寺田迅八の怒り
クロウは迫り来る闇を見て、自分の考えの甘さを呪った。
「魔術じゃねえ。これは物理かっ!!」
魔術は生物以外には効かない。しかし、目の前で建物が腐食し、腐り落ちていく。
これが大地に根を張り、生きている木ならばおかしい事はない。だが、建物に使われている木材、石材などは、もう死んでいる。ブレスなどの物理的炎で燃やす事は出来るが、炎の魔術で家が燃える事はない。
クロウが思考を巡らしていると、この町で一番の高さを誇っていた塔が、轟音をたてて崩れ落ちた。
(つまり、物理的な媒介が存在して、この訳のわからん靄を作り出していやがるのか!!)
このままではまずい。非常にまずい。
おそらくあの少年、迅八はこの攻撃を耐えきれない。
つまり、結魂で結ばれたクロウも死ぬ。
「うっがあああああああっ、さぁせるかよオオオオッ! ……風よおおおおっっ!!」
クロウは両手で複雑な印を結び、練り上げていた魔力を解放した。
クロウの頭上に緑色の螺旋が出来上がり、凄まじい速度でうねり、辺りに暴風を撒き散らす。だが、その風で靄が晴れる事はなかった。
「ちぃ、やはり魔術で相殺できねえっ! ならば……変化身!!」
すると、クロウの体がメキメキと音をたてて変形した。先程までの、狼男の狐版の様な姿から、巨大な口を持つ象のような姿に変化した。
「吸い込んでやるっっ!!」
過去に魂喰らいで取り込んだ、その身が毒で出来ている魔物の姿になり、その巨大な口から腐食性の靄を吸い込む。
まるで空気が波打つ様に闇色の靄は吸い込まれていくが、視界は全く晴れる事がない。
「結界の外から常に靄を供給してやがる!! 天使のくせに、小狡いマネを……」
その時、クロウの背中に激痛が走った。
触ってみれば、ぐず、と指がその中に埋まり込んだ。腐食しているのだ。
しかしクロウは腐食や毒に耐性を持つ魔物に変化しているので、その体が靄に侵食される事はない。
「ジンパチが、侵食されてやがるのか!?」
焦燥感にその身を灼かれながら、なかば意味のない靄の吸引をクロウは続ける。
迅八を探そうにも、この暗闇ではどこにいるのか判らない。単なる暗闇ならばそれを見通す能力をクロウは持っていたが、これは実際には、辺りが暗闇に見える程に、なにかが宙に舞っているのだ。
その集合体である靄を排除しない限りは、視界が回復する事はない。
「……おいおい、これはやべえか?」
自分だけなら死ぬ事はない。
だが、結魂で結ばれた迅八が死ねば、クロウも死んでしまう。
今日何回思ったが判らないが、この日で最大級の恨みをもってクロウは叫んだ。
「……あんの、クッッソガキがあああああああっ!!!!」
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迅八は身を裂く痛みに目を覚ました。
顔を上げると、少し離れた場所で、クロウが何者かと戦っていた。
その相手は黒い鎧に身を包み、背中からは鳥の様な翼を生やしている。
「……おおっ、おおっ!! 天使様が我々の為に戦って下さっているぞ」
違う方向からそのような声が聞こえた。
(あれは、天使、なのか?)
背中から生えた翼は純白で、ときおり舞い散るその羽は、闇の中でもその色に溶け込むことはなく、きらきらと光を反射させていた。
その金色に輝く髪は、闇に負けない存在感を放ち、クロウの体毛に負けず劣らず美しい。だが。
「アレが、天使なのか……?」
迅八は思わずつぶやいた。
カザリアの外見は、確かに迅八が知っている天使だった。
裸でいたのなら、ルネサンス期の絵画に出てくるような、完成に近い美なのだろう。
しかし、あの武装。そして、まとわりつくような禍々しい力。
「あれが、本当に天使なのか? つーか、天使って……やっぱここは、死後の世界なのか……?」
発展性のない思考に迅八が気を取られていると、『天使』は空に向かい去っていった。
しかしクロウはその方角を見つめ、微動だにしない。
——どくん
迅八の体の中から何かの警報が鳴る。それは、無意識が発する警告だった。
(これからここで、何かが始まる……)
迅八はまだ痛む体を引きずりながら、その場から離れようとした。
その右手には、いつの間にか頼りないナイフが握られていた。
少し歩くと、そこには見えない壁があった。迅八が目を凝らして見てみると、僅かに空気が揺らめいて、層の様になっている。
「なんだよコレ……、先に進めねえ!!」
周りを見渡すと少し離れた場所に、この見えない壁を壊そうとしているのだろう男と、そのすぐ近くで震えながら座り込んでいる母子がいた。
おそらく、あの家族の間に壁があり、母子の方は自分と同じ様に『内側』に閉じ込められているのだろう。
「ひっ……!!」
迅八が途轍もない悪寒を感じ、後ろを振り向くと、クロウは先程と同じ位置で空を睨んでいた。
すると、その空から少しずつ、滲むように、質量を伴う闇が降りてきた。
(アレに触れるのは、やばい。絶対にやばい……!!)
