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アゲイン×2 《クロスツー》  作者: 紺堂 悦文
第四章 絶対強者
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その記憶

 



 ……扉を開けると奧からうまそうな匂いが漂ってきた。母さんが食事の支度でもしてるんだろう。

 ただいまは言わない。

 返事が返ってこないのは分かっていたから。



 玄関の靴を脱ぐ場所——三和土(たたき)には、もしも二十人くらいの来客があったとしても、靴を並べられる位のスペースがある。その三和土のすみに、邪魔にならないよう自分の靴を置いた。

 音を立てないように階段に向かおうとすると、大きな鏡に自分の姿がうつっていた。


 ……さっきまでは、笑っていた。

 でも、この家に近づくにつれて段々と顔がこわばってきて、鏡に映った自分の顔は、そりゃあひどいもんだった。けど、最近はいつもこんなもの。それが俺の日常だった。


 床に隙間なく広がる高そうな敷物。

それに足音を染み込ませながらゆっくりと階段を上がり、自分にあてがわれた部屋へと向かう。

その途中、一つの扉の前で足を止めた。重厚感溢れる高そうな木の扉。

 一呼吸置いてから、その扉をノックする。


「……しずか、なあ、たまには兄ちゃんと話さないか?」


 玄関に靴はあったから、部屋の中には居るはずだ。けれど、中から返事は返ってこなかった。


「……はぁ」


 ため息を一つ吐いて、静の部屋の前から離れた。ノックしても返事がないのは分かっていたけど、それでもそれをするのが俺の日課。それもまた俺の日常だった。


 俺にあてがわれた部屋に戻り、その部屋を見渡した。……広い。余裕で十畳以上はある部屋。事情(・・)を知っている友人に、それを教えた時には羨ましがられたのを憶えている。


 ——なら代わってくれよ。お前も父親が死んだ後に、赤の他人の家で暮らしてみりゃあいい。


 俺はその時そう思ったんだけど、当然口には出さなかったよ。けど、胸に広がった苦い気持ちは憶えている。……まあ、仕方ないよな。俺だって、最初は単純に喜んでいたんだ。


 新しい家、新しい未来、そして、新しい『家族』。

 ……本当に、最初だけだったんだけどな。





 ————————————————





 俺と妹は幼い頃に父親を亡くした。

理由は詳しく知らない。

他人が聞いたらおかしいと思うのかもしれないけど、小さな頃に親を亡くした子供なんて、みんなそんなもんだと思うよ。俺と妹は、父親は事故で死んだとしか母さんから聞かされていなかった。


 ……今になってみりゃだけど、その時の母さんの気持ちもなんとなくだけど分かるんだ。

 誰だって、幼い子供に父親の死の詳細なんて教えたくはない。それに、説明するっていうのは、整理して認識するっていう事だ。その時の母さんにはそんな事は出来やしなかったんだろう。

 事故で死んだっていう事は、金の話だとか、場合によっては裁判だってあるんじゃないか? けど、少なくとも俺はそんな話は知りやしない。


 ……俺が憶えているのは、まだ小さかったしずかの胸に、顔をうずめて泣いている母さんの

 この世の全てを呪うような、ゾッとする恨みの声だけだ。


 父さんの事で憶えてる事は少ないんだ。今じゃ顔もよく思い出せやしない。……おかしいと思うか?

 けどさ、父さんが死んでしまってからそろそろ十年経つ。本当にさ、長いんだぜ十年は。

 幾つかの思い出は胸にあるけれど、その時父さんがどんな顔をしてたのかなんて思い出せやしない。そして、時々不意に父さんの夢を見たりして、目覚めた時に思うんだ。



——ああ、父さんはあんな顔だったな



 写真でもあれば違ったのかもしれないけれど、写真は全て母さんが捨ててしまった。

 見るのが辛かったのかもしれないし、他にも理由はあるのかもしれない。


 母さんは、『お嬢さま』ってやつだったらしい。俺から見たらじいちゃんばあちゃん……母さんの両親は、父さんの事を良く思っていなかった。

 交際自体を反対されていて、俺っていう子供ができた時に、母さんは駆け落ち同然に家を出た。いつだったか、父さんがそんな事を言っていた。数少ない、俺と父さんの会話の記憶。

