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9.

 佳子は袖の釦を締めると、浮き立つ心の赴くまま小さく笑った。

 誰の手垢もついていない新品は自分だけの特別な品のような気がして、持っているだけで嬉しくなってしまう。初めて袖を通すときの喜びは一入(ひとしお)大きい。

 着替えのために通された二階の一室。一歩入ってぱっと見渡した様子では客室のようだった。窓と対格に位置する場所に寝台、その枕元に移動棚、壁伝いに間を空けて衣装棚が素っ気なく置かれている。

 佳子は衣装棚の戸を開けた。クロが教えてくれた通り、一枚ものの鏡が戸の裏全体に張り付いている。

 鏡は制服を脱ぎ、新しい服に身を包んだ佳子を映し出す。ステファノとほぼお揃いの制服はけれども、女らしい控えめな華やかさが加えられている。

 ただ不満があるとすれば、

「大人っぽいよ、この服」

 と口を尖らせて、佳子は視線を顔と服の間で行き来させた。生来の顔つきのせいか、実年齢より弱冠でも上に見られがちな佳子にとって深刻な問題だった。灰色や黒、色相によるが茶色など、落ち着いた色を着て友人と並ぶと顕著に表れてしまう。

(それにスカートが良かったな)

 だが、背に腹は代えられない。高校のように制服が気に食わないから選ばないなぞ決してできないのだから、年相応に見られるようにせめて表情だけでも明るく振る舞おうと前向きに考えた。

 佳子は寝台へ顔を向けた。大きめの鞄がフットボードに凭れ掛かるようにして在る。

 クロが用意してくれた物は珈琲屋で働くための制服と、鞄。そして普段使いの洋服だった。ーー下着類を選んだのは自分ではないと、年頃の佳子を気遣うなど、クロはさり気ない心配りのできる少年だと思う。

 扉が数度叩かれる。

 「はい!」と素早い返事をしながら、佳子は衣装棚の戸を閉めた。急いで扉を開けると、不満げな顔をしたクロが佇んでいた。

「あんたさ、扉を開けるときに相手が誰なのか確認する癖をつけた方がいいぜ」

「え? でも、店にはステファノさんとクロしか居ないんでしょ?」

「馬鹿か。あんたの場合、普段から癖つけておかないと『うっかり開けてしまいました』なんておちになりかねないからな」

 クロの言う事も一理あるのだろう。佳子は大人しく頷いた。

「あと、鍵を開ける音がしなかった気がするんだけど、ちゃんと鍵閉めてたか?」

「二人は私が着替えてるの知ってるし、大丈夫かなって思ったんだけど」

「閉めろよ。あんたなあーー」

 とくとくと、呆れ顔をしたクロの説教が始まる。

(小姑か!)

 佳子はしおらしく説教を聞くふりをして、内心で強く思った。

 余りにも大人しい佳子の態度を勘繰って、クロが渋い顔をする。

「聞いてんのか?」

「聞いてます」

 クロは疑わしげな顔をしたまま「復唱」と声を張る。

「無防備になるときは窓も扉も閉めること。以上」

「半分しか聞いてねえじゃんか。身を護れる得物も手の届く範囲に用意しておけって言っただろ」

 治安の悪さを証明するような言葉を聞いて、佳子は眉を跳ね上げた。

「そんなに治安が悪いの?」

「嫌。治安指数は悪くねえよ」

 佳子はほっと胸を撫で下ろした。それならば脅かすようなことを言わないで欲しい。

「治安指数なんざ、元々、司法機関も警察も機能してねえから計れないし」

 さらりと、クロはとんでもない爆弾発言をした。

 ごく自然な口調だったので、思わず聞き流しかけたが、意味が脳に浸透するにつれ佳子の顔色は悪くなった。

「警察、いないの?」

「警察は居ねえけど自警団は居る。あんたが話し掛けられてびびってた相手、カースはあそこら一帯の自警団長だ。覚えておいて損はねえぞ」

「こう言っちゃ失礼だと思うけど、全くそんな風に見えなかったんですけど」

 クロは暫し何も言わなかった。頬を掻きながら「連中にも色々事情があるんだよ」と小さく零した。

「ところで、もう着替え終わったんだろう。だったらさっさと下に降りねえと、ステファノが笑顔で怒るぞ。あいつの信条、時は金なりだからな」

 クロは明らかさまに話題を逸らした。

 カースと再び出会う機会はないだろうと考える佳子は深く言及しなかった。

 部屋の外に出て、扉を閉める。鍵はクロが持っているので、彼が施錠した。

 階段に向かう道すがら、佳子は『司法機関が機能していない』という発言の意味について尋ねた。

 小部屋が乱立する狭い廊下を先導しながら、クロが説く。

「法律は在るし、法廷も開こうと思えば開けるけど、直接的な刑の執行者が居ない」

「執行者が居ないってどういう意味?」

「そのまんまの意味だよ。隠れちまったのさ」

「隠れたって」

 そう呟き、佳子は愕然とした。

(何て無責任な)

 憤りを覚えると共に疑問が湧く。

「そんな人辞めさせて、新しい人を就かせればいいじゃない」

 クロが弾かれたように振り向き、佳子の口を掌で覆う。彼は唸るように言った。

「滅多なことを言うんじゃねえ。〈裁きの執行者〉は旧き神だ。その地位から引き摺り下ろそうと企んだ時点で、骸兵共が命を狙ってまるで蟻の群れのように(たか)るぞ」

 「いいか、分かったか」と、クロは念を押した。頭巾の下、隠れた双眸が窓の明かりを受けて鈍い光を放つ。

 佳子は気圧されて口元を塞がれたまま、何度も繰り返し首を縦に振った。

 クロが口元から掌を離す。くるりと、また佳子に背を向けて歩み出す。

 階段を降りる途中、佳子は軽く息を吐いた。

 一番下に辿り着いたクロが佳子を見上げながら小首を傾げた。

「さっきから元気がねえようだけど、どうした?」

「とんでもないところに来ちゃったと思って、ちょっとね」

「そんな後ろ向きに物事を考えてどうすんだよ。逆だろう。あんたは運がいいぜ。ここは司法機関も警察も機能していない。おまけに国に属しながら国政の監視の目が届かない。身分が明らかでなくとも能力さえあれば職にありつけるし、住むところも見つかる。考えてもみろよ。もし他の真っ当な国に迷い込んだとしたら、あんた、国元に帰そうとする入国管理官と追い掛けっこしながら、各地を転々とホームレス暮らしするか、精神病院の世話になるしかなかっただろうな」

「私が魔女だと主張しても?」

 クロは鼻で笑った。

「欲望の成就を追い求める魔女は権力者にとって鬱陶しい存在でしかない。あんたが求めるような基礎がしっかりした国の多くは、魔女だけに適用される法律が存在する。例えばーー」

 クロが薄ら寒い笑みを浮かべる。

「ーー魔女だと告発されたものは、魔女ではない証を立てられなければ処刑台行きだとか」

 ぞわりと佳子の肌が粟立つ。世界史で習った中世の魔女狩りの、おぞましい絵画が脳裏を過ぎった。

「な。あんたは運が良かっただろう?」

 実際のところどうなのかはさておき、異界の知識が無いに等しい佳子はクロにそう問われて、頷く以外、返事のしようもなかった。

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