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アゲイン×2 《クロスツー》  作者: 紺堂 悦文
第五章 魔法の言葉
86/140

夕暮れの町

 



「なんだコラてめえ……。たかだか亜人が失礼な態度だな。デコピンで世界の果てまで飛ばしてやろうか?」

「もうやめろって。お前に慣れてないと本気で言ってるように聞こえるの!! ……怯えてんじゃねえかよっ」


 クロウは本気で言っていたのだが、迅八は良い方向に誤解したようだった。最近、迅八はクロウに対していつもこんな感じだ。それがクロウには気に入らない。


「……ちょっと、兄ちゃん。こ、この人だれ? この人もロックボトム? ……まさか、竜ごろし?」

「このチビ、まさかアマレロの事を言ってやがんのか? ……おうジンパチ、言ってやれ。偉大なるこの超俺様が、誰様なのか教えてやれ」

「犬っころだよニコル。クロって言うんだ。好物は味噌汁をかけたご飯なんだよ」

「てめえッ!!!!」


 ニコルは道端で喧嘩しだす二人を、呆然と見る。通行人達も顔をしかめていた。



 ……先ほど因縁をつけてきた三人組の一人をクロウが殴り飛ばしてから、何も考えずに逃げた。どうやら先導したニコルは無意識のうちに、自分の家の方に走ってしまっていたらしい。

 新しく現れた男——クロウは、ニコルが今までに見たどんな男よりも、人を惹きつける空気を持っていた。

 顔だけではない。肉体も、声も、服装も、その全てが『只者ではない』と宣伝している。


 仕事前の女たちが寝ぼけた顔で通りに出ると、クロウを見て息を呑んだ。

 すると急いで家に戻り、仕事用の化粧と服を着て、また外に出てくる。

 視界の隅でチラチラと動いている彼女達の目は、上客を逃がすまいとする狩猟者(ハンター)のそれだった。


(だ、だめだ。目立ちすぎる!!)



「兄ちゃん、すぐ近くに俺んちがあるからさ。とりあえずそこに行こう」

「あ〜、けどクロウと合流できたからな。……みんなも俺のことを心配してるだろうし」

「……おいジンパチ。心配してるみんな(・・・)ってのは、てめえの妹を連れてさっさと遊びに行った赤毛の小娘の事か? ……それとも、『えすて』とかいう所に走ってったダークエルフか?」

「え」


「それともアレか? 家で寝てるスカした親玉か? 晩飯の材料を買いに行った眼鏡と竜殺しか? ……この中で、お前を心配してるのは誰だ?」

「け、けど、お前は心配してくれて」

「俺 は お 前 の 仲 間 じゃ ね え。

 ……はん。寝言は寝て言え。タコ」


「……ニコル。お前の家、連れてってくれよ」


 なぜか、その時の迅八の笑顔は必要以上に柔らかいもので、ニコルはなんだかいたたまれない気持ちになった。






 ————————————————






 ……ニコルに連れられて迅八とクロウが訪れたその家は、路地裏の片隅にあった。

 赤土で塗り固められたその家は、壁がボロボロと剥がれている。辺りの家も、全て似たような様相で、歩いている者たちも、迅八の目にはどことなく陰気に映った。


「ごめんね兄ちゃん。汚い家なんだけど……。けど、少し騒ぎが収まるのを待った方がいいよ」


 それは確かに汚い家だった。

 ドアなどないし、窓もない。ただ、ぽっかりと空いた暗い穴のような入り口が、日の光を途中で遮っている。


 迅八は幸福な少年とは呼べなかったかもしれないが、裕福な生活をしていたし、貧しい頃でもここまでの境遇に(おちい)った事などない。


(……ああ)


 どんな事を言ってもなんだか違う気がして、迷ってしまった迅八の耳に その声は届いた。


「……きっったねえ家だなてめえ!! こんなとこに超俺様をご招待だあ? デコピン食らいてえのか。このチビ狐が!!」

「お、おまえ……! ま、マジか? おまえ正気か!?」


 迅八は驚愕した。驚愕しすぎて震えた。こいつは本当に悪魔だった。人の心が存在しない。

 しかし、そんな二人の顔を見比べて、ニコルはキョトンとしたあと、抑えるように笑い出した。


「あははははっ。クロウは面白いんだね。いい人かどうかは分からないけど、嫌な奴じゃないのは分かったよ」

「嫌な奴だろって!!」

「かーーーっ!! きったねえ家だなあ……」


 迅八とニコルを置いて、クロウは先にその家の中に入ってしまう。一般的な日本人である迅八には、クロウの行動の全てが信じられない。立ち尽くす迅八を見て、ニコルが手を引いた。


