RED me be with you
校舎の一番西側の角。そこに設けられた私のクラスからは、窓ガラスの向こうに広いグラウンドが見える。毎日放課後になると運動部達が元気よく、そのグラウンドのあちらこちらでそれぞれの青春を過ごしていた。窓際に設けられた自分の席でぼんやりとそれを眺めながら、私はいつしか先輩の背中を探すのが日課になっていた。
智希先輩。私とは一学年上のサッカー部の主将で、この高校の生徒会長。廊下を歩けば誰もが振り向くような古風な雰囲気を醸し出す美少年で、うら若い乙女達の憧れの的。私のクラスも例外ではなく、友達もみんな先輩をまるで少女漫画の王子様みたいに思っている。
でも、私はそんな先輩のことが、どうしても好きになれなかった。
人が人を好きになるのに理由は要らないというのなら、人が人を好きになれないのにも理由は要らないのだと思う。外見だとか、内面だとか、色々理由を考えることはできるだろう。まるで酸っぱいぶどうのように、私が素直になれないだけなのだと友達は言う。確かに先輩は、手を伸ばしても届きそうにないくらい高いところにいるぶどうだ。それはしょうがないことだと笑ってくれる友人もいる。…そうなのかもしれない。非の打ち所のない彼女と毎日楽しそうに登下校する先輩の背中に、私は嫉妬しているのだろうか。その完璧すぎる先輩の屈託ない笑顔の、どうしてもその「裏側」を疑ってしまうのは、単に私が天邪鬼になっているだけだろうか。
(………いた。)
私が頬杖をついて退屈そうにしている教室の窓ガラスの向こう側に、一所懸命仲間に声をかけながらボールを必死に追いかける先輩の楽しそうな姿があった。フィールドを駆け上がった先輩がジャンプ一番、綺麗な弧を描いた味方のループパスに見事に反応しゴールネットを揺らしてみせた。見ているこっちも思わず魅入られてしまう美しいプレイ。その姿に私は思わず胸を高鳴らせたが、直後にやってきた黄色い声援にその高鳴りも急激に萎んでいった。
私は彼女たちとは同じになれない。はたから見たら笑ってしまうような彼女たちの応援する姿を、私は上から見下ろしながらため息をついた。ため息は私の気持ちをより惨めに、重たくしていくだけだった。
(…なんだ、やっぱり私は嫉妬してるんじゃないか。)
そんな私の声がどこからか響いてきたが、もう一人の私がそれを押し殺し、こう呟いてみせた。
でも、私はそんな先輩のことが、どうしても好きになれないんだ。そうに違いないんだ。
ある雨の日。億劫な気分で登校していると、ちょうど先輩が彼女と学校へ向かう場面と出くわしてしまった。最悪だ。私は思わず立ち止まった。
「おい小春、おいてくぞ」
またあの屈託のない笑顔で、先輩が優しく呼びかける。何がそんなに嬉しいのか、彼女もまた微笑みを返す。私は自分の表情が暗く陰っていくのが分かった。
(……その名前を呼ばないで。)
気がつくと二人は私の前から姿を消していた。ガードレール越しに、私の横を無機質に走る乗用車のライトが、透明な雨粒の形を一瞬照らし出しては通り過ぎて行く。一人取り残された私は大きな雨粒が傘を叩く音を聞きながら、自分でも驚く程心の奥をかき乱すどす黒い感情を扱いきれずにいた。
教室の窓を濡らす雨の向こうに、今日は先輩の姿はなかった。
いつからだろうか。私が先輩の背中を追いかけ始めたのは。なんのことはない、決して同じ穴の狢になるまいと固く心を閉ざしていたはずなのに、結局私は黄色い声援を送る彼女たちと同じ想いを抱いている。それも、憧れだとかときめきなんて綺麗なもんじゃない、ただ先輩を誰かのものにしたくないという、醜い嫉妬。こんな気持ちになるくらいなら、いっそ最初から私も素直に黄色い声援を送っておけばよかったのだ。それを恥ずかしがって気持ち悪がって、私の中で想いは重く形を変えていった。自分の気持ちに、きちんと向き合わなかった。
