそろそろ黙れ!」
矢継ぎ早に言われる言葉にとうとう耐え切れなくなったレイファの悲鳴のような懇願の言葉が谷間の森に響き渡る。その際に、枝の上で羽根を休めていた鳥が何羽か飛び去った。
はっとしたように口を閉じた男は、決まり悪そうに荒く息をつくレイファの顔色を窺う。
「す、すみません。命の恩人に対してこのように接するべきではありませんでしたね。申し訳ありません」
「いや、もういいよ。私こそいきなり怒鳴ってすまない」
「いえいえ。そうでもして貰わなければ、私の口は止まらなかったでしょうから」
「そ、そうなのか」
怒鳴らなければ止まらない口って何だよ、と思いつつ、レイファは和かに見えるであろう笑みを顔に貼り付ける。今ならまだ好印象のままだ。そのまま商談というか此方の思惑に乗ってくれると有難いとなかなかに下衆なことを考える。
自分でも下衆だとは思うが、育ててくれた師匠の方が結構な下衆なのだから自分もこうなってしまったのだと責任は全て師匠に押し付けることにした。所謂自己弁護だ。
「そう言えば、私の方こそ名乗っていませんでしたね。失礼しました。私の名はユルハと申します」
「ユルハ、か。此方こそ申し遅れて済まない。私の名はレイファだ」
「レイファさんですか」
覚えようとしているのか、何度か呟かれる名前に気恥ずかしい思いをしながらも、この男_ユルハの装飾品や滲み出る品の良さからそこそこの上流階級出身であろうと見当をつけて、どう金を巻き上げるか画策する。若しくはこんなお坊ちゃん一人だと危ないと言って護衛でもして、ユルハの家族から謝礼金と護衛料を戴いた方がいいか、何方がより多くの金を貰えるかを考える。これからあの場所に行くのだから、金はどれだけあってもいい。食料と違ってそこまで嵩張らないし。
考えを悟らせないようにしてぐるぐると思考を巡らせていると、何かを思い付いたらしいユルハが目を輝かせてレイファの手を握り締める。
「あの、レイファさん!」
「何だ?」
「その、助けて貰ったのにこういうのはあれかもしれないのですが、私の護衛をして頂けないでしょうか!ちゃんと護衛料は払いますから!」
「構わないぞ」
覚悟をきめて言ったらしく、拒否されるのを恐れてか目を閉じているユルハにレイファはあっさりと承諾をする。何の道、金は貰えることには変わりないのだから構わない。
それを聞いて目を輝かせたユルハに一応は釘を刺しておく。
「但し、どの村までか、誰かに狙われているだとか、護衛料は一日でどれくらい払うとかの話し合いをしてからだ。行き先によっては私は護衛を請け負えないからな」
「それは勿論です!命の恩人であるレイファさんの意見を無下にするなどあり得ませんから!」
「そう言って貰えると此方も助かるよ」
善良でちょっと抜けている、レイファにとって都合の良い鴨が手に入ったとほくそ笑むと、何も知らないユルハは護衛の依頼を請けて貰えて嬉しいからニコニコと笑う。
二人の間にある微妙な温度差を感じ取れる者は、今、この場に居なかった。