どうにかしてここから逃げ出さなくてはならない。
その考えに取り付かれた迅八は辺りを見渡すが、自分と母子以外には内側に取り残された人間はいないらしい。
そして、その母子を見ていた迅八の頭に、唐突に『元の世界』の記憶の断片が浮かび出した。
……雨に濡れる体。
……胸に刺さったナイフ。
……自分を見て泣き叫ぶ妹、静の顔。
「静…」
その母子を見ると、妹の顔が重なった。
よく見てみれば自分とたいして年も変わらないだろう母親は、その手の震えを必死に抑えながら、娘に向かい気丈に声を掛けている。
やがて、父親と少し言葉を交わしたあと、母親は娘を護るようにその身を丸め、闇に飲み込まれた。
気が付けば迅八は走り出していた。
自分も触れればただでは済まない、全てを腐り落とす闇に包まれた母子に向かって。
————————————————
ロザーヌは暗闇の中で、必死に目を開けていた。
自分にまとわりつく闇、それが娘に触れない様に、それを見通せる様に。
もうその身体は半裸に近い状態になっていた。ロザーヌ達を包み込んだ靄は、まずその衣服を腐らせた。
髪の毛がばさりと落ちると同時に、露出した背中が火傷を負ったように疼き出した。
「この子だけは、この子だけはっっ!」
少しずつ自分の身体を侵食してくる闇に抗うように、声を限りにロザーヌは叫んだ。
「……大丈夫だ」
「え……」
「……もう、大丈夫だよ」
その声が聞こえると同時に、ロザーヌの疼いた背中が温かい光に包まれた。
すると、視界に光が戻り始める。
必死に抱きしめていたシェリーには、傷一つついていない。
「……天使様? ありがとうございます、ありがとうございますっ!!」
ロザーヌは、自分の後ろから自分達を護るように包み込む存在が、天使なのだと疑わなかった。
天使。この世界に実在する、人類の守護者。
その大いなる力はあらゆる魔を打ち払い、人々を希望で照らす存在。
振り向こうとしたロザーヌを、『天使』はそっと押しとどめた。
「……まだだ。まだ終わってはいない。あんたはその子を抱きしめてやるんだ。……こんな暗闇に負けるな。もうすぐ、光は差すよ」
自分と抱き合う形になっているシェリーは、その声の方を向き、その顔が見えたのだろう。
『天使』の顔を間近で見つめ、驚愕にその大きな瞳をまん丸にしている。
ロザーヌは感謝を込めてシェリーを力強く抱きしめてやった。
「はい……はいっ! この子は離しません。何があってもっ」
「……そうだ。それでいい 」
……どれほどの時が流れたのか。
ロザーヌが気が付くと、辺りから闇は払われていた。
そんなに長い時間ではなかったはずだ。せいぜい五分かそこらだろう。
ただ、ロザーヌやシェリーには、それは途方もない永遠のような時間だった。
「おかあ……さんっ」
「ああ……シェリー、シェリーッッ!! 無事なのね、良かった、本当に良かった!! ……天使様っ!!」
そこではじめてロザーヌは周りの異常さに気付いた。
シェリーは自分の後ろを震えながら凝視している。そのまん丸な瞳には大粒の涙が溜められていて、今にも泣き出しそうだった。
自分達の為に、体中どこも無事ではない程に傷付き、血まみれになったルシオの姿も見えた。しかし、その瞳も呆然と自分の後ろを見つめていた。周りの人間達の中には、震えながらへたり込んでいる者もいる。
「ば、化け物…… 」
誰かの呟く声がすると、何人かがその場から逃げ出した。
意味が判らないロザーヌは、その様子を呆然と眺め、自分達を護ってくれた『天使』に礼を言おうと振り返った。
そこにいたのは天使などではなかった。
そこには化け物が立っていた。左腕は腐り落ち、断面からは糸をひき、今も粘性をもつ黄色い汁が垂れている。
頭髪はほとんど抜け落ちて、所々残った髪の毛が房を作っているが、その下の頭骨は一部欠けていて、中身の脳味噌を露出させていた。
右腕は辛うじて繋がっており、その手には貧弱なナイフが握られている。