窓枠の形に広がるどんよりと曇った空を見上げながら、私は自分で自分が許せなくなった。こんな私に、もう先輩を想う資格なんてないのかもしれない。それに、お似合いの彼女の横で幸せそうな先輩を、いくら誰にも触らせたくないからといって、この私が奪うだとか到底考えられない。
でも、それでも私は、そんな先輩のことがどうしても…。
「小春」
登校前、母が私を呼び止めると二つの弁当を私に押し付けてきた。
「お兄ちゃんが忘れていったのよ。悪いけど届けてくれない?」
私はその瞬間先輩のことを思い出していた。弁当を届けるということは、必然的にサッカー部に顔を出すことになる。私は兄が…いや先輩が弁当を忘れていったことを恨んだ。出来れば心かき乱されるようなことはしたくなかった。ただでさえ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、私は謂れのないやっかみを受ける。学校では他人のフリをして余所余所しくしているし、お似合いの彼女と二人で行けばいいのにわざわざ一緒に登校したがる先輩を私はできるだけ避けていた。
「小春。なんでお前、学校では俺のこと先輩っていうわけ?」
無神経な先輩が兄として家でそう尋ねたこともあった。「先輩」は私がどれだけ気を使っているか、どれだけ気持ちをこじらせているかなんてしらない。それでいい、と今までは思っていたが…。
私はギュッと弁当を握り締めると意を決して先輩の元へと向かった。
「小春?」
私が先輩の教室に顔を出すと、先輩が驚いて私を見た。今まで散々避けられていたのに、突然向こうから自分を訪ねてきたのだから当然だろう。朝礼前の教室の目線が入口の私に集まってきて、私はピリピリとした緊張感で心臓が口から飛び出そうになった。みんな私と先輩が、血の繋がっていることを当然知っている。先輩は自分の席に座って、彼女とお喋りを楽しんでいる最中だったようだ。私は彼女を目の端で意識しながら、表情に出さないように先輩と向き合った。
「……お兄ちゃん」
私は言葉に力を込めてゆっくりと呟いた。先輩はますます驚いた顔をしたが、黙って手招きする私について教室を出てきてくれた。先輩の肩ごしに彼女の表情がチラと見えた。その表情を見て、私はいけないと思いつつも優越感がこみ上げてくるのを抑えられなかった。その時私がどんな表情をしてたかまでは、私には分からない。
「一体なんだったんだあれ?」
家に帰ると、真っ先に私の部屋にやってきた先輩が尋ねた。
「お前が自分から俺を訪ねてくるなんて、珍しいよな。……なんかあったのか」
先輩があの笑顔で、優しく私に尋ねた。私はベッドに潜り込み背を向けながら無言でそれに答えた。
「………友達から聞いたよ。お前、学校じゃ色々面倒に巻き込まれてるらしいな」
私は何といっていいかわからなかった。今更だ。そのせいで私は先輩が好きになれなかったし、そのせいで自分の気持ちを自分でぐちゃぐちゃにしたりもした。私はひたすら寝たふりをした。
「……悪かったな小春。迷惑かけて。でもお前は俺の大切な…」
「やめて」
私は先輩の言葉を遮った。それ以上聞きたくなかった。大切な…何?先輩にとって、いやお兄ちゃんにとって…。
「…小春?」
先輩が私に近づいてきた。私は体を強ばらせた。思わず布団の端をギュッと握り締める。
「………お前、まさか」
「……」
「…俺のことが好きなのか?」
胸の中で、まるでいつか見た国語の教材のように真っ赤な何かが弾けた。私は何も言えなかった。ここまで来て何も言えないなんて、卑怯だと自分でも思った。でも何も言えなかった。ひたすら長い沈黙が二人の間に流れた。
「………冗談だよ」
やがて先輩が呟いた。分かっていた。答えは聞くまでもないことくらい。私たちは家族だ。私は涙が顔を横切るのをじっと感じた。
「…ごめんな」
先輩…お兄ちゃんは私の頭をぽんぽんと優しく撫で、ゆっくり囁いた。
「ありがとうな。でも…俺男には興味ないから」