二の次
——寝ているのか起きているのか、よく分からない闇の中。
——母さん、父さん、あいつ、由布子。クラスメイト 先生 読んだ漫画 やったゲーム テレビタレント 誰かの言葉 分からない不安 切り裂く光 ……黄色い花畑。
——考えないようにしている。もうあんな所に帰りたくない。俺はここで『力』を手に入れた。誰かを守れる力だ。俺の道を切り開く力だ。俺はあの世界で、あんなちっぽけなナイフで、なにと戦おうとしていた?
——無理だ。勝てない。俺にはなんの力もなかった。けど、逃げ出す事には成功した。理由は? なんでここに? 考えない。考えない。……これが夢だとして、目が覚めてしまったらどうする? どこかで、些細なことで真実が襲ってきたらどうする? それが、見たくないものだったらどうする?
——ここが異世界だとして、次の日、目覚めたらあの世界だったらどうする?
ここが死後の世界だとしたら……どうする? なにが出来る? 考えない。考えたくない。
——雨の音が聞こえる。
起きているのか寝てるのか よく分からない闇の中。
——誰かが泣いてる気がするんだ。どこかで聞いた事があるその声を、俺は助けてやらなくちゃいけないんだ。だって、ずっと呼んでいる。俺の事を呼んでいる。
誰かが傷付けられると正気を保っていられない。
助けなくちゃいけない。
頭の中で声がするんだ。
——気持ち悪い。気分が悪い。 ……けど、右手が暖かい。自分が溶けてしまいそうな闇の中で、ずっと俺の手を掴んでくれている奴がいる。
——髪の毛を優しく、やさしく。撫でてくれる奴がいる。
……ありがとう。ありがとう。それだけで生きていられる。そんな下らない事だけでも、生きていける奴だっているんだよ。……ありがとう。だから やめないで。
——闇の中に浮かぶ瞳。緑色の目。
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迅八が目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。
寝ていたベッドのすぐ横に窓があり、そこから柔らかい朝の光が入ってくる。
「……最悪の気分だ 」
迅八は頭の中で昨日の事を思い出す。
熱砂の国ロンダルシアの町並み。
そこで出会ったニコル。
抜いたら殺せ。
元の世界。
「サイテーだ……」
結局、迅八はアゼルの部屋で眠ってしまっていたようだった。そこで迅八は思い出す。
「……アゼル」
その少女は、ベッドに上半身だけを預けてうつ伏せになっていた。
床に直接座り、迅八の方に向かって体を預けている。そして、その少女の左手。
「あ……」
迅八の右手に重なるように置かれていたその手は、くるんと丸まっている。
「……すぅ、すー」
柔らかい光に包まれて眠るその少女の寝顔は、とても安らかに見えた。顔に巻いているストールがずれて、小さな口から薄い呼吸音が聞こえる。
迅八の目には、赤毛の少女が、きらきらと輝いて見えた。
「アゼル……」
思わず迅八は、左手でアゼルの髪の毛を触ってしまった。風呂嫌いの少女は、昨日シズの事を連れて風呂に入っていた。
汚れの落ちた、少し硬い赤毛に刺激を与えないよう、優しく櫛摺る。
「ん……すぅ、すー」
「……やっぱ、可愛いな」
そして、その時ストールからはみ出た火傷の跡に気付く。
(……そういえば、こいつ、なんであの力で)
自分の傷を治さないのか。
アゼルは、あの力を使うには『条件がある』と言っていた。
