22.
斜幕の陰から滑り出た人影は、一瞬のうちに佳子との間隙を詰めた。
「きゃあっ!」
驚きのあまり手の力が抜け、佳子は護身用具を落としてしまった。硬い護身用具が床とぶつかり、高い音を響かせる。すぐにでも護身用具を拾い上げるべきなのだろう。
しかし、目の前に迫った人物のせいで指先さえ微動だにできなかった。その人物が何かをしたわけではない。
その人物と顔を合わせた佳子が、金縛りにあったかのようにただ動けなくなっただけだ。
その人物は薄闇の紗膜を頭から被っていた。かんばせは星影のように青白く、まるで仄かな燐光を発しているかのようで暗がりに浮かび上がる。
瞳は銀月。形のいい鼻筋を軸にして、顔の部位が一寸の狂いもなく左右対称に配置されている。
その人物が男であるか、女であるか、佳子はこうして向かい合っている時点でさえ判別できなかった。
秀麗すぎる面立ちは性別の差異を表さず、ひとりの人間を類稀なる芸術作品へ仕立て上げていた。
華人が口元を綻ばせる。
佳子は完璧な微笑みが恐ろしいものだということを身を以て知った。
「よう参った……妾はお主を歓迎するぞえ。これでこそ、彼奴に助力を請うた甲斐があったというもの」
透き通った鈴の音が佳子の鼓膜を震わせる。それの正体は華人の玲瓏たる声音であった。
――あなたは誰? 歓迎するってどういうこと?
佳子が訪ねようとしたことはけれども、声にすることが叶わなかった。金縛りは未だに解けない。
「さあ、彼の方の元へ参るとしようか」
華人が佳子へ手を伸ばす。佳子の手首を掴んだ白魚のような指は氷のように冷たかった。
求められるまま背後をついてゆけば、華人の動きが生む空気の流れは北風のように寒く、佳子から体温を奪った。
――まるで死者の手だ。
佳子はそう思った。朧げながら思い出す、今は身罷った祖母の別れ際の体温。華人の手や纏う空気はそれに酷似している。
この華人が死者であるとするならば、佳子は一体、何処へ連れて行かれようとしているのか。
唐突に不安が湧く。
(嫌だ! ついて行きたくない!)
そう心が拒絶を叫ぶ一方で、体は意に反して諾々と華人の思うがまま操られる。
(助けて……助けてよ、誰か。行きたくない。助けて、クロ!)
佳子は気力を振り絞った。僅かながら自由に動いた指先が、ちょうど花瓶の載った布を掴んだ。止まらぬ歩みが留まろうとする指先を前へ進ませ、同時に布が引っ張られる。
花瓶がぐらつき、床へ落下する。派手な音を立てて花瓶は割れた。
(異変に気づいて、リイシャさん!)
佳子は祈った。
「佳子、何かあったのですか?」
祈りは天に通じ、薄い壁越しに音を聞きつけたリイシャが玄関のすぐ先にやってきた。
助かったと、佳子は思った。このまま返事をせずにいれば、きっと訝しく思うだろうと考えたからだ。
だが――
「何でもないわ。少し寝ぼけてて、花瓶を落としちゃったの」
佳子の声がそう答えたものだから、
「そう? それならいいんだけど」
と、リイシャは応じた。
喋ったのは佳子ではない。佳子の手首を捕まえる、最早得体の知れない人形だ。
二つ並んだ銀月と目が合う。ぞっと背筋を戦慄が走った。
このままではリイシャが部屋に戻ってしまう。
(声を出さないと)
佳子は床に散乱した花瓶の破片に目をつけた。
華人が歩みを再開し、また足が佳子の意思に反して動き出す。しかし、前回と違うことがある。
破片を避けて着地しようとする足を顔を真っ赤に染めて力を込め、どうにか真っ直ぐずらし、鋭利な破片を踏む。
鋭い痛みが神経を逆走し、脳と体をつなぐ道を強引に開かせた。
刹那、佳子はあらん限りの声を振り絞り叫んだ。
「助けて!」
「お主」と、華人が僅かに調子外れの声音で呟く。
リイシャが扉を蹴破り、部屋の入口まで駆けつける。彼は驚きと恐怖を以て表情を歪めた。
「〈夜の魔女〉」
「え?」
佳子は眼球を動かし、美しいかんばせを捉えた。そして後悔した。
〈夜の魔女〉は静かに怒っていた。
部屋の気温が急激に下がる。冷気は〈夜の魔女〉から発せられていた。
「去ね」
〈夜の魔女〉の一言はまるでそれ自体が力を持っているかのような重みを纏っていた。
リイシャは両足でその場に踏ん張った。
「お前こそ過ぎ去りし日々の領域へ帰れ」
リイシャは腕を大きく振り被り、何かを投げた。それは佳子の体に当たった。丸まった布が解かれ、竈の灰が辺りに飛び散る。
〈夜の魔女〉は悲鳴を上げ、飛び退いた。
「〈終護る獣〉が来る前に己の住処に帰れ、汚らわしい〈夜の魔女〉よ!」
風が吹き荒れる。佳子は思わず目を瞑った。
やがて風がおさまり、恐る恐る瞼を開ければ、破壊された室内の様子が映し出された。そこにはリイシャの影しかない。
はたして〈夜の魔女〉は何処へ行ったのか。
そのようなことを思う間もなく、体を震えが襲う。
自らの体が思い通りに動かない恐怖は想像だにしないほど恐ろしく、涙が溢れてきた。
「佳子」
静かに泣く佳子の体をリイシャが抱きしめる。頬が触れる彼の胸板もまた、小刻みに震えていた。
「竈の火が消えている……俺の部屋に行きましょう。ここは危険だ」
佳子は肯いた。
まだ独りになりたくなかった。




