7.
涙と一緒にもやもやした感情も排出されたのか。佳子の頭の中はすっきりしていた。
少年も佳子の危うい雰囲気が少し落ち着いたことを肌で感じ取ったのだろう。時宣よく声を掛ける。
「で、あんたはこれからどーすんの?」
「分かんない。ねえ、私、元の世界に戻れる?」
赤鼻をタオルで隠しながら、佳子は少年に訊ね返した。
今一番、不安に思う部分である。問い掛ける声音にも縋る目にも、否定してほしくない彼女の内心が如実に透けて見える。少年が明確な答えをくれることを期待しているわけではない。佳子はただ慰めを欲しがった。
「さあな」と、少年は円卓に腰掛けながら答える。
「あんたが何を希ったかによるだろうよ。異界でも叶えられる願いなら、とんでもねえお人好しの神じゃなきゃ、その場で叶えて終わりだ」
「覚えていないの……何も」
佳子は睫毛を伏せた。
記憶に在る限り、佳子は常と変わらぬ日常を送っていたはずだった。朝起きてご飯を食べて、お気に入りの番組を見てーー遅刻しそうになり慌てて家を飛び出して、学校の前の通学路で友達と会って、他愛のない会話をしながら教室に向かって、退屈な授業を聞いて、お昼休みは机を合わせてお弁当を食べて、部活をして、寄り道しながら家に帰る。信仰心の薄い現代日本人のように宗教とは何ら係わりのない生活を過ごしていたはずなのだ。
少年は目元に睫毛の陰影を落とし、憂い顔をした少女をじっと見つめていた。ややあって、彼は口を開く。
「あんたと契約を交わした神が誰であるのか。それが分かるんなら、もう一度、交渉を試みればいいじゃねえか」
「可能なの?」
「さてね。そこはあんたの話術次第だろう。神も惑い悩む存在だ。上手く誘導すりゃあ、二つの願い事を叶えさせることだって不可能じゃあないだろうよ」
佳子の心の中で膨らみかけた希望はけれども、妙齢の女ーー彼女に天命を授けると、暗闇の中で言って来たあの女だ、の名乗りを邪魔したことを思い出し萎んだ。
素直にそのことを少年に告げると、彼は大袈裟なほど顔を歪めた。
「ばっかじゃねえの! うわあ、救いようがねえ」
「仰る通りで」
「何。人の話遮るのがあんたの癖なわけ。損な人生送ってんな、あんた」
少年は頭巾越しに頭を掻きながら「どうすっかな」と、ぼやいている。
「あんた、天命は下されてんだろ?」
「うん。それはしっかりと覚えてるーー」
ーー彼の方に妾を弑させよ。
玲瓏たる女の声が耳の奥にこびり付いている。脳の中でなら容易に反復させられる言葉は何故だか喉元に引っ付いて声として出せなかった。
「分かってんならいい。天命だなんだと大仰に告げながら、内容は私怨に由来するものが多い。神話に名高い英雄ヒーノウスが下された天命が最たるものだ。〈母なる貴婦人〉はガイアの王妃が『私より子宝に恵まれたものは、たとえ神々であろうといない』と自慢したことに腹を立て、王妃の腹の子を怪物に変えた。挙句の果てにこれをヒーノウスに討たせた。彼は後に王女を娶りガイアの王となった。一国の王となる野望を見事に叶えたって話だが、発端は見事に神の私怨だろう」
「ひどい話ね」
「史実の英雄が成し遂げた偉業。例えば怪物を倒したり、戦争を勝利に導いたりとかだな。それらは一貫して善行に思えるが、裏で糸を操ってる神々の腹の内は黒いものさ。まあ、そんなことはどうでもいい。天命の内容さえ知ってるなら、神話を読み解いていきゃあ、最終的に天命を下した神に行き当たるだろうよ」
「そのためには魔導具師の世話になる必要があるけどな」と、少年は言う。
「魔導具師?」
「神力の具現化を目標に掲げる連中のことだ。旧き神々が隠れた現代、神力を具現化するに当たって、連中は古典から原理を読み解いたり、閃きをもらったりしている。世捨て人にならねえ限り、嫌でも連中の開発した魔導具の世話になる」
「何処に行けば会えるの?」
「元の世界に帰ることを考えるのもいいが、先のことも考えろよ。まずは職だろ、職」
