6.
「どんな夢よ、これ」
佳子は頭を両手で抱えた。許容量は既に過ぎている。この際、朝日を浴びながら目覚めたいなんて贅沢は言わない。さっさと夢から覚めて欲しい。
佳子の呟きを耳聡く捉えた少年は、彼女に近づき、左右の頬肉を両手で掴み引っ張った。
「い、いひゃい!」
佳子は涙声で訴えた。否応なく、夢ではないと気づかされる。
「なあにが『どんな夢よ、これ』だ。寝ぼけてんじゃねえよ」
容赦なく互い違いに頬肉を回しながら、少年が詰める。
「ひゃ、ひゃって、わらし、家で寝へたんだもん」
「そっかそっか。人攫いに在ったか、家人に売られたか。そりゃあ、ご愁傷様。だがな、そんなんどうでもいい。俺の知ったこっちゃねえ」
佳子が少年の手を掴むより先に彼は手を離した。行き場を失くした手でひりひりと痛む両頬を摩る。
涙を溜めた目で佳子は少年を恨めしげに睨んだ。
「そんなこと、日本で起こるわけないじゃない。起こったとしても、すぐに警察が動いてくれてるはずよ」
そう佳子は零した。少年が表情を消した。
「ニホンなんて国、地上の何処にもねえぞ」
「太平洋の西端に浮かんでる、縦に細長い島国よ」
反論しながら、佳子は考える。経済大国、日本。世界第二位の経済力を持つ母国を知らない。たとえここが地球の裏側に位置している小国だとしても、文化や実態が間違って伝えられることがあれど、全く無知だなどということがあり得ようか。
「太平洋の西端に在る縦に細長い島ねえ」少年が椅子を引き、どかりと座り込む。「そこに栄えてるのは日ノ本と大和っつーいがみ合ってる国だけだ。ニホンなんて国、存在しねえよ」
「日本は〈ひのもと〉とか〈やまと〉とか、そう呼ばれることがあるわ……でも、タイワは知らない」
ふうんと、少年が気のない返事をする。佳子の頭の天辺から爪先までを眺め「日ノ本の人間がそんな珍妙ななりをしているものか」と、一蹴した。
佳子は改めて彼女自身の格好を確認した。高校のセーラー服そのままだった。
「日ノ本と言えば狩衣だろう。顔は黄色人種にしちゃ彫り深くて、えら張ってる。ついでに毛深い。それに連中の目は海のように青い。あんた、どっちかっつーと大和の人間に近いじゃねえか。うりざね顔に黒い目。ぴったしじゃん」
少年は目を細めた。
「嘘をついてるーー」
「嘘なんかついてないわよ!」
「人の話は最後まで聞け、馬鹿女」
「馬鹿女」呼ばわりされ、佳子は口元を引き攣らせた。頭に血が上り過ぎて、くらくらする。佳子は円卓に後ろ手を着いた。
「あんたが嘘をついていないと信じてやんよ。危機感知能力ゼロの平和惚けした頭の持ち主が相手じゃ、何か企んでるなんて勘繰る必要ねえしな。そう考えるとーー」
「なあ、佳子」と、少年が初めて佳子の名を口にする。
「あんた、気づかないうちに魔女に落魄れたんだ」
少年はそう断言した。
「魔女って……何よ、落魄れたって。まるで私が何かしでかして、そのせいでこうなったみたいな言い方じゃない」
「まるでみたいなじゃねえんだよ。魔女は神と契約した人間の別称だ。人間が身の丈に合わない願いを強張ったとき、神が天命を下し、その履行を条件に人間の欲望を満たす。あんたはおそらく天命を果たすために異界に飛ばされてきたんだろうさ」
「それって、つまり、私が願い事のために悪魔と契約したから、こんな変な場所に居るんだって言いたいの?」
「アクマってのが何を示してんのか知んねえけど、あんたが現在、夢だと思い込みたいような事柄に直面してんのは、身の丈に合わねえ欲を持った結果であり、自業自得だってことさ」
かっと目の前が真赤に染まる。気づいたときには鈍い音が店内に響いていた。
じんじんと掌が痛む。脳まで伝わる鈍痛は、彼女が此処に在ることを現実の出来事だと訴えているようだった。
少年は無言で引っ叩かれた横面を真正面に戻した。
彼が溜め息を吐く。
「一体、何がしたかったわけ。俺は親切にも事実を教えてやっただけなんだけどよ、どーして引っ叩かれなきゃいけねえんだか」
少年は理不尽な行いをした佳子を咎めなかった。疑問に満ちた冷たい視線を彼女にただ投げ掛ける。
冷静に観察されているような現状がさらに腹立たしい。しかし、少年は確かに何も悪いことをしていなかった。たとえその物の言い方が蔑むような声調だったとしても、暴力を振るう言い訳にはなるまい。
佳子は下唇を噛んだ。腹の底が煮えくり返っている。ぼこぼこと沸騰して爆発寸前の感情を押し殺し、「ごめん」と声を絞り出した。
声を絞り出すために空けた小さな穴のせいで、感情が逆流し一気に爆発した。涙腺が崩壊し、頬を涙が伝う。
(嫌だ……弱ってるところなんか見せたくない)
乱暴に袖口で拭っても涙は止まらない。それどころか彼女の意思に反して唸り声が漏れ始める。
舌打ちをして、少年が立ち上がった。彼の気配が遠ざかり、佳子はほっと息を吐いた。
だが、少年はすぐに戻って来た。
「ほら」
佳子の顔にタオルがぶつかる。使うのも癪だったが、袖口は既にぐっちょり濡れており、顔を幾ら拭いても意味をなさない有様だ。
だから佳子は「ありがとう」とぶっきらぼうに告げて、有り難く使わせてもらうことにした。