ソード・オブ・ハート
「……シェリー、もう大丈夫だから、父ちゃんと母ちゃんと一緒に下がってるんだ」
カザリアの目の前で、異形の人間……迅八は少女に声を掛けた。
カザリアはその姿に動揺もしていたが、それよりも悪食の態度が気にかかった。目の前の大悪魔が、自分よりもこの人間を警戒しているように見えたのだ。
油断なく様子を見ているカザリアの前で、その人間は悪魔に向けて口を開いた。
「……クロウ。さっきのおかしな靄は、お前が出したのか? 」
「ち、違え、俺じゃねえ。今だってそのガキ共を俺が守ろうとしてたんだ!! ……な? そうだろ!? ……な? な!?」
みっともない程にうろたえる、クロウの懇願のような問い掛けに、少女の母はコクリと頷いた。
「そうか。じゃあお前は後でだ 」
「後でってなんだこのクソガキ……、」
クロウは言いかけたが、激怒しているらしい迅八の目から逃れるように、さっさとその場から離れようとした。
クロウは思っていた。——こいつは得体が知れない。気持ち悪い。
「クロウ」
迅八がシェリーを見る。震えている人間の親子を。
「ちっ……! わかった、わかったよ!!」
その大きな腕にクロウが三人を一気に抱え、少し離れた場所まで跳ぶと、シェリーが驚きの声をあげた。
「おっきい、はやいっ!!」
「うるせえガキが。食っちまうぞ!!」
けたけたと笑うシェリーと、ガタガタ震える父母を見て、クロウは何度目になるか判らない溜息をついた。
クロウ達の姿が見えなくなると、静かにカザリアは口を開いた。悪食は捨て置けない。しかし、目の前の異形の人間は、それよりも捨て置けない。
「……さて、人間よ。お前は何者だ。何故『悪食』と共にいる。仲間なのか?」
辺りに誰も居なくなった町の広場。
『にじり寄る闇』によって半壊したその広場で、人間と天使が対峙する。
「それよりも、お前は天使なのか?」
「……そうだ」
「ロザーヌ……さっきの母親は、体が腐り落ちそうになっても、お前が助けてくれると信じていたぞ」
なんで、この鉄火場において、この人間はなんの益にもならない会話をしようとしているのか。カザリアには理解出来なかった。
「何故助けるのだ。そもそも『にじり寄る闇』を放ったのは私だ。別にあの母子を殺そうとした訳ではないが、その場にたまたまいた。それだけの事だ 」
「……ふうん」
迅八の目が、昏く、深い闇に沈んでいくのを、目の前のカザリアは気付かなかった。
「……天使は、人間の味方なんじゃないのか?」
「勘違いするな下種が。
我等は庇護者だ。対等ではない。大義の前には有象無象の命など塵芥に過ぎん。貴様の石ころ程度の脳味噌でもそれが理解出来たのなら、疾く答えよ。 ……貴様と悪食は、なんの関係がある」
突然、迅八の右手の剣がブレる様に揺れると、カザリアの背後で、ざんっと音が鳴り、その剣が石畳に突き立った。
「……人間、どうやら貴様も滅殺されるのが好みのようだな!!」
カザリアが戦闘態勢に移ろうと翼を広げると、なんでもない事のように迅八が言った。
「おい。ところでそれ、大事なもんなんじゃないのか?」
迅八がカザリアの翼を指差す。
カザリアが首を巡らすと、その片翼が半ばから断ち切られていた。
「な」
カザリアが呆然と己の翼を認めると、いつの間にか迅八がその背中に迫っていた。
「おい天使。大切なもんなんじゃねえのか? 違うのか? ……だったら要らねえな」
迅八はカザリアの耳元で囁くと、素手のまま全力で、断ち切られた方の翼に掴みかかった。
そのまま両手を使い、足を踏ん張り、根元から翼を引き千切ろうとする。
「いぎっ、ぎ、ああああああっ!?」
生きたままその身をもぎとられる激痛に、カザリアは思わず叫ぶ。しかし迅八は一切の遠慮も躊躇もなく、目を爛々と輝かせ、口の端に泡を溜めて、両腕に力を込めた。
「や、やめろっ!! 離せ、離せえええええっっ!!」
あまりの至近距離の為にカザリアは得意の槍術を封じられ、素手で迅八を殴りつけ、その顔を掴み、引き離そうとした。
勢いのまま迅八の顔を押し退けようとしたカザリアの指が、迅八の目玉を潰し、眼窩にぞぶりと指が埋まった。……弾ける。指先から伝わるその感触に、肌が粟立った。
「おっ……!!」
今まで数えきれぬ敵を屠り、その屍を越えてきた。だが、わざわざ相手の目玉を自分の指でえぐり出した事など一度もない。