はたと、佳子は気がつく。異界に彼女の両親が居るはずもなく、帰るべき家もない。佳子はこれから彼女自身を養っていかなければならないのだ。
「訊くまでもねえと思うが、縁故も宛もねえんだろ?」
「ない」と、佳子はくぐもった声で答えた。
少年が出会ってから何度目か知れない溜め息を吐く。
「何でそんな暢気に構えてられんだか。本当に危機感がねえのな」
うっと、佳子は息をつめた。ぐうの音も出ない。
「目ぼしいところ、紹介してやろうか?」
思わぬ申し出に、佳子は少年を見つめた。
「いいの?」
「あんた、此処に居る理由を忘れてねえか。俺があんたをここに連れて来た目的は賠償金と報奨金を払って貰うためだ。それなのに話を聞いてみりゃ、相手は一文無し。だったら働き口を紹介してやって、雇用主からこっちに返済分を流させた方が確実じゃねえか」
異界で生きる限り、一文無しの佳子は職を必要とする。そして得た職は異界の常識を知らない佳子にとって稀有な働き場であり、決して失えない生活の糧となる。そのことを見越した少年の提案は、絶対的な縛りを作るためのものだった。
「うんーーありがとう」
少年の申し出は善意だけによるものではない。しかし、有り難いことに変わりはなかった。
「どーいたしまして。俺の直観がステファノっつー、ここの店長がそろそろ帰って来ると告げているんだが、上手く事情を説明してくれよ」
「分かってる。あの時は逃げてごめんなさい。変なのに追われていたの」
刹那、少年と出会うきっかけを作り出した存在を思い出した。さあっと、佳子の顔が青ざめる。
(そうだ。あの変なやつ。今は何処に居るのかしら?)
槍を掲げ、執拗に佳子を追っていた骸兵。少年はあれを目撃したのだろうか。
さり気なく問い掛けてみると、
「馬鹿じゃねえの。〈狗〉に追われるなんざ、神々の権限を侵した大罪人ぐらいだっつーの。少なくとも俺はあんたの後を追う骸兵なんざ見てねえよ」
と、また馬鹿呼ばわりされた。
あれは異常な事態が魅せた白昼夢だったのだろうか。到底、そう思えない。佳子は胸中に蟠りを巣食わせた。
「言い忘れてたけど、佳子。面倒事に巻き込まれたくなきゃ、自分が魔女であることは伏せておけよ」
「面倒事ってどんなこと?」
「そこまで訊くか。魔女を殺せば、殺した奴が魔女になれる。言い換えれば、魔女に成り代わり天命を果たせば願いが叶うっつー流言がある。契約は二者間の取り決めで結ばれたものだ。譲渡されるはずもねえ。だけど、そんな世迷言を信じてる連中も世の中にはいる。そいつらから命を狙われる」
「絶対に言わない! あなたも言わないわよね?」
「誰が進んで面倒事にかかわるか。それくらい察しろよ」
少年は嫌そうに顔を歪めた。
「ねえ、あなたの名前、いい加減に教えてくれない? それとも名前を気軽に教えちゃいけない理由があるの?」
「別にそんな習慣ねえよ。俺のことはあんたが呼びたいように呼べばいいさ」
「何よ、それ」
教える必要を感じないーーそう言外に告げられた気がして、佳子は気分を害した。口は悪いが、親身になって今後のことを考えてくれた親切な少年。彼女はこの少年に出会って間もないにも拘らず、親しみを覚えていた。だから余計に面白くなかった。
「いいわ。だったら、そうね、背が小さいからチビとでも呼ぶわよ」
「別に俺は構わないけど、あんたは恥ずかしくないの?」
見るからに数歳しか年が違わない少年を公衆の面前でチビと呼ぶ。少年が良くても、佳子が恥ずかしい。
「やっぱ止めた。クロでいいでしょ?」
全身黒尽くめだからクロ。名前を縮めたようにも思えるから、恥ずかしくも聞こえない。
特に拘りはないのだろう。少年はやはり「是」と答える。
「クロ。改めて、よろしくお願いします」
佳子は少年に頭を下げた。
これに対して「返済が終わるまでの短い間だけどな」と、よしなに頼まれた少年は返した。