「ほら、兄ちゃんもおいで。お茶くらい出すよ」


 その家の中は、入ってみると迅八が思ったよりも広かった。入り口から入り込む日光は、その家を奥まで照らせない。

 薄暗い部屋の中には幾つかの家具と小さなテーブルが一つ置かれている。すると、クロウがテーブルの上に腰掛けた。


「てめえ……いい加減にしろ!! 人んちのテーブルになに座ってんだ!!」

「は? ……これ、椅子じゃねえのか? おいおい待てよ。こんなちっちぇえテーブルなんぞ、この世にある訳がねえ」


 そんな二人を見てニコルは腹を抱えて笑っている。すると、薄暗がりの奥から声が聞こえた。


「……ニコ? だれかいるの?」

「かあさんっ」


 奥には、もう一つ部屋があるようだった。

粗末な(すだれ)をくぐり、ニコルがその奥に向かう。すると、少ししてから中から人が出てきた。中から出てきたのはニコルと同じ、狐の亜人だった。


「うわ……。綺麗な人だな」

「ほう……」


 ニコルに手を引かれて現れたその女は美しかった。薄暗がりの中に漂うような美貌、まるで蛍の光のような女だ。

 闇に浮かぶ青白い肌。身長は高いが細い体。狐人の特徴である三角の耳は、頭の上でぺたりと前に折れている。

 その女が持っていたのは、獣人がもつ健康的な美しさではなく 、(はかな)さの漂う美しさだった。


「……本当に綺麗な人だな」

「…………」


 迅八がクロウを見ると、なぜかクロウは眉根にシワを寄せていた。


「ん、どした? ……それと、おまえいい加減にしろって。テーブルから降りろよ」

「……この匂いは、」


 クロウはテーブルから腰を浮かべると、腕を組んだままその女を見つめた。


「なんなの? お前のその態度は……。俺もそろそろ怒るよ? なあ」

「あなた方は……」


 女が細い声を出す。

 まるで、ため息をつくように吐き出されるその声は、静かな色気を持っていた。


「あなた方は一体……ニコが、なにか失礼でも」

「ち、違うんだよおばさん。あの、ニコルにはガイドしてもらって……」

「ガイド? ……ニコが?」

「あははははは!! ……ま、まあまあ。もうその話はいいんだって。母さん、この人達はロックボトムだよ。それでね、」


 そこまでニコルが言った時だった。

 元から白い肌を更に蒼白にさせ、ニコルの母親がその場にくずおれる。


「こ、この子がなにか。どうか、どうか私の命を。私の命でお許しください。この子だけは、この子だけは……」


 床に頭を擦り付ける女の前で、迅八は固まった。


「……あの人達、どんだけ怖がられてんの。ち、ちがうんだよおばさん! ほらニコル、説明してやれって!」

「母さん違うんだよ。この二人は友達なんだよっ」

「……トモダチ(・・・・)だあ? てめえ、誰様に」

「お前は黙ってろって!!」


 頭を上げようとしない母親に、迅八とニコルが説明する。

 千年の大悪魔はその間、ずっと腕を組み、母親を見下ろしていた。




 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「それはそれは……お世話になったようで。何もお礼が出来ず、心苦しいのですが……」