迅八の残った片目は狂気で昏く濁っている。その目は爛々と、今自分が引き千切ろうとしている翼の接合部に向けられ、唐突にそこに囓りついた。
「あ、あっああっがアアアアアアアッッ!!」
背中に生じた致命的な激痛にカザリアは崩れ落ちる。そこに迅八は馬乗りになった。
その手には、たった今カザリアから引き千切った翼が握られていた。元は純白だったそれは、今は血を滴らせ、汚れと体液とで薄汚い糸を引いていた。
カザリアは自分の体に跨る迅八を見上げた。……町の灯りを背にして闇に浮かび上がるその姿は、ぼんやりとした光に浮かぶ、暗黒の太陽のように見える。
迅八はカザリアの顔に向けて、口から何かを吐き出した。
粘性を伴いカザリアの顔に張り付いたそれは、引き千切られた翼と、咀嚼された肉片だった。
「ヒィ……!」
カザリアは、無意識の内に頼りない悲鳴をあげていた。大声は出せなかった。目の前の存在を刺激する事など出来なかった。
「……気にするなよ。こんなのは些末な事だ 」
迅八は、引き千切った翼を一瞥すると、まるでゴミのようにそれを放り投げた。
カザリアは、一瞬恐怖を忘れた。天使の象徴たる純白の翼を引き千切られたのだ。それが些末な事であるはずがない。
怒声を発しようとしたカザリアの顔を覗き込むように、迅八の顔が息のかかる距離まで肉薄する。
その底冷えのする、狂気を孕んだ表情に、カザリアは言葉を失くした。
「……こんなのは、取るに足りねえ。なあ、そうだろう?」
気が付けばまたいつの間にか、迅八の右手には『ナイフ』が握られていた。
「誰かの大切なもんを、宝物をっ!!
壊しちまおうが失くしちまおうが、そんな事は些末な事だし取るに足りねえ!! ……貴様は確かにそう言ったなッッ!!」
(なんだこの人間は!?)
判らない、何もかもが判らない。
カザリアには、なんでこいつがこんなに激怒しているのかも理解出来ない。
こんなのは、戦いじゃない。
掴みかかり、殴り合い、噛り付いて唾を吐きかける。こんなのは、子供の喧嘩だ。
(……その子供相手に、怯えている私はなんなのだ!!)
カザリアは己の恐れを振り払う様に、裂帛の気合いを叫ぶ。「っ、うおおおおおおおおおおっ!!」そして、自由な右手を迅八の心臓に向け、恐ろしい速度でもって解き放つ。その貫手はナイフを振りかぶっていた迅八の胸を、真っ直ぐに穿った。
「がっ!! がひっ!!」
……ごぷりと。迅八の口から赤黒い血が大量に吐き出され、それはカザリアの顔にどばどばとかかった。
カザリアの右手は迅八の胸を貫通した。振りかぶっていたナイフを力なく取り落とし、カザリアの上に乗る迅八の体から力が消えてゆく。
そしてカザリアに覆いかぶさるように、迅八はどさりとその体を預けた。
「……ふ、ふはっ、ふははははははははっ!!」
カザリアは、なぜ自分が笑っているのかが判らなかった。しかし、心の底から安堵していた。
得体の知れない恐怖と、そこからの安堵への落差から、一時的に精神のタガが外れていた。
「ふ、ふははははっ! 私の、私の勝ちだっっ!!」
右手は迅八の体を完璧に貫通し、迅八の体はカザリアに重なるようになっている。
その迅八の体を引き離そうと、カザリアは自分の顔の真横に位置していた迅八の頭を掴んだ。
「どうだ……どうだっ、くおの薄汚い下種が!! ……散々と偉そうに言ってくれたなああ! どおおうだアアアアアアアッッ!? 心臓を貫かれた気分は!! ……フハハハハッ、」
ぐるりと。迅八の顔が動き、カザリアの目の前でその口を開いた。
「……取るに足りねえッッ!!」
そのまま迅八はカザリアの首に噛り付いた。
「い、いぎゃあああああああああああああああっ!!」
「痛い、痛い!! やめろ! やめろおおおおおっ! ぃひ、ひぃぃぃぃっ、 ……あ、」
「食べ、そん、……アッ!! やめっ……!! いあっ、あああああああやめえええええええッッ、食うなあああああああッッ!!」
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「ぜっ、ぜっ、くはぁ……」
その巨体から突然血を流しながら、クロウは膝をついた。
「……だいじょうぶ? くろちゃん、痛いの? だいじょうぶ?」
シェリーは血を流し悶えるクロウの背中を必死にさすっていた。
(痛え、いでえええええっ! あのガキ、心臓やられやがった!)