(色々、あるんだろうな……)
迅八はアゼルの事を何も知らない。
アゼルスタンを名乗る理由も、男の格好をしている理由も、その火傷の跡も、過去に何があったのかも。
ジークエンドの事も、コルテの事も、アマレロの事もクーロンの事も、何も知らない。
分かっているのは一つだけだ。
「俺がキツい時には、助けてくれる……」
夢現でうなされて震えていた自分の頭を、撫でてくれていた。
ずっとこの手を、掴んでいてくれていた。それが誰なのか、迅八にも分かっている。
「すぅ……、すー……」
迅八は幾つか決めた事がある。
クロウとロックボトムに恩を返す。
それが自分とシズの目標だ。そして、それ以外にもう一つ。
恩を返すと言っても、みんな迅八よりも強い。迅八の力で彼らに恩返しが出来るのがいつになるのか分からない。
迅八が持っている金だってクロウやコルテから貰ったものだし、本当に彼らには世話になりっぱなしなのだ。
「アゼル……」
——この少女は、せめて自分が守る。迅八はそう決めた。
アゼルはロックボトムのみんなに守られている。大切な存在なのだろう。そして、迅八とシズにとっての恩人でもある。
アゼルも強いが、ロックボトムの中では『守られる側』だ。だったら、自分は彼女の盾になる。いざという時には彼女の代わりに自分が死ぬ。
もっともクロウがそんな事は許さないだろうし、自分が死ぬ事があるのか、それすら分からないが、その位の気持ちでいざとなったらアゼルを守る。迅八はそう決めていた。
迅八は、本当に自然と、その少女の頭を撫で続けていた。そしてまた本当に自然と、……自分の顔を少女の頭に近付けた。
「……する、です? キス、するです?」
「どわああああっっ!? だああッッ!!」
「……すぅ、…ん、んっ!?」
突然、後ろから聞こえた声に、迅八は飛び上がり驚いた。そしてそのままベッドから落ちた。
「ひぃぃぃぃ!!」
「キャッ……!!」
迅八の下で、アゼルが緑色の目を大きく開いた。迅八は、自分が組み敷いている少女のその姿に見惚れてしまった。
……ストールは巻いているものの、その服装はいつもとは違った。緑色のコートと長ズボンではなく、柔らかな綿で出来た上下を着ている。本当に薄い若草色で染められたそれは、上着もズボンも七分丈だった。
アゼルが普段着ている服は、防具も兼ねる物で、所々が革や金属で補強されていて体の線など全く分からない。しかし、いま着ている服は、その体の線を浮かび上がらせている。
……曲線を描き尻に向かう太もも。その上の腰の部分はシャツがはだけてしまって可愛らしいへそが見える。そして、問題はその更に上の部分、柔らかそうに膨らむ胸、いや、柔らかい胸。
迅八の右手はアゼルの手から離れて、今はいつも隠している大きめの胸の上にあった。
「お、お、……お、あ、」
「なっ……なっ……!!」
アゼルの頬が、その赤毛と同じように赤く染まっている。そして、驚愕に見開かれた美しい緑色の目に映るもの。
「……おまえ、なにをっ!」
「ち、違う! マジ、マジ違うんだっ!」
アゼルの緑色の瞳に映る、自由貿易ヒルズ。
「だから、なんなんだよそれはっ……!」
「違う、朝だからっ。シズが急に声かけるからっっ!!」
そんな事を言いながら、迅八は自分に訪れる運命を悟っていた。
だって、何回も見たことがある。漫画で、映画で、ゲームで、何回も見たことがある。
こういうトラブルのあと、男がどんな目に合うのか。
(けど、二回目はもういいだろ!?)