「いや、いいんだよ。案内してもらったんだから、仕事だよ仕事。……そういや、まだ金を渡してなかったな」

「そんな物まで頂く訳にはいきません。充分すぎるほど他のものを頂いたようです。……本当によろしいのでしょうか?」

「うん。本当に助かったんだよ。ニコルがいなかったら仲間に会えなかったよ」

「仲間じゃねえって言ってんだろが。この短足が」


 テーブルの上には土産袋から出したケーキが乗っている。

簡素な木箱の蓋を外すと、箱に入れられていたそれは少し形が崩れてしまっていたが、良い香りを漂わせている。


「おいチビ。早くしろ。茶ァ出せ茶ァ」

「こ、このチンピラが……!!」

「あはは。ちょっと待っててねっ」


 ニコルは部屋の隅で火をおこしている。

 台所なんてありはしない部屋の隅には焼け焦げた跡があり、そこには土や石を使って組み上げられた簡素な(かまど)があった。

 その上に鍋を置き、近くの水瓶から水を汲む。火がつき炎が安定すると、ニコルは外に出て行こうとした。


「ん、どこ行くの?ニコル」

「裏にハーブが生えてるんだよ。干さないでもそのままお茶になるんだ」

「ニコ、そんな……」

「うるせえ女。別に構いやしねえ。……おうチビ。早くしろ。喉が渇いてんだよ俺様は」

「うんっ!!」


 クロウの口調は乱暴そのものだ。しかし、ニコルは嬉しそうに外に出て行った。


「おまえってさあ。獣人の子供に好かれるタチなのかな?」

「あん、今のチビがか? ……あのチビはお前に惚れてんじゃねえのか? 見てみろよ。あンのカオ」

「あら?」


 ニコルの母親が大きく口を開け、その口を手で押さえた。


「そうなんですか? あらあら……」

「ははは。なに言ってんだよクロウ。あんなちっちゃい子供だぞ。そうだったら嬉しいけどな」

「失礼ですが、お名前を伺っても……。私はロココと申します」

「あ、ごめんよおばさん。自己紹介してなかったね。俺はジン。んで、こいつがクロウだよ」

「……気に食わねえ名だがな」

「ジン様、クロウ様ですね。……お二人は本当にロックボトムの方なのですか?」

「おうジンパチ。そういや、さっきもそんな事を言ってやがったな。なんの話だそりゃ」

「いや、実はさ……」


 迅八は食堂での一件をクロウに説明した。






「……ほう。つまり、人の名前(ふんどし)で喧嘩したあげく、カンケーねえ店を荒らしてきたと。んで、道端で肩がぶつかっただけの相手は殺そうとしたと。へ〜え。……ところでよ。おめえ今日から千年の大悪魔を名乗ってもいいぜ。俺よりもてめえの方が向いてるわ」