腹は裂け、赤、青、黄色、あらゆる臓器がこぼれ落ち、長い腸が足元でとぐろを巻いていた。
化け物の頬はこそげ落ち、その中に長い舌が見える。すると、その怪物は口を開いた。
「……ぶじ……か……?」
——こひゅっ
小さく破裂する様な音と共に、その怪物の口から血と一緒に何かが飛び出し、ぴしゃりとロザーヌの顔に当たった。
それは、その怪物の口から腐り落ちた、歯茎に付着した歯だった。
「ひっ、ひっ、ぃぃぃぃ……!」
ロザーヌは悲鳴すらあげられなかった。
肺からただ、情けなく空気が漏れていった。股間からはちょろちょろと液体が流れ出し、足元に散らばる臓物と混じり合うと、ぷん と悪臭をたたせた。
化け物はその場に崩れ落ちた。
「……ロ、ロザーヌ、シェリー、は、早く、そいつから離れるんだ……!!」
ルシオは震えながらも二人を自分の後ろにかばった。どうやら結界の壁は消滅したらしい。しかしロザーヌは腰が抜けてしまい、立ち上がることすら出来ない。
それでも必死にシェリーに害が及ばない様に抱きしめていると、不意にその拘束がシェリー自身の手により外された。
「シェリー、なにを……」
幼い少女は化け物に近寄ると、その腹の中に腐り落ちた臓物を戻し始めた。その度に凄まじい悪臭が匂い立つ。
シェリーはそんな事を気にもとめず、必死になって化け物の介護を始めた。
「おとうさん、おかあさんっ。 ……天使さまが死んじゃうよ!」
ぽろぽろと、大きな瞳から涙を零し、化け物の顔に鼻水を垂らしながらシェリーは必死になって行為を続ける。
「ばっ……!! シェリー、それは天使様なんかじゃないっ、早くこっちに来るんだ!!」
シェリーを抱きかかえようとしたルシオの手を、シェリーは拒絶した。
「な、シェリーッ」
「天使さまだよ……。だって、おかあさんとわたしをたすけてくれた!」
そこでロザーヌは気付いた。その化け物の顔。
今となっては腐り落ち、酷い傷に侵されてはいるが、まだ幼さの残るその顔は、おそらく自分やルシオとたいして歳も変わらないのだろう。
この少年は、化け物ではない。しかしシェリーの言うように天使様でもない。
「……人間」
人間の少年が、自分の身を挺して、見知らぬ母子の命を救ってくれたのだ。
「天使さまは、ずっとわたしを見て、笑っててくれたよ。大丈夫なんだよって、ずっと言ってくれた!」
シェリーはずっと見ていたのだろう。
その少年が闇の靄に侵食され、腐り落ち、それでも見知らぬ少女を安心させるために、苦痛をこらえて微笑み続けていた様子を。
「……あんなのは、天使さまなんかじゃない!!」
そしてシェリーは、遥か上空に悠然と浮かんでいるカザリアを指差した。
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クロウは満身創痍の体を癒す事に必死だった。
どうやら迅八の体が途轍もないダメージを受けたようだ。突然自分の腹が裂け、臓物が溢れ出た時には絶叫をあげた。
結魂で繋がっているとはいえ、一度そのダメージを治してしまえば迅八の体のダメージに引きずられる事はなく、自分の傷を治す度に、また腹から臓物が溢れ出す事はない。
しかし、事は急を要する。死んでしまったら傷を癒す事など出来ない。迅八が死んだ瞬間に自分も死ぬのだ。
こんな傷を負ってあの子供が生きていられるとは思えない。すぐに探し出し、迅八の傷を癒さなくてはならない。
クロウはとりあえずカザリアは捨て置き、転生者の少年を探す事にした。
また狐の形態に戻ったクロウは、それほど自分と離れていない場所で迅八を発見した。
先ほど見た母子と同じ場所にいたのだ。
「こんな近くにいやがったのか……。俺様とした事が」
迅八の元に辿り着いたクロウは、その場にいる人間が誰も自分に注意を払わない事に不審を抱いたが、すぐにその疑問はなくなった。
その場にいる者は、みな少年を見ていた。それは異様な光景だった。
(……なんで、なんで俺はまだ生きているんだ?)
