狐のおんなのこ
「こんにちわー」
楽園の中でも特に寂れた一角、一軒の家の中に向かい、迅八は声をかけた。
「おいジン。ここか?」
「ありゃ……いないのかな?」
迅八は、右手に下げた袋を見る。ニコルとロココへのお土産として買ってきたもの。今度は一緒に食べようと思って買ってきたものだ。
「んー、どうしよっかな……」
「おい。こんな場所になにをしに?」
「いや、友達の家だよ。……うーん、どうしよ。勝手に中に入ったらまずいよな」
迅八が、どうしようかと考えていると、日の光が差し込む家の、光が途切れた闇の奥から声がした。
「……だれ? どなたですか? ……ごめんなさい。今は仕事をしていないの」
「あ、おばさん。俺、ジンだよ。ニコいる?」
「あら、あらあら……」
闇の中から一人の狐人が出てくる。暗がりに浮かぶ美貌。蛍の光のような女。
「ジン様……。ごめんなさいね。ニコは外に出ていて」
「あ、そうなの? お土産持ってきたのにな」
「よかったら中で待っててくれればニコも喜ぶわ。ろくなおもてなしは出来ないのだけれど……」
「本当に? ありがとうおばさん。……けどさ、ジン様ってのやめてよ。落ち着かないから」
「あら、あらあら……。ごめんなさい」
ロココは迅八の隣に立っているアゼルを見た。
「ジンさん。……そちらの方は?」
「ん? ……ああ、アゼルっていうんだ。俺の友達だよ。一緒に入れてもらってもいいかな?」
「……アゼル?」
「うん、アゼル。『ロックボトムの弟』とか言われて、」
ばさっ。突然、ロココは倒れこむようにその場にくずおれた。
「ああ……! あの子が、あの子が何かっ。どうか、どうか私の命で」
「だ、だから違うって! アゼル、お前からも言えよ」
「……ふう」
アゼルスタンはため息を一つ。
「害を働きに来た訳ではない。……アゼルスタンだ。それと、俺はこいつの友人ではない。知り合いだ」
「お前もクロウもなんなの? そのこだわりに意味あんの? 友達でいいじゃん」
その言葉を聞きロココが顔をあげる。
「アゼルスタン、さまですか?」
「……アゼルスタンでいい。突然の訪問を許してくれ。さあ、立って。……美しい人がそんな格好をしてるのは似合わない」
——すっ。アゼルがその手をロココに差し出すと、蛍の光のような女の白い肌が、ほんのりと朱く染まった。
「は、はい。アゼルスタンさんも、どうかお入り下さい」
「……失礼する」
中に入るロココと、その後に続くアゼル。なぜか迅八は続かない。
それに気付いたアゼルは迅八に声をかけた。
「……なにしてるんだよ。入らないのか?」
「いや、なんか、う〜ん」
「なんだよ?」
「……やっぱ、お前可愛いよな。この場合はカッコいいだけど」
「なっ!?」
アゼルはロココ達の家に半分入り込んでいる。庇の陰に隠されて、その顔色は見えないが、迅八にはその声がうわずったように聞こえた。
「ま、いいや。お邪魔しまーす」
迅八はアゼルの横を通り、その家の中に入った。薄暗い家の中では、ロココが竈に火をおこそうとしていた。
「今、お茶を沸かしますから」
「ありがとうおばさん。けど、あんま気ぃ遣わないでいいよ。横になってなくて大丈夫かい?」
「そんなに体調が悪そうに見えますか? 今日は気分が良いんですが」
クロウから迅八が聞いた、死の匂い。ロココはその事を知らない。
「いや、そうじゃないんだけど……。今まで寝てたんでしょ? だから、体調悪いのかなって」
「そうですね。……だいぶ前からですが。けど、今日は気分が良いんです」
するとアゼルが立ち上がり、またロココに手を差し出した。
「俺がやろう。あなたは座っているといい」
「あ……」
暗闇の中、部屋に入り込んでくるほのかな日の光に照らされて、ロココの頬に紅が差す。
アゼルは手慣れた様子で火をおこすと、ロココに尋ねながらお茶を準備した。
「…さあ出来た。ジン、飲めよ。 まあ、俺が出すのもおかしいけどロココさんのもてなしだ。……なんだ? おかしな顔をして」
「いや……なんか、なんか。おい、俺は負けてねえからな」
「……? なにを言ってるんだ本当に。よくわからないけど、喧嘩売ってるのか? 俺に勝てるとでも思ってるのか?」
「いえ、喧嘩は売ってませんけど」
「ほ、ほらほら。お二人とも召し上がれ。……あ、ジンさん、昨日と同じで綺麗なお召し物で」
「……いいよおばさん。気ぃ遣わなくて」
「……?」