「ぐっぎっぎ……!! 見方に悪意がハンパねえぞ……!!」


 しかし迅八は何も言い返せない。言い返せなさすぎる。その様子を見ていたロココがある単語に反応した。


「千年の、大悪魔……?」

「ん、まあ気にすんな。迅八、あと任せた」


 言いたい事だけ言い終わると、クロウはその会話から興味をなくし、その場にごろりと横になった。


「おい。布団くれ布団」

「おまえさ。凄いよねほんとに。……どこでも生きていけるんだろうな。ご、ごめんねおばさん」

「いえ……。面白い方ですね」


 するとニコルが外から戻ってきた。手には清々しい色が()える、緑の葉を持っていた。


「取ってきたよ。すぐ出来るからね。……あ、クロウ。寝ちゃったの?」

「寝てねえよ。早くしろチビ」

「うん。待っててねっ」


 ニコルは、沸騰したお湯をザル付きのヤカンに注ぐと、そこに蓋をしてから手近な布でそれを(くる)んだ。


「こうしてちょっと置いとくと香りが良くなるんだよ。……そうだよね、母さん?」

「ふふ、そうね。おいしく淹れて頂戴ね」


 ニコルは忙しく動き回っている。棚から小さな皿を二つ出すとそれをテーブルに並べた。

 木箱に入れられたケーキを慎重に取り出し、その皿の上に置く。今度は木で出来た湯呑みを持ってくると、ヤカンの前で正座した。


「……ねえ母さん。まだかな?」

「もう少し待った方がいいかもしれないわね」


 ニコルは家に帰ってから帽子を脱いでいる。正座する後ろ姿で、三角の耳がぴょこぴょこと揺れていた。













「ねえねえ、母さん……」

「もう少しね」


 迅八がよく見てみると、長ズボンのお尻の辺りが盛り上がっている。ひょっとすると、あそこには尻尾があるのかもしれない。













「ねえねえ、かあさ、」

「なっげぇええええええわっ!! ……デコピンされてえのかッ。さっさと飲ませろこのチビッッ!!」


 ばしーん。

 クロウの頭が迅八にひっ叩かれる。


「……俺もいつまでも笑ってねえぞ。大人しくしてろよクロウ」

「ぐぬぬ……」

「ふふふっ。……ニコ、もういいわよ。淹れてあげて」

「うん!!」


 ニコルは嬉しそうに、ヤカンから湯呑みにお茶を注いだ。


「……はい兄ちゃん。クロウも。母さんが世話してるハーブなんだ。美味しいんだよ」

「うわ。凄えいい香りだな」


 薄い緑色のそのお茶からは、鮮烈な香りが立ち昇っている。鮮烈ではあるがトゲがない。丸みを帯びた優しい香りだ。


「…………うん! うまいよニコル」

「ふん。悪かねえ。美味くもねえがな」


 迅八はニコルの頭を撫でようとしたが、()の事を思い出す。その手を横にずらし柔らかい頬と首筋をわしゃわしゃと撫でてやると、ニコルが嬉しそうに頬を染めた。


「えへへ……」

「あらあら」


 嬉しそうに目を細めるニコルを見て、ロココも柔らかく微笑んだ。


「ほら兄ちゃん。ケーキ食べなよ。きっとお茶とよく合うよ!」


 テーブルの上には皿に盛られたケーキが二つ置かれている。恐らく迅八とクロウに出してくれたのだろう。

しかし、これはニコルが母親に食べさせたくて持って帰ってきたものだ。


「いや、いいよ。ニコル、母ちゃんと食えよ。気ぃ遣わないでいいからさ」

「けど……」

「いいんだって。ほらほら」


 すると、迅八の横から手が伸びた。


「ん、なんだこりゃ。……ぐ、ん。悪くねえ。迅八、てめえも食えよ」

「お、おまえ!!」

「なんだ。てめえ食わねえのか? んじゃ食っちまうぞ」


 手で鷲掴みにしたケーキをクロウが丸ごと口に運ぶ。ばかっとその口があり得ない程に大きく開き、吸い込まれるようにケーキは消えた。


「ん、ぐ、ん……おい。茶ァ」

「おまえは、おまえって奴は……!!」

「ぷ……、は、ははははははは!!」


 ニコルが腹を抱えて転がり出す。ロココも上品に口を押さえて笑っている。


「あはははは。うん、待っててね。すぐ淹れるからね」

「デコピンされたくなかったらさっさとしろよ」


(……こいつ、俺とは精神構造が違いすぎる)