クロウにそう思わせる程に、迅八の状態は酷い。まるで濃硫酸の海の中を泳いできたような有様だった。こんな状態で、普通人間は生きていられない。
目の前のコレは、もはや人間と呼ぶよりも、残骸だ。
しかし、そんな状態の迅八を見てクロウは回復術を掛けるでもなく、ただ呆然とそれを見ていた。
迅八の頭、その頭骨の一部は欠けていた。しかしその傷がみるみるうちに塞がっていき、やがてその上に黒々とした髪の毛が生えてくる。
腹の傷はすでにうっすらと塞がり、大きな傷跡が残ってはいるが、そこにも次第に肉が盛り上がっていた。
千切れかけていた右腕も繋がっており、完全に腐り落ちてしまった左腕だけはそのままだが、やはり小さな手が生えてきている。
(……こいつは、どんな世界からの転生者なんだ? こいつの世界では、これが普通の事なのかっ!?)
クロウは、沸き立つ怖気を抑える。判らない。この子供は、判らない事だらけだ。そして、右手に握られているナイフ。
(……なんでこれがここにある!? さっき槍に変化して、向こうに突き立っていたはずじゃねえのかッ!?)
振り返って槍を確認しようとしたクロウに、上空から声が掛けられた。そこには、漆黒の天使が浮かんでいた。
「……ほう、何故これだけの人間が生きているのだ? 結界の外にいたのか? ……まあいい。些末な事だ 」
音も立てずにカザリアは地面に降り立つと、その背中から槍を抜き払った。
「しかし、さすがは悪食よ。我が『にじり寄る闇』を耐え切るか」
クロウは人間達を庇うようにカザリアの前に立つ。そこには少年が倒れているからだ。
それを見たカザリア、庇われた人間達も息を呑んだ。
「……なんのつもりだ悪食 」
「へっ、てめえには関係ねえな。こっちにはこっちの事情ってもんがある。……クソみてえな事情だがな!」
その真意を計りかねるカザリアは、槍の先をクロウに向けたまま、様子をうかがった。
「……おい、『漆黒』。俺を見逃す気はねえのか? お互い痛み分けって事でこの場は収めようじゃねえか。俺の後ろでてめえら天使の大好きな人間共が震えてるぞ 」
涙を流しながら上目にカザリアを睨みつけるシェリー。その小さな体で迅八を守るように覆いかぶさっている。
ロザーヌとルシオは目の前の悪魔と天使の威に圧され、身動きをとる事も出来ない。
カザリアはそれらを順番に見回したあと、シェリーの様子を不思議そうに眺め、こう言い切った。
「全くもって………取るに足りんな 」
クロウの目の前で、カザリアの体から魔力が増大してゆく。
(ちぃ、やはりこうなるかよ…!)
それを見て再び戦闘態勢に入ろうとしたクロウの前に、揺らめく影の様な人間が立った。
その人間の体は、いつの間にかほとんど元通りの姿になっていた。
目からは真っ直ぐ下に黒い線が引かれ、その線は体中に広がっている。
体中に伸びた線は、ときおり青白い光を放ち、その光が延長するかのように、右手のナイフもぼんやりとした燐光をまとう。
その形相は憤怒。迅八の怒りに呼応するかのように、その黒髪は荒々しくうねり逆立つ。
「……些末なこと、と言ったか?」
カザリアは、目の前で喋り出した人間を、呆然と見ていた。いや、これは人間なのか?
クロウは自分の心に恐怖が湧き立つのを感じていた。
(まただ、また異形が始まりやがった…!)
「取るに足りん、テメエ、確かにそう言ったなっ!!」
その人間、寺田 迅八の激怒の咆哮が夜の町に響き渡った。