よくわからない顔をして、アゼルも腰を下ろしてお茶に手をつけた。
……三人で会話をしながら、爽やかな香りのお茶を飲む。迅八が『お土産』の事を思い出し、それをロココに渡そうとした時、玄関とも呼べない入り口から元気な声がした。
「ただいまーっ。……あれ? なんかいい匂いする。……あっ。にいちゃん!」
「おー、ニコ。おかえりー……って、おわっッ!!」
自分の方に突進してくるニコルに迅八が身構える。しかし、ニコルは迅八の胸に飛び込もうとして、その手前で足を止めた。
「……兄ちゃん。この人だれ?」
アゼルの事を言っているのだろう。
アゼルは完璧な、よそさま向けの顔で、柔らかく微笑んだ。
「……やあ。こんにちは」
「ん? ああ、こいつは俺の友達だよ。最初、俺に聞いてきただろ? こいつが『ロックボトムの弟』だよ」
「え? だってこのひと女じゃん。どこが弟なの?」
その言葉に反応したのはアゼルだった。
「……よく分かるな。こんなに短時間で見破られるのは珍しいよ」
「だって匂いでわかるもん。ねえ母さん」
「え、おばさんわかってたの? けどなんか、顔を赤くしてなかった?」
迅八がロココの方を見ると、ロココは頬を染めて静かに頭を下げた。
「いえ、それは、なんというか……。こんなに凛々しい女の子が、……説明しずらいです。アゼルさんごめんなさい。隠してらっしゃるようでしたので」
ロココの的を射ない言葉に迅八は首を傾げた。アゼルがロココに向けて言う。
「……別に構いはしないよ。今となっては習慣みたいなものだ。だからといって、言いふらされたくはないが」
その言葉で、迅八の中で気になっていた疑問が再び湧き出た。
(こいつ、なんで男の格好をしてんだ?)
今がそれを聞くいい機会なのかもしれない。しかし、迅八が口を開く前に、ニコルが他の疑問を口にした。
「……ねえねえ。姉ちゃんはさ、兄ちゃんの恋人なの?」
「ぶっっ。……な、なに言ってんだよニコ。そんな訳ないじゃん!! ……ねえ、アゼルさん?」
「俺に確かめるまでもない。当たり前だ」
「……いや、まあそりゃそうなんだけど」
「そっかあ……。んじゃ、姉ちゃんもゆっくりしてってよ!!」
そう言って、ニコルは満面の笑みで迅八に抱きついた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おーいしーい!!」
「あらあら……良かったわね」
小さなテーブルを四人で囲み、迅八達はコロッケに舌鼓を打っていた。一人を除いて。
「アゼル、なにやってんだよ。食えよ」
「……フン。お前、さっき俺には食わせないって言ってたじゃないか」
「それは違う話でしょって。……もうお土産は開いてんだから食っていいんだよ」
「うるさいな。別に食いたくない」
幸せそうにコロッケを食べていたニコルは、アゼルを見て言った。
「ねえねえ姉ちゃん。……凄い綺麗な目だね。近くで見てもいい?」
「……別に、いいけど」
「えへへ……」
ニコルが小さな体を動かして、アゼルの膝の上に乗る。それを見たロココは娘を小さく咎めた。
「こら、ニコっ」
「構わないよ」
「うわあ……。宝石みたいだ」
深い深い、緑色の目。
薄暗い部屋の中で、その瞳は僅かな光を反射する。——緑色の瞳の、鏡のような虹彩。ニコルには、そこに映る自分の顔が、いつもよりも輝いているように見えた。
「……こんなに綺麗なひと、いるんだね」
「顔だけはいいんだよ。顔だけは」
本当は、その心にも何度も助けられている。迅八はわかっていたが、憎まれ口を叩いた。
「……顔だって綺麗じゃない」
アゼルの言葉。
その意味がなんなのか、迅八は一瞬だけ考えた。
「ねえ姉ちゃん。その布、取ってみてもいい?」
「それは、」
「……ニコ。こっち来いよ。そんな奴と遊んでたって面白くねえだろ」
「そんな奴? 俺の聞き間違えか? ……お前、本当に喧嘩売ってるのか?」
「ま、まさか。違う、違うよ!」
二人のやり取りを見てニコルが笑う。そして、手に持っていたコロッケを二つに割った。
「はい姉ちゃん。半分こしよ」
「……ああ、そういう事か。ありがとうニコル」
アゼルがそう言うと、ストールが、ばかっと割れた。
「「「なッッッッ!?」」」
「むぐ、むぐ……ありがとうニコル。美味しかったよ」
「おま、おまっ……。なんだよ今の。ビックリすんだろ!!」
「お前はいつも見てるだろ」
「いや、こんなに唐突なのは見てないよ。手も使ってないじゃん!!」