 迅八は目頭を押さえてそっとため息をついた。




 ・・・・・・・・・・・・




「おうジンパチ。そろそろ(けえ)るぞ。あいつらも、全員帰ってきてやがんだろ」

「そうだな。あんまり長居しても悪いしな」

「え、帰っちゃうの? ……もっとゆっくりしていけばいいのに」

「俺たちはしばらくこの町に居るよ。だから、また遊ぼうなニコル。……もっと町の案内してくれよ」

「え? ……また?」

「なんだよ。嫌なのかよ? ひでえなあ」


 ニコルが頬を染めて下を向くと、三角の耳が揺れていた。


「嫌じゃ、ないけど……」

「じゃあ約束な。今度はあの服を着てこいよ。きっと可愛いよ」


「……ニコ。お見送りしてあげましょう」


 ロココが立ち上がると皆も立ち上がった。クロウはすぐに外に向かう。

 見送るといっても数歩先の話だ。あっという間に辿り着いた。


 迅八達が外に出てみると、外の日差しは赤くなっていた。気付けば辺りの人通りも多くなっている。楽園の一日は朝ではなく、夕暮れのこの時間から始まる。


「じゃあなニコ。またな」


 迅八が振り返ると、ニコルは嬉しそうに手を振っていた。その横でロココは深く頭を下げている。

 ニコルは迅八の背中が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。




「……ねえねえ母さん。それでね、その時兄ちゃんが……」

「ふふふ。ずいぶん仲良くなったのね」


 ニコルは水瓶から水を汲み、二人に出した食器を手早く洗う。洗った食器を棚に戻すと、甘えるように母親にしがみついた。


「それでね。このお菓子が凄い美味しいんだよ。兄ちゃんが、母さんと食べろって言って買ってくれたんだよ。……それで俺がね、」

「ニコ。もう『俺』なんて言わなくていいわよ。誰も聞いてないから」

「……あ、そうだね。あたし、こんなに誰かと話してたのも久しぶりだったから……」


 嬉しそうに笑うニコルの前で、ロココはケーキとは違う袋に入っていたワンピースを見ていた。


「あ……」

「これも買ってもらったの?」

「……うん」


 ニコルは、母の胸の中でそっと目を伏せた。

すると、ロココが優しくニコルの耳を撫でる。……亜人の親愛表現。仲が良い者の間でしか行われない行動。


「そう……。よかったわね」

「……でね、あのね、今度、兄ちゃんに会う時ね、その服で、」

ニコル(・・・)


 ……母親が、ゆっくりと首を横に振った。その手は優しくニコルの耳を撫で続けている。



「前に教えてあげた『魔法の言葉』。覚えてる?」

「……うん」

「ならいいの。忘れないでね。 ……この町で生きているなら、絶対に忘れちゃダメよ」



 薄暗い部屋の中で、亜人の親子の顔は見えない。

 母親はゆっくりとゆっくりと、ずっと娘の耳を撫で続けている。娘はその胸に顔を埋めていた。


「……別に、あの人たちに会うのは止めないわ。けどね、忘れないでね」

「うん……」


 何を、と。

 ニコルはそんな事は聞かない。

 だって、そんなのは分かりきっている。


「……ねえニコ。そんなに美味しいお菓子なら母さんも食べたいわ。お茶を淹れてくれる?」

「……うん。そうだね、ちょっと待っててねっ」


 ニコルは笑う。少しだけさみしくなってしまった空気が無くなるように。

 今日は暖かい一日だった。出来ればこのままの気持ちで眠りたい。そして寝る前に少しだけあの服を見よう。

 そうすれば。きっと、暖かい夢が見れると思った。






 ————————————————






「なあなあおまえさー……」


 すれ違う者はみんな迅八達を見ている。というか、主にクロウを見ている。

 女達は羨望の眼差しを。男達は畏敬や嫉妬の入り混じった顔を。そして、後ろを追いかける少年の事を見て、みんな首を(かし)げた。


「ケーキ食っちゃダメでしょって。あれは、ニコが母ちゃんに食わせたくて……」


 迅八はいつの間にか、ロココが呼んでいたように、ニコルの事を呼び始めた。


「……ちょっと、お前聞いてんの?」

「あー鬱陶しい。別にどうでもいいんだがなあ……」

「なに言ってんのおまえ。……あとさあ、ああいう見下した態度とか。俺はいいよ。もう慣れたし。けど、あんまり知らない人にさあ……」

「おうこらクソガキ」


 クロウが立ち止まり、迅八を振り返る。

 美しいマントがひるがえり、それだけですれ違う者たちは感嘆の声をあげる。

 世界一の悪所『楽園』は、目が肥えた者たちも集まる場所だ。見たこともない細工のそれに、ため息をつく者すらいる。


「もうこれ言うのも嫌なんだけどよう……。俺様は悪魔だっての。なんの勘違いだ。どいつもこいつも……」

「けどさあ」


 クロウが髪の毛をガリガリと掻き毟る。心底、嫌そうな表情で。


「……あとよ。ほんっと〜にどうでもいいんだけどよ」

「だから、なにが?」

「あの菓子はてめえが買ってやった訳だ。あいつのお袋に食わせる為に」

「うん」

「で、あのチビはそれを俺たちに出した。……正確にはてめえに(・・・・)だ」

「……ん? そうなのかな」


「……ふう。見る限りろくな生活しちゃいねえ、あんなチンケな菓子なんぞで大喜びする小汚ねえ亜人の娘が、てめえの金で買った訳でもねえ菓子を、おまけに買ってくれた本人に出した訳だな。頭の悪い事に」

「おい。おまえ、」


うるせえ(・・・・)。……でだ。それを出された本人、菓子を買ってやったお大尽(だいじん)様はそんなもんには口をつけやしねえ。だって、てめえが可哀想な亜人に恵んでやったもんだからな。あんなもんはいつだって食える。お大尽様にとっちゃ大した事ねえもんだからだ」