アゼルが一度目を閉じ、その後、目がカッと開かれる。……その目には緑色の炎が揺れていた。
「……っっ祈れえええッ!!」
「やっぱね。ほら、やっぱりねっっ!! ……アアアアアアッーー!!」
楽園に朝を告げる絶叫が響いたその直後、階下からも大悪魔の叫びが木霊した。
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「おうこらアゼル……。てめえ、いい加減にしやがれ。俺様にも伝わってくるだろが!! 手加減しろ、手加減っ!!」
一階のバーカウンターは食堂にもなっている。カウンターの内側ではコルテが腕を組み、鍋の火加減を見ていた。
みながもう起きていた。
正確には叫び声で起こされた。
ソファーの上で半目になり頭を揺らしているジークエンドを筆頭に、思い思いに好きな場所で朝食が出来るのを待っている。
そして、部屋のど真ん中で正座させられている少年を挟み、千年の大悪魔と赤毛の少女は向かい合っていた。
「……だいたいな、いいか? 俺様とこいつの間じゃ、それなりのでけえダメージじゃないと伝わらねえんだ。てめえはどれだけ本気で殴ってやがんだ? ……殺す気か!? このクソガキを殺す気なのか!?」
正座している少年が、うんうんと頷いている。
「……死んだらそいつが弱かったってだけの話だ。それよりもお前こそ、そこの変態をしっかり教育しておけよ。……信じられない。こいつ、俺になにをしようとしたと思う?」
「ちょ、やめて、アゼルやめて。マジで違うんだって。誤解なんだよっ!!」
——そろそろいいですかね。シズ、皿を出しなさい。
——はい、です!
「あん? 知らねえが大した事はしてねえだろ。そのガキにゃ、そんな度胸はありゃしねえよ」
「……お前は知らないんだよ。そいつの邪悪さをな。千年の大悪魔は、本当はそいつの事じゃないのか?」
——お〜? コルテ、俺大盛りな〜。シズ、奥にでかい皿があるからそれにしろよ〜
——はい、です!
「いいか。そいつはな。……俺の胸を触って……唇を、奪おうと。……信じられない。弱っていたから部屋に入れてやったのに、裏切られた気持ちだよ……!!」
「違う違う、ちがうちがーーう!!」
——む? いま、目が覚めるような言葉が聞こえたぞ。どういう事だ。……シズ、俺も大盛りだ。
——はい、です!
「違うんだって! ……その、胸を触っちゃったのは謝るけど、わざとじゃないんだよ!!」
「それじゃ、お前が寝てる俺の顔に近付いてきたって話は? シズが言ってたぞッ!!」
——へえ〜。坊やもなかなかやるもんだねえ。……あ、シズ。あたし、朝はあんま食べないから少なめね。
——はい、です!
「違うんだよ。それはキスしようとしたんじゃなくて……!!」
「あん? んじゃなにしようとしたんだよ。このエロガキ」
「それは……」
千年の大悪魔が問いかける。
アゼルも含め、その場の人間達は、みな迅八を見ていた。
「髪の……」
「あん? 髪がなんだってんだ」
「……髪の匂いを、嗅ごうと、したんだけど」
——お〜
——ふむ
——はぁ
——あらら
——キモっ
「ちょっと待て!! 今俺の肉親が聞き捨てならねえ事を、……うぐっっ!?」
ずどん、と。
アゼルの拳が再び迅八の肝臓を刺す。それと同時に、また大悪魔が叫びをあげた。
「ぐああああっ!? ……待て、アゼル、待ちやがれ。おめえの気持ちも分かる。たしかにこいつは気持ち悪りい。腐ったミカンだ、カビた餅だ。ゴミ以外のなんでもありゃしねえっ! ……だがな、俺にまで伝わってくるんだ。頼む、勘弁してくれっ!!」
「なんなの!? 千年の大悪魔が代わりに謝る位の事を俺はやったの!? そんなにひどい事なの!?」
「うるせえ変態イイ……! 内蔵潰して悶え死ね……!!」
「あッ、やめて、やめてええっ!」
「ジンパチ、てめえ、てんめええええええッッ!! んっがーーー!!」
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無言の食卓の上で迅八が塩を探すと、それはアゼルのそばにあった。