「俺が何年これを巻いてると思ってるんだ。そのくらい出来るさ」
「何年巻いてたらそんな事が出来るんだよ!!」
その言葉を聞いたアゼルの目が薄暗い部屋をさまよい、やがてその目はニコルの顔の上で止まる。
赤毛の少女はニコルの首筋を撫でながら言った。
「……何年だろうな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ニコルはすっかりアゼルに懐いたようで、その様子を見ていた迅八は苦笑した。
「はは。ま、いいけどさ」
「あの子があんなに楽しそうに……」
ロココの静かな声には喜びが乗せられている。それは、純粋な母親としての愛だった。
その言葉に、自分の過去を重ねた迅八が俯きかけたところで、ニコルの頭を撫でていたアゼルが声をあげた。
「……ん? ニコル、どうしたんだこれは? 擦りむいてないか?」
「あ」
アゼルがニコルの髪の毛をかきあげると、そこには薄っすらと血が滲んでいた。それを見つけたロココが言う。
「……ニコ。なにがあったの?」
「なにもないよっ。転んだだけだから」
「あなた、危ない事をしてるんじゃ……」
「してないよ!!」
「……こっちにいらっしゃい」
アゼルの膝の上から離れ、ニコルはロココの元へいく。そばに来た娘の手を掴み、母親は奥へと消えた。
——あなた、危ない事を。仕事だったら母さんが
——本当に、本当に大丈夫だって!!
奥から聞こえてくる声に、アゼルが顔をしかめた。
「……悪い事を言ったかもしれない」
「ん……」
「おいジン。そろそろ帰ろう。長居しちゃ悪いよ」
「ん……俺たちが聞いていい話じゃないな。……おばさん、俺たち帰るから。また来るよ」
迅八が奥に向かい声をかけると、ロココとニコルが部屋に戻ってくる。
「ごめんなさいね。また来てちょうだい。この子も喜ぶわ」
「兄ちゃん……」
きゅっと。迅八の腰にしがみつく。
そして、顔をあげるとニコルは無理やり笑みを作った。
「……また来てね。今度は町を案内するから!」
「ああ。お土産も買ってくるよ」
「ジン。行こう」
迅八とアゼルは入り口に行き、一度振り返ってから外に出た。
「……兄ちゃんまたね。絶対だよっ。姉ちゃんも!」
「わかってるって。またなっ」
「ん……ああ。また」
以前、迅八が見送られた時とは違い、ニコルの姿はすぐに家の中に消えた。
————————————————
「……ふぅ。わざとじゃなかったし、悪い事だとは思わなかったんだけど。なあジン、ニコルは怒られるかな?」
「まあ……、色々あるだろうから。けど、別にお前は悪い事を言ってないよ」
迅八の頭の中では色々な事が渦巻いていた。
ニコルの仕事。
そして、母親の仕事。
おそらくそれは違うものなのだろう。
ニコルの仕事は迅八にもなんとなく想像がつく。それは時には危険を伴うのだろうし、やめさせた方がいいかもしれない。
おそらくそれは人に褒められる仕事ではない。しかし迅八は、道義的な意味でそれをやめさせたいと思った訳ではなかった。
(……あんな小さな女の子が、他にどうやって金を稼げばいいんだ)
しかし、迅八はこうも思うのだ。
誰もが、自分のような人間ではない。もしも、まずい人間を的にかけて、失敗したとしたら。
そして、母親の仕事。
それも迅八には想像がつく。
厳密には違うかもしれないが、迅八の母親も、迅八や静の為に働いていたからだ。
それらの事が渦巻く頭の中で、奇妙な単語が迅八の頭の中にあった。
それは、ロココがニコルの事を奥に連れていってから聞こえた。
闇の中、囁くような声色で聞こえたそれは、その場には場違いに聞こえた言葉だった。
「魔法の言葉……」
「……なに?」
「いや、さっきおばさんが奥で言ってなかった? なんか、魔法の言葉がどうたら」
その言葉を聞いたアゼルの顔が、ハッキリと歪んだ。
「え? なに? 知ってるの?」
「……ああ。昔、クーロンに聞いた事がある。亜人の女の間に伝わるおまじないさ」
「なんなのそれ?」
「……とっておきの言葉だ。絶体絶命の時に効果を発揮するんだ」
「すげえな。魔術なの? 教えてよ」
「……嫌だ」
「え」
アゼルの顔に憎悪が浮かぶ。
それは迅八に向けられたものではないし、迅八自身もそれは理解していたが、そのあまりの表情に自分が失言したのかと思った。
「ご、ごめん。……けど、俺の知り合いの人たちからは、そんな言葉を聞いた事がなかったから」