「いい加減にしろよ。おまえ……」


 迅八の目の色が昏くなる。

 しかし、それに構う事なく千年の大悪魔は続けた。


「……頭が悪いから、そこらに生えてる汚え草で茶を沸かすのもおかしいと思わねえ。恵んでもらったもんを相手に出しても不自然に気付きやしねえ。それでもなにかをしたかったんだろ。……てめえに喜んで欲しくてな」

「ん……」


 立ち止まった二人組から、一瞬放たれた剣呑(けんのん)な空気。それが、周りで見ていた者たちを刺す。

しかし、すぐにそれは消えたので、再び、何も気にせず歩き出した。



「てめえ、さっき俺に言ったか?『見下すな』ってよ。……俺は見下してるよ。あいつらだけじゃねえ。てめえも含めてこの世界の全員(・・)だ。……あたりめえだ。俺を誰様だと思ってやがる。だがな、てめえも同じじゃねえか」

「馬鹿言ってんじゃねえよ! 俺はそんなこと、」


「同じだよ。気付いてない分だけてめえはタチが(わり)い。てめえは施しをくれてやる側で、あいつらは貰う側なんだろ?」

「だからそれは……。ニコが母ちゃんに食わせたいって言ってたから」


「お前にも食わせたかったんだよ。……まあ、さっきも言ったがな。ほんっっと〜にどうでもいいこった。俺様にとっちゃな。はい、おしまい」



 話を切り上げたクロウは、迅八を置いてさっさと歩き出す。取り残される形になった迅八は、思わず思い返してしまう。






『ねえねえ母さん。……まだかな?』



 ヤカンの前で正座して、お湯が沸くのを待つニコルの姿。



『このお茶ときっと合うよ』



 嬉しそうに笑うニコルの顔。






 ……いつの間にか、クロウの背中は小さくなっていた。

 迅八は段々と増してくる人波を越えて、上り坂になっている道を小走りにクロウの横に並ぶ。


「……なあ。俺さあ、人の気持ちわかんねえのかな? そういや、元の世界でも時々そんな事を言われたわ」

「はあ? そんな事知りゃしねえよ。だいたい今日からはテメエが千年の大悪魔だ。人間の気持ちなんて分からなくて当然だろが」

「ほんとキツいよねおまえ……。だからおまえ、あれ二つとも食ったの?」

「ちげえわっっ!! 俺は食いてえから食っただけだっての!!」

「あ〜。なんかもう嫌だ。お前にこんな事を言われるなんて……」


 自分に寄りかかるようにしてくる少年を、大悪魔はつっけんどんに押し返した。


「ふん……。あとな、ジンパチ」

「ん?」


 迅八は顔を上げる。

クロウの声音が変わった。その少しだけ低い声に、迅八は眉を寄せる。


「……あの二人には、もう近付くな」


 その言葉の意味が分からず迅八はクロウの顔を見る。

 夕焼けに照らされたその顔は、大して面白くもなさそうに、通行人を眺めていた。


「……なに言ってんだ?」

「ジンパチ。これは忠告(・・)だ」


 ……忠告。

 かつて迅八は、その言葉をクロウに一度だけ言われた事がある。



(収穫祭の洞窟……)



 あの時、あそこに入る前にクロウは言った。深入りするなと。そして、これは忠告だと。


「……なに言ってんだよクロウ」

「あの母親……ロココって言ったか? あいつはもう長くねえ。死の匂いが強い」

「な……」

「いいか。収穫祭の時、俺は言ったはずだ。後悔するぞってな。……てめえも身に染みたはずだ。分かったな」






 ……夕焼けに照らされた町並みは、迅八の知る元の世界とは違う幻想的なものだった。

 少しずつ落ちてゆく太陽は町から光を消してゆく。至る所に飾られた魔光石やガス灯。陽はまだ沈みきっていないがそれらがぼんやりと輝き出す。



 遠ざかってゆくクロウの背中を追うことも忘れ、迅八は赤い夕焼けを背負い、坂の途中で振り返った。もう随分と離れてしまったが、その方向にはニコルの家がある。


 楽園の中でも、ひときわ(わび)しい区画。ロンダルシアの中だというのにそこにはガス灯すら少ない。辺りは少しずつ暗くなってゆく。

 ニコル達の住む家の辺りは、暗い闇の中に沈んでいるように見えた。




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