5.
佳子は少年に手首を掴まれたまま、彼の後ろを諾々と付き従った。
やがて大通りに出る。車道と歩道が完備され、街灯も等間隔に配置されている。無論、路上駐車中の車もある。
但し、人影は全くない。まるで映画の舞台に迷い込んだように思えて気味の悪さを覚えた。
少年は黙々と歩き続ける。静寂が空恐ろしく感じられて、佳子は少年に声を掛けた。
「ねえ、さっきはありがとう。助かったわ。私は佳子って言うの。あなたの名前は何て言うの?」
ちらりと首を動かしただけで少年は答えない。前方に鉄筋の吊り橋が現れる。陽炎が揺れる橋は緩やかな弧を描き、対岸の様子が見事に隠されている。
佳子は思わず立ち止まった。
引き摺られて少年も立ち止まる。振り返った彼が咎めるような視線を寄越しているような気がして、
「ちょっと歩き疲れちゃった。休憩しない?」
と、彼女の口が勝手に弁解していた。
「橋渡ったら着くから歩いて」と、少年が答える。
「何処に?」
「俺の働いてる場所」
「働いてるの?」
「無職の冴えない奴にでも見えた?」そう笑い含みに少年は問い返す。「ノッチェって言う、しがない珈琲屋の店員をしてんの、俺」
(ああ、なんだ。アルバイトか)
佳子はそう納得した。佳子は未だにアルバイトの経験がない。大学生になったら始めようかなと、漠然と思っていたくらいだ。だから年下なのに偉いなと、ただ感心した。
二人は鉄筋の吊り橋を渡り始めた。
佳子はふと先ほどのカースという男性と少年の会話を思い出し、
「さっきのカース……さんって人、珈琲屋の常連なの?」
と、尋ねてみた。深い意味はない。気になってしまったら訊かずにはいられなうという性格上の単純な理由と、沈黙に耐えられない心理が働いた結果、佳子は常より饒舌になっていた。
「お姉さんは何でそう思うの?」
「え、だってあなたのこと『真夜中の』って呼んでたじゃない。名前じゃなくてお店の名前で呼ぶくらいだから、そうじゃないのかなって思ったんだけど」
「へえ。見た目の割に鋭いんだね。そうだよ。半分正解。カースさんが俺の名前を知らないからってのがあと半分」
少年はそう感心したとも馬鹿にしたとも取れる言葉を漏らした。
佳子は眉間に皺を寄せて問う。
「見た目の割にって、どういうことよ」
少年が振り返り、にっこりと口元に笑みを浮かべる。彼は空いた手の親指で前方を指した。
「ほら、あそこが俺の働いてる珈琲屋」
「え。もう着いたの」
吊り橋を渡る最中の記憶と言えば、横風が強かったことくらいしかない。ぱっと見、全長がかなり在りそうだった吊り橋はどうやらさほど長いわけではなかったらしい。
対岸の町並みは牧歌的。白壁の家はけれども、橙色の屋根が可愛らしい。軒下や展望台に花壇が置かれ、玄関口の横には必ず長椅子が設けられている。
(夢は心の底に眠ってる願望を映し出すって言うけど、世界旅行が夢だったのか、私)
佳子は何とも言えない表情を浮かべた。もう何が起こっても驚かない自信がある。
少年が真直ぐ目指す珈琲屋は両隣が空き家のーー放置された花壇に雑草が生えているので間違いないだろう、小さな二階建ての家だった。看板には見慣れない文字。だが、夢だからだろうか。ノッチェとすんなり読めた。
少年が扉を押し開く。来客を告げる鈴がカランカランと、乾いた音を立てた。少年はそのまま紳士的に扉を押し開いて待っている。
「お邪魔します」
軽く会釈して、佳子も続いて店の中に足を踏み入れた。お店に入るときにお邪魔しますは流石に不味いだろうと佳子も思ったが、余りにも外装が家庭的な雰囲気なのでそう言わずに居られなかった。付け加えて、閉店中の看板が出ていたから、大丈夫だろうと彼女は当たりをつけていた。
内装は煉瓦と木目が温かみのある雰囲気で整えられていた。てっきり内装も味気ない白壁で統一されているんだろうなと思い込んでいたので、佳子は面食らった。
円卓は椅子三脚がついて計七台。仕切り台の向こうの棚には珈琲や紅茶、酒瓶が銘柄を此方に見せるようにして並ぶ。
「素敵なところね」
佳子は素直な感想を零した。
少年は麻袋を入口近くの円卓に置き、軽い溜め息を吐いた。
「あんた、どこまで馬鹿なの。何で知らない奴にのこのこ着いて来れるのか、意味が分かんねえんだけど」
「へ?」佳子は少年へ躰ごと正対した。空耳かと考え「えっと、もう一度いい?」と尋ね返す。
少年はまず舌打ちで返答をした。
「面倒くせえことは嫌いなんだよ。あんたをここに連れて来た理由は二つ。一つ、この見るからに容量が足りない袋の事情を説明させるため。二つ、あんたのせいで損失した分の代金を徴収するため。ああ、絡まれてるとこを助けてやったんだ。その分も当然、上乗せするからな」
佳子は少年の豹変っぷりを目の当たりにして、暫し呆けた。
少年は彼女の間抜け面を眺めて、鼻で笑った。
これが劇的でも、運命的でもない、二人の出会いだった。