「ある状況じゃないと意味ないのさ。……それと、この言葉を知ってるのは亜人だけじゃない。誰にでも聞こうとするんじゃないぞ。お前に悪気がないのはわかるけど、『いいもの』じゃないんだ。……この話は終わりにしよう。クーロンにも聞くなよ」
「う、うん。あとさ、もう一個、聞きたい事があるんだ」
「……なんだ?」
「アゼル……あのさ、さっきのおばさん。ロココさんは、」
「ん? あの人がどうした」
「クロウが言うには、あの……死の匂いがするって。病気なんだって。魔術は効かないんだろ? それでさ、あの、お前の力……」
「ジン」
いつの間にか、ジンと。
アゼルはそう呼ぶようになっていた。しかし、アゼルの声色はいつもよりも冷え込んでいた。
「……さっきも言った。お前に悪気がないのは分かってる。だけど、その話もやめてくれ」
「けど、ロココさんが」
「条件がある。セリアの時も言ったはずだ。あの力は、使うのに条件があるんだ。……ジン。触れられたくない話は誰にでもあるよ。俺たちはお前とシズに無理強いした事が一度でもあるか? ジークエンド達はお前の過去を聞いたらしいが、それは無理矢理だったのか?」
迅八は、黙って首を振った。
「お前にもあるしシズにだってあるだろ? 俺にだってあるんだ。……この話は終わりにしてくれ」
アゼルはそれだけ言うと、迅八を置いて歩き出した。
まだ日が落ちるには時間がある。
迅八は、本当ならアゼルを連れて、ニコルと三人で、町を歩こうと思っていた。
少しずつアゼルの背中が遠くなってゆく。予定では楽しい外出のはずだった。
しかし、先ほどまで隣を歩いていた少女は、いつの間にかとても小さくなり、やがて曲がり角に消えた。
「……あーー」
出そうになるため息を抑えこもうとして、迅八は抑える必要がないのに気付いた。周りには誰もいない。
「……はあああぁぁ」
迅八はクロウに言われた。
これは忠告だと。
収穫祭の洞窟でも言われた、もうなにも出来る事はないという意味の言葉。
フィレットを助けた時とは違う。力で解決できる事ではない。迅八に出来る事はなにもなかった。
ニコルの仕事。
やめさせたとしても、迅八になにが出来るのか。
ニコルの母親の病気。
それこそ迅八には何も出来ない。迅八は普通の高校生だ。ロココに元気になってもらいたいと思うが、思う事しか出来ない。
「……どうすんだよコレ」
深入りするなとクロウは言った。
この結果が分かっていたからだ。
「……けど、ほっとけないよ」
日本育ちの少年。
黒髪の転生者。
こちらの世界の『楽園』は、元の世界とは訳が違った。立ち尽くす少年の髪を風が撫でる。
今はその髪はざわめくことなく、ただただ、風に揺れて流れていた。
————————————————
迅八が頭を抱えていたその頃、千年の大悪魔もまた頭を抱えていた。
「……おおっ。まさか、まさかワシが生きているうちに、またお会い出来るとわあああッ!!」
「や、やめろジジイッ!! 誰なんだよテメエはッ!?」
はじめは周りの通行人達に小さな輪が出来た。
しかし、豪奢なマントに身を包んだ男に平伏している老人——その老人が誰なのかに気付くと、みんな顔を青ざめさせて、同じようにクロウに平伏した。
「おおおおおおおおおぉぉ…!! 魂食さま、魂食さまあああああああ!!」
「な、なんだよ。だからテメエは誰なんだって!!」
「わたしの顔をォ、お忘れですかああっ!?」
「てめえみてえなシワクチャは知らねえよ。梅干しか!? ……足離せって!!」
「おおっ……!! やはり、その口の悪さは間違いありませぬうううう!!」
クロウにすがりつく老人の腕は、見た目からは計り知れない膂力で、決してクロウの足を離さない。
平伏する人の輪はどんどん広がっていく。この場で立っている人間は、老人が召し連れていた、眼鏡をかけた女性一人だけだった。
——へへーー!!
——だれ? あれだれ?
——知らねえけど、いいから頭下げとけ!!
——あの『救国』のサジタリアが頭下げてんだぞ!!
——どっかの国王じゃねえのか?
——バカ言え。国王だったら逆に頭下げるわ!!
——んじゃ誰だよ。その上なんていねえだろうが
「……おおおおおッッ。魂食さまああああ!!!」
「だ、だからテメエは誰なんだって!!」
一人だけ立っている女は、なにも語らずにクロウの事を見つめている。
女がかけている丸いグルグル眼鏡の奥の目は、クロウからは見えなかった。




