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18.

 クロが向かった先は隣室だった。クロが扉の取手を掴み、迷わず開ける。

(ここがクロの家なのかな?)

 先に入ったクロに促されて、佳子も部屋の中に入る。廊下の先、開け放たれた扉の奥は乱雑ではないが、書物が積み重なり、それなりの生活感に溢れていた。

 クロが真直ぐ奥の部屋の中に入っていく。佳子が続いて部屋に入っていくと、そこには先客が居た。

 黒い肌をした青年だった。栗褐色の髪の毛先が緩く波打ち、厚い珊瑚珠色の唇がよく映える卵型の顔を縁取る。容貌は佳子の立ち位置からだとよく見えない。

「リイシャ、こいつの面倒よろしく」

 クロが後ろで佇む佳子を親指で示した。青年の厳しい視線がクロから佳子に移る。青年の非難がましい眼差しを受けて佳子は畏縮した。

 真正面から相対した青年は年の頃、二十代半ば。女が好む甘い顔つきをしていた。黒瞳が馴染み深い、愛嬌のある垂れ目。鼻梁は高過ぎず低過ぎず、鼻先が丸みを帯びている。ステファノのような冷たさは一切感じさせぬ、寧ろ温かな雰囲気を纏う青年であった。

 青年の厚い珊瑚色の唇が綻ぶ。

「初めまして。俺はリイシャと言います」

 慈愛に満ちた微笑を受けて、佳子は頬を染める。リイシャは俳優ばりの美丈夫であった。

 佳子の全身が強張りから解放される。佳子は微笑み、

「初めまして。菅原佳子と申します」

 と、挨拶を返した。ひとつ頷いて青年が応える。

「どうぞお掛けになってください」

 向かい側の一人掛け用のソファを勧められ、佳子は素直に腰掛けた。クロは珍しく腰を下ろさなかった。

「説明願えますか?」

 リイシャと名乗った青年がクロに問い掛けた。

「名前の通り、こいつは新参者だから色々と世話焼いてくんない?」

「それは貴方からのお願いですか?」

「いや。貸しを早いとこ返したいだろうに悪いな。もうひとつ、俺に貸しを作ることになるぜ」

 リイシャは眉間に皺を寄せ、胡乱気な表情を浮かべた。

 佳子と、クロは呼び掛けるも彼女の方を向かず、書物を一冊手に取り、背表紙を彼女が読めるように向けた。

「これ読んで」

「え? えーと、『存在の確立について』……何それ」

 何とも小難しそうな題名である。

「次」

 クロが更に違う書物を手に取る。

「『時間の概要』」

「次」

「『確率と世界』」

 「次」と、背表紙を読み上げる作業は淡々と進んでいく。やがて十冊目に達すると言うところで「驚いた」と、リイシャが感嘆の声を漏らした。

「書く方はてんで駄目だけど、読むだけなら何でもあり・・だ。世話焼く代わりにこき使ってくれればいい」

 佳子はクロの言葉に違和感を覚えた。しかし違和感の正体を掴む暇もなく話は進んでいく。

「ちょっと!」

 たまらず佳子はクロに辛うじて聞こえるほどの小声で制止を掛けた。「なに」と、クロが視線を寄越す。

「勝手に話を進めないで」

「別にいいだろう。俺は遺跡に潜るし、その間、あんたの世話役が必要なんだからさ」

「それはそうだけど、事前の説明も無しに話を進められるのは良い気がしないわ」

「良い気がしないって」

 クロが呆れたように佳子の言葉を繰り返す。かあっと、佳子の頭に血が昇った。

 危うく口論が始まりそうな二人の間にリイシャが割って入る。

「佳子の言う通り、世話を焼く代わりにその才能を無料で使わせてもらうのは公平ではない。渋るのも仕方がないでしょう。では、こうしませんか。私は貴女の世話を焼き、代わりに私は貴女を翻訳家として一時間五万二千円で雇う。悪い条件ではないと思いますが、如何でしょうか?」