「あ、アゼル……ちょっとさ、それ取ってくれねえかな」
「……ジークエンド」
さっ、と。
ジークエンドがその塩を手に取り、迅八に渡した。
——カチャカチャと。静寂の食卓にナイフとフォークの音が響いている。
「あ、あのさあ、みんな、今日はどうすんの? 俺はさあ、」
「……アマレロ」
頬張っていたパンを喉に詰まらせそうになり、アマレロがそれを水で流し込む。ゲホンゲホンとむせながら、アマレロが言った。
「お、お〜? 俺達ゃあれだな〜。ちっとそれぞれやる事があるな〜。坊主は好きにしてていいぞ〜」
「そ、そう? わかった」
その日の朝食も素晴らしいものだった。
柔らかなパンと半熟の目玉焼き、大皿に盛られたサラダと、食べる者には焼かれた肉も振舞われている。
手の込んだ冷製スープをアゼルがすすり、一言口にした。
「……コルテ。このスープ、しょっぱいね」
「そ、そうでしたかね? そうかもしれませんね。……いやあ、失敬失敬。 ……ところでこのスープの材料はなんだと思います? なんと大根なんですよ」
「……へえ。黄色いからトウモロコシだと思ってたよ」
「でっかいトウモロコシだったんですよ。大コーン。 ……はははははっ」
「……へえ」
……すっっぱーん。
クーロンが鋭くコルテの頭を叩く。
一瞬、コルテは何かを言おうとしたが、結局は何も言わずに大コンのスープをすすった。
その光景を、迅八は戦慄の思いで見ていた。
(……俺の、せいなのか?)
地獄のような食卓だった。独裁国家の晩餐会の参加者などは、こんな気分なのかもしれない。
シズは我関せずともぐもぐ食事をしているし、クロウすら不満気な顔をしているものの、出来るだけ音を立てない様に食事をしている。
……傍若無人、唯我独尊の大悪魔。しかし、今その顔に浮かぶのは孤城落日の色だった。
チラチラとアゼルを伺う目つきには、怯えすら見える。
「……みんな! ごめん俺のせいでっっ」
迅八は叫んだ。しかし、言っている。みんなの顔が言っている。——『黙れ』と。今は何も言うなと。
「アゼル許してくれ。本当にわざとじゃないんだ!!」
「……うるさいな」
「本当に感謝してるんだ。ずっと、手握っててくれたろ? 嬉しかったよ。本当に、ほんとうに、感謝してるんだ」
「うるさいって言ってるんだけど……!」
しかし迅八は黙らない。
「みんなに感謝してる。……けど、お前は特別だ。シズの事も感謝してるし、俺も助けられてる。だから、お前に嫌われたくないんだ。……ごめん。本当にごめん」
「特別って……」
「特別だ。シズも俺も、お前に助けられた。……もしも何かがあったら、俺は、俺よりもお前を守る。『俺』は二の次だ」
「なにを……」
「お前は俺たちの特別だ。それだけだよ。……ごめんな。あと、ありがとな」
迅八は食事を再開する。
他の者は呆気に取られたように見ていた。
アゼルはストールの奥で口をポカンと開けたあと、なぜか急に下を向いた。
「……コルテ、ごちそうさま。美味しかったよ」
「はいはい……え?」
アゼルはそのまま席を立つと階段を上っていってしまった。
「……ほ〜」
「……ふむ」
「……へえ」
「……です」
アゼルの後ろ姿を見送り、迅八はため息をつく。
「あ〜、怒らせちゃったなあ……」
「いや……怒ってるってよりも」
コルテの言葉を遮り、クロウが迅八の肩を抱く。
「……おい小僧。テメエ、なかなかやるじゃねえか。くかかかかか……。落としてから上げるのか」
「は? なにが? ……え? 有効? 今の有効なの?」
「坊や。あんたやるもんだねえ」
「……ふむ。いい度胸だなジン。俺の前でアゼルを口説くのか」
「口説く? 口説いてないよ。なに言ってんの!?」
「お〜。坊主、それは余計だからアゼルの前で言うんじゃね〜ぞ〜」
「ま、何はともあれ美味い食事ができそうですね。……ほら、みんな。大コンのスープのお代わりは?」
「……コルテ。まずくなるから黙りな」
その後、和やかに食事は進んだ。