その長い人生の中で、心臓を貫かれた事は何度かあるが、この痛みは格別だ。
クロウには心臓が幾つかある。なのでその中の一つが壊れたところで死ぬ事はない。
それ以前に天使や悪魔といった存在は、肉体が滅んだとしても、それは死を意味しない。
すぐに、という訳にはいかないが、それほど間を置かずして『受肉』出来る。肉体の復活だ。ある意味において、不死の存在。
上位不死族のなかで、その呼び名が天使だったり悪魔だったりするだけなのだ。
しかしクロウの『魂喰らい』は、魂そのものを攻撃し、取り込んだり消失させる事が出来る。それ故に大悪魔として怖れられているのだが、今はその大悪魔は膝をつき血を吐いていた。
「だいじょうぶ? くろちゃん、だいじょうぶ?」
(こおおのガキぃぃいい! 誰に向かって言いやがる! クロちゃんだあ!? ぷちっとやってやるか、プチっと!! ……いいいてええええええええいてえいてえ!)
迅八と会話をしていたからだろう、この子供はやたらと自分に構いたがる。
そんなシェリーにクロウは辟易していた。
しかし、今はそれどころではない。
今すぐ迅八の元に向かい、状況を把握しなければならない。
(心臓やられて、なんであのガキは生きてやがる!)
クロウにとって肉体の死と魂の死は別物だ。しかし迅八にとっては、それは同義と言っていい。
厳密に言えば肉体が死んでもすぐに魂が消失する訳ではないが、次第に魂は拡散して、世界に還ってゆく。
もしも迅八の魂の拡散が始まっていれば、クロウも痛いどころで済む話ではない。
「げはあああああああっっ!!」
一度、体の中に溜まった血を全部吐き出しクロウは荒い息をつくと、ルシオとロザーヌを見やった。
「……おい人間。このチビを連れてさっさと家に帰れ。んで鍵を掛けてガタガタ震えてろ。そのまま朝まで待ってりゃあ、てめえらのいつも通りのド退屈な一日が始まるだろうよ。……俺はさっきの場所に戻る 」
クロウが、戦いが続いているであろう先程の場所に跳躍しようとすると、後ろから声を掛けられた。
「くろちゃん、わたし、シェリー!」
ちらり、とシェリーを一瞥する。
その笑顔は輝いていた。
「またね!くろちゃん!」
「……けっ 」
そしてクロウは振り返ることなく跳び去った。
「シェリー…… 良かった、本当に良かった!」
ロザーヌが我が子を抱きしめると、その二人を包み込むように、ルシオがロザーヌの腰に手を回した。
「……さ、神獣様の言う通りにして、まずは家に帰ろう」
その手からは傷が消えていた。『神獣』の回復術で、いつの間にか治されていたのだ。
半裸だったロザーヌも、神獣がどこからか出してきた服を羽織り、今ではその短くなってしまった髪の毛以外はどこにも異常は見当たらない。
ルシオは心の中であの奇妙な少年と神獣に感謝を捧げ、大切な家族を守るため家路を急いだ。
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「あれは……ジンパチか!?」
クロウがたどり着くと、広場の中央には一体の影が立っていた。
その影は、フラフラとよろめきながら、離れた場所に突き立つ赤と黒の螺旋の槍に向かった。
「違え……あれは『漆黒』か!!」
すると、そのカザリアの首が、かくんと取れた。
脊髄だけで辛うじて繋がるその首を、カザリアは左手で支えるように持ち、その槍に辿り着いた。
「ひ、ひ、ヒュー、ヒュー……!」
言葉にならない呟きが、カザリアの口ではなく首から漏れた。
クロウが広場の中央を見ると、迅八が血塗れの胸からナイフを生やして倒れこんでいる。
「なんで見る度にナイフを生やしてやがるんだ馬鹿が……、仕方ねえっ!」
クロウが迅八を回収する為に走り出すと、見えない壁に阻まれた。
「結界!? ……野郎、まだそんな力がありやがるかっ!!」
