8.
斯くしてクロが宣言した通り、『ノッチェ』の店長ステファノは物の数分経たぬ内に帰店した。
彼は珈琲屋の内装とよく馴染む、白いシャツと灰色のベスト、灰色のスラックス姿をした三十代半ばほどの男性であった。卵形の顔をきっちり七三に分けた黒い面髪が縁取る。
しみじみとした郷愁を湧き上がらせる雰囲気の中年男性の評価ははけれども、彼と目を合わせた途端に冷血そうな人間へと移行する。
ステファノはにっこりと口元に笑みを浮かべた。
「何か言い残すことはありますか?」
「ちょっと待った。会ってすぐにそれは無しだろ。せめて弁明の余地を残せよ」
円卓の向こう側に潜み、店の備品を盾にしながら、クロは非難の声を高々と上げた。
ステファノは怯えた風貌の少年を穏やかな顔つきで眺める。但し、銀縁眼鏡の奥に秘された銀灰の双眸は笑っていない。寧ろ双眸は、彼が弄えっている包丁の刃と同じほど無機質で冷淡な光を宿している。
佳子はタオルを握り締めながら、半ば呆然と円卓に刺さって未だ振動する包丁を眺めていた。つい先ほど、ステファノが姿を現す直前に投擲した包丁だ。クロが咄嗟に円卓から飛び退いていなかったら、おそらく突き刺さっていた。
「は? 弁明の余地? んなもんあるわけねえだろうが、不良店員」
ステファノは笑顔を保ったまま、眉間に峡谷を刻んだ。実に器用な芸当である。
「おい、佳子! さっさと事情を説明しろって。あいつ、俺の話を信用しねえんだよ」
「ふざけたことを抜かせ、不良店員。なに人のせいみたく言ってやがる。てめえの日頃の行いが俺の善良な心から信用を根こそぎ奪って行ったんだろうが」
「何が善良な心だ。心の根からしてどす黒いくせに」
クロがぼそりと呟いた。
ステファノは手首の捻りを利かせて包丁を投げた。一連の動作は滑らかで何ら違和感を覚えさせない。包丁は円卓の端、クロと一番近い位置に刺さった。
「さて」と、ステファノはそこに至って初めて佳子を意識したようだった。
「初めまして、御嬢さん。私はノッチェの店長をしています、ステファノと申します。どうぞ以後お見知りおきを」
「は、初めまして。菅原佳子と申します」
「大和の方ですか」ステファノは佳子の格好を一瞥した。「軍属女学校所属の方がどういった経緯で、うちの店員と知り合いになったのでしょうか?」
佳子は驚いて反論できなかった。
(軍属って何よ)
ステファノは佳子の反応を訝しり、クロへと視線を移す。クロは頬を掻きながら言いよどんだ。
「あー、そいつは軍属じゃない」
「へえ。菅原嬢は何か込み入った事情をお持ちですか。不良店員、彼女を店に連れて来たあなたの口から、是非とも詳しい事情をお聞かせ願いたいものですね。それも迅速かつ適切な言葉遣いで、私が損失を被る前にね!」
言い圧されてクロは佳子の方へ顔を向けた。
「悪い。失念してた」
とだけ謝った。佳子の服装が不味かったらしい。
クロは事のあらましーー佳子が〈魔女〉であり、異界の人間であることを具に説明した。だが未だに佳子を此処へ連れて来た理由は明白にしていない。
話が進むにつれ、ステファノの能面のような無表情の元、銀灰の双眸だけが不快の色を表し始める。
「信じてくれますか?」
佳子は不安に駆られながら、ステファノに尋ねた。
「客観的に考えて専門家の意見なのですから信憑性は高いでしょう。しかもクロはこの店の存続や不利益に係わることに関して嘘をつけない雇用契約になっていますからね。そうなると、信じる信じないもないでしょう」
「専門家の意見、ですか?」
「おや? ご存知ではなかったのですか。私から言わせてもらえば、あなたはとても運がいい。この不良店員は定評のある魔法使いです。だからこそ、貴方の置かれた状況を即座に理解してあげられたのでしょうからね」
「魔法使い!?」
思わず素っ頓狂な声が口から漏れる。佳子は興奮気味に言葉を繰り出した。
「あの箒を使って空を飛んだり、杖を振って火を出したりする魔法使い? クロが?」
「聞いたこともねえよ、そんな魔法使い」
「道具を使用している時点で魔導具を使うただの一般人ですよね」
二人は冷静にそう返した。
佳子は真赤に染まった顔を俯かせた。振り返ってみると、子供みたいにはしゃいだことが恥ずかしく思えたのだ。
「菅原嬢の事情は分かりました。しかし、肝心な部分が省略されていますよね。何故、彼女が此処に居るのか。勿体ぶってないで、さっさと説明しやがれ」
(ああ、そうだ。そのことを説明しなきゃいけないんだった)
「あの!」佳子は詰め寄られるクロを庇うように強めに声を掛けた。
「すみません。私が混乱してる時にクロとぶつかって、彼が持っていた珈琲豆を台無しにしてしまったんです。ごめんなさい」
ステファノの視線が店の入り口近くの円卓に放置された麻袋へ向かう。
「ああ。成る程。それであなたは珈琲豆代を弁償するため、店員について来たわけですね。しかし、ついて来たところでお金が無ければ職も無いでしょう。どうするおつもりですか?」
「大丈夫です。クロが働ける場所を紹介してくれると請け負ってくれたんです」
ステファノは暫し思案に耽った。
「折角ですから、うちで働きませんか?」
「いいんですか!」
「ええ。寧ろそっちの方が返済が早く終わって助かります。店員、契約書を持ってきなさい。ついでに彼女の服も用意して差し上げて下さい」
クロは何故か物言いたげな様子だった。だがステファノに促されると、重たそうな腰を上げて奥へと姿を消した。
「店員が戻り次第、私は契約書の作成をしますから、その間に菅原嬢は用意された服に着替えてください。その格好は悪目立ちが過ぎますからね」
「何から何までありがとうございます」
佳子は頭を下げた。異界と言えども、助けてくれる人は沢山いる。否、出会う人は親切な人間ばかりだ。どうしても涙腺が緩む。
「どういたしまして。ところで菅原嬢」
「あの、菅原嬢という呼び方はくすぐったいので、せめて呼び捨てにしてくれませんか?」
面を上げた佳子の黒瞳は微かに潤んでいた。
きょとんとした顔をしたステファノはけれども、すぐに表情を戻し頷いた。
「分かりました。菅原。あなたに一つお訊ねしたのですが、丸一日、不良店員と何処で何をしていたのですか?」
「え?」今度は佳子が目を丸くする番だった。
「私が店員に買い出しを頼んだのは昨日の早朝なんですよ。あなたは店員が買い出しに戻る途中でぶつかったと言っていましたが、するとおかしなことになるでしょう。どうして昨日の内に謝罪に来なかったのですか?」
ーーそんなの知ったことか。
佳子は思わず叫びそうになった。なるほど。クロは確かに不良店員だ。丸一日さぼって、その原因を佳子に押し付けようとしたのだから。
佳子は小首を傾げて、
「さあ? 私がぶつかったのは今日のことでしたので、クロが昨日何をしていたのか、分かりません」
とだけ返した。
恩を仇で返したことになるのかもしれないが、そこは彼の不真面目さを矯正するため一役を買ったのだと彼女自身を納得させた。