「一時間五万二千円!?」

 佳子は叫んだ。時給で万越えなんて法外もいいところではなかろうか。

「古語も含めて少なくとも九言語。時給十万を吹っかけてもいいくらいの才能だぜ」

 そうクロがさらに追い打ちをかける。

「十万!?」

 佳子は目を白黒させた。彼女の反応を見て、リイシャが首を傾げる。

「とんだ箱入り娘だからな。世間知らずなのは大目に見てやってくれ」

 リイシャの疑惑の芽が育ち切らぬうち、クロがすかさず言う。

「箱入り娘――ね」

 リイシャは口元を一瞬だけ歪めた。

「しかし、どうにも解せませんね」

 穏やかな顔つきに戻ったリイシャが呟く。

「何がだよ」

「彼女を俺に紹介した意図がですよ。彼女、流れてきてすぐの人間なのでしょう。古語の読める人間ならもっとましな仕事先、たとえば貴方の顔が利くシルヴェスタ商社にも勤めることができたでしょうに」

「そうなんですか? だって、私、読めるだけで書けませんよ」

 初耳だった。佳子はそうリイシャに問う傍ら、クロの様子を横目で窺った。

「発掘した遺物の解読作業ができる人材が欲しいのですから、古語を書ける必要性なんてこれっぽっちもありません。古語を翻訳できる人間は希少ですからね。幾ら金を積んででも構わないからうちに来てほしいと言う企業は多いですよ」

「それ、無理。ステファノが期限付き一日一万でこいつを雇ってるから」

 「一日一万」と、リイシャが呆然と呟いた。そして可哀そうな子を見るかのような目つきで佳子を眺めた。

「勿体ない。まともな就職先でなら一日で八十万は稼げる才能なのに」

 佳子は弾かれたようにクロへ顔を向けた。クロは高速で顔を背けた。「クロ」と佳子が呻く。怒りも過ぎれば思考が止まる。彼女の口から続く言葉は発せられなかった。

 恨みが籠った、無言の重圧に負けてクロは

「しょうがねえだろ」

 と、言葉を零した。

「俺だってステファノと雇用契約を結んでんだ。背くわけにはいかねえんだよ」

 佳子は過去を振り返り、ステファノと雇用契約を結ぶとき、クロが物言いたげな様子だったことを思い出す。

(クロだって何も感じなかったわけじゃないんだ)

 佳子は大きく息を吸い、長く吐き出した。苛立ちをすべて吐き出すだけのはずが、一緒に頭の隅にあった引っ掛かりさえ吐き出してしまう。そのことにさえ気づかず、佳子はクロをただ許すことにした。

「いいわよ。クロにだって事情があるんだものね」

 そう佳子は笑ってやった。

 佳子は改めてリイシャと目を合わせる。彼が出した条件は佳子にとって破格であった。

 しかし、リイシャはそう思っていないのだろう。

「佳子。俺が貴女を個人的に雇うため、支払う額は正規と比べてとても少ない。だけど、その分、この土地での生き方をしっかり教えます」

「ええ……大丈夫です」

「つまり?」

 佳子はリイシャに向かって頭を下げた。

「リイシャさん、よろしくお願いします」

 リイシャからの返事は暫く待ってもなかった。

 そうっと佳子が頭を上げると、そこには眩いばかりの笑顔があった。くしゃりと破顔した満面の笑みはお世辞にも綺麗とは言えないけれども、人情味に溢れており、佳子の胸を打った。

「こちらこそ」

 喜びに打ち震える声でリイシャは応えた。

 リイシャが握手を求めて手を差し出す。佳子はおずおずと手を差し伸べた。手と手が触れる。刹那、佳子の身体が緊張のため震えた。

 終いには蚊帳の外へ放り出された形となったクロはけれども、この結果を満足そうに眺めている。

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