クロウの存在に気付いたカザリアは左手で首を押さえたまま喋り出す。
「……ああぐじぎぃい! ごの、ぐぉのごどもわああああ、ねあんだアアアアアッ!?」
まだ声帯も気道も完璧にくっついてはいないのだ。耳障りな濁音と共に言葉をゆっくりと紡ぎ出す。
「ぐぉのごどもわああ、ぎげんだアアア! このがらだをうしなっでも、ゴイヅだげはあ…!」
するとカザリアの片翼が広がり、そこから濃密な闇が溢れ出す。
「じねええええ!『にじり寄る闇』!」
もうほとんど力が残っていなかったのだろう。先程よりも遥かに小さい結界は、その分さっきとは比べものにならないスピードでもって内部を闇で侵食してゆく。
「ジンパチ!! なにしてやがる、戦ええいっ!!」
その声で目を覚ましたのか、迅八がゆらりと立ち上がり、カザリアに向かい怒りの咆哮をあげた。
「ぐっふ……、テエエメエエエエエ!!」
「もはやああ、むぅだなあ、あがぎよオオオッッ!」
それを見たカザリアが翼をはためかせる速度をあげると、それに比例して闇が濃くなった。それを見ていたクロウに、初めてその技……『にじり寄る闇』の正体が分かった。
「……羽根の鱗粉っ!? 野郎、天使じゃなくて蛾じゃねえか!」
結界に阻まれ、戦いを眺める事しか出来ないクロウの前で、迅八は胸に突き立つナイフに手を掛け、それを一気に引き抜いた。
すると、やはりその刀身は青白く輝き、長大な青い剣となった。
その剣を両手で頭上に掲げ、凄まじい速度と残された全力でもって、今や手で触れるほどに密度を濃くした闇の鱗粉に撃ちかかる。
三半規管を揺さぶる程の、剣と闇との炸裂音。その力は全くの互角だった。
しかし、その闇の正体は鱗粉。迅八の剣にまとわりつき、それを伝い迅八の体を侵食しようと迫る。
「ジンパチィィィ!! 叫べッッ!!」
「なにっ!?」
「その剣の名前を呼べええええい!!」
クロウが突然何を言い出したのか、迅八にはその意図が掴めない。
「名前なんかねえよ!!」
「なら、今つけろ、なんでもいいっ。……早くしろおおおっ!!」
闇はジリジリと迅八を蝕み、その腕を伝い体にまで迫りつつあった。
カザリアはそれをみて、自分の勝利を確信した。力は拮抗している。
……しかし技の性質上、自分が勝つ!!
「ぐぉれで、おわり、だああアアアアアアア!!」
カザリアもまた、その最後の力を振り絞り闇の鱗粉を放出する。そしてその闇は一気に迅八の体を包み込んだ。
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迅八は自分の身を灼き腐食させようとする鱗粉の中で、歯を食いしばりながらその力に抗っていた。
(名前を呼べだと!? それがなんになる!! これは、もうどうにもっっ!!)
その時まとわりつく腐食の鱗粉が、迅八の心から一瞬だけ怒りの感情を取り去った。…そこには、死の恐怖があった。
「死ねない……!!」
さっきロザーヌの顔を見て思った。自分の妹の事を。
ひょっとしたら、自分の妹、静もこの怖ろしい世界に来ているのかもしれない。その考えに思い至った。
「死ねない、あいつが、この世界にいるのかもしれねえっ!!」
迅八の体にその想いが伝わるように、黒線に走る青い光が強くなる。
その光はどんどんと輝きを増して、迅八の手から剣へと伝わり、その光は闇を切り払う。
一瞬、その隙間から見えたカザリアの顔は、驚きと恐怖で歪んでいた。
「ぎ、ぎいさまあ、ぎざまああアアアアア! お前は、いっだいぃぃぃ……ねあンだぁあああああっっ!?」
「うおおおおおっ!! 食らいやがれええアッッ!! 『心臓剣』ッッ!!」
闇の鱗粉は結界内部を満たしている。暗闇の町のそれより深い闇の中、心臓剣から放たれた凄まじい光の奔流は、対峙する天使と人間を包み込んだ。