 母方の祖父母を知らない俺にとっての『田舎』は、父さんのじいちゃんばあちゃんが住んでいた家だ。俺と妹を可愛がってくれていたという父方の祖父母。


 父さんが死んでしまった時には二人もすでに亡くなっていた。二人の事で思い出せる事はほとんどないんだけど、遊びに行った時に見た、一面の黄色い花畑。

どこまでも美しかったその光景は、今でも俺の胸に焼き付いている。


 父さんが死んでしまった後に、母さんとその両親の間で、なんかの話し合いがあったらしい。俺と(しずか)を連れて家に帰るとか帰らないとか。

 けど、結局俺たちは母方のじいちゃんばあちゃんに会う事はなかったし、それから親子三人で苦しい生活を送る事になった。






 ……それまでろくに働いた事もなかった母さんは、俺たちを育てる為、食っていく為に時間を問わずパートで働くようになった。

 俺もそれを支える為に、掃除や洗濯を覚えたし、妹の為に料理を作る事もあった。俺としずかが周りの兄妹と比べても仲が良かったのは、その事も関係していたのかもしれない。


 ……あの頃は大変だったな。しずかは甘えん坊だったし、母さんがいないと言って泣く事も多かった。俺は静を抱いて寝たり、あいつの喜びそうなものを作ってやったりした。

 それでも、父親を亡くしたという事以外では、俺たちは不幸じゃなかったよ。けど、母さんは違ったんだろうな。


 ……俺が中学に上がった位の時だったか。

 母さんは昼には働かずに、代わりに丹念に化粧をしてから夜にだけ働くようになった。


 その頃の俺にはそれがどういう意味なのかは分かっていたし、(しずか)もなんとなくは気付いていたはずだ。食い盛りの子供二人を、女手一つで育てるのがどれだけ大変か、俺にだって想像出来る。……世の中には無料のものなんてほとんどないもんな。


 俺と静は、世間から見ると『可哀想な子供』らしい。

 だからって俺はそんな事は思わなかったし、皆が遊んだり休んでるはずの、夜に働く母さんを誇りに思っていた。

 母さんは綺麗な女らしい。それも、ありえない程に。いつだったか友達がこんな事を言ってたな。

 ……おまえの母ちゃんは小学生の時にお前を産んだのか?


 それ程に若く見えるって事なんだろう。

 けどさ、妹を可愛いと思う事はあっても、客観的に母さんを綺麗だとは思えなかったな。そして、そんな『綺麗』な俺の母さんは、夜の仕事で忙しそうにしていた。


 ……あの頃の母さんを恨む気持ちなんて今でもない。ただ、確かに困らせられる事は何度もあったよ。

 母さんは、ふらふらになるほど酔っ払って帰ってきて、そのまま玄関で寝てしまったり、さめざめと泣き出したりする事が度々(たびたび)あった。

 それで俺が肩を貸してやったり水を飲ませてやると、決まってこんな事を呟いた。


 ——あたしだって、あたしだってね


 その後になんて続けるつもりだったのか俺には分からない。それに、母さんがその先を口にする事はなかった。

 それから我に返ったように酒臭い息で俺に謝って、綺麗なネイルが施された手で俺の頭を優しく撫でる。


 ……けど、おれの頭を撫でる母さんの()が。段々下に降りてくるんだ。


俺のシャツの中に手を入れて、胸の筋肉を確かめるように撫でる母さんの手。

 その時の母さんの顔は、なんだか『母さん』ぽくなくて、俺は正直気持ち悪かった。






 あの日(・・・)の予兆はいつ頃からだったんだろうな。いつの間にか、だったな。

 母さんは、夜に働く事が少なくなって、昼に出かける事が多くなった。化粧も派手で毒々しいものから自然な感じに変わっていった。

 そして、本当に突然。……ある日『あいつ』を家に連れてきたんだ。





 ————————————————





 物思いにふけっていたら、ドアの外から音が聞こえた。俺は、いつも扉を完璧には閉めない。この家の高級な扉は、外部の音を遮断してしまうから。

 廊下を歩く足音が消えてしまう前に、俺は急いで部屋を出た。


「しずか、どこ行くんだ? たまには兄ちゃんと話さないか?」

「……ごめんね。友達に会いに行くから」

「そ、そっか。じゃあさ、それが終わったら、兄ちゃんと話そうぜ」

「……気が向いたらね」


 しずかは俺と目を合わせようとしないで、すぐに階段を下りていってしまう。俺もその後を追って、玄関を出ようとする妹に声を掛けた。


「じゃあさ、本当、後でな。約束だぞ」

「…………」


 最後、一回だけ俺と目を合わせて、しずかは外に出ていった。

 思わず漏れそうなため息を抑える。最近のしずかはいつもこんな感じだった。


 飲み物を取る為に台所に行くと、嬉しそうに食事の支度をする母さんが振り返る。

 たった今まで笑顔だった母さんは、俺の事を見ると無表情に言った。


「なんだ。アンタか」


 しずかが扉を開ける音を聞いて、もしかしたらアイツ(・・・)が帰ってきたのかもしれないとでも思ったんだろ。

 俺は無言で冷蔵庫を開けて、自分で買っておいたペットボトルを取り出して部屋に戻る。

 去り際に目に入った、手間がかけられた色んな料理。あれを俺が食う事はない。

食おうと思えば食えるけど、あえてそうしようとは思わない。最近はしずかも同じようだった。


 自分にあてがわれた部屋に戻り、ペットボトルに口をつける。大きなベッドに腰掛けてぼんやりとした頭で思い出した。この家に来た頃の事を。





 ————————————————





「ジンくん、しずか。お母さんね……この人と暮らそうと思うんだけど、どうかな……?」





 母さんが連れてきたそいつは、たくましい体つきの優しそうな男だった。

 俺にでも分かるほど、見るからに高そうなスーツを着たそいつは、力強く俺に握手を求めた。


「君が迅八君かな? ごめんね、急に押し掛けてきちゃって」


 (ほが)らかに笑うそいつの手は分厚くて、俺は思わず腰が引けてしまった。


「君は、静ちゃんだよね。お母さんに似て美人さんなんだね。……触ってもいいかい?」


 状況が分からない静が黙って頷くと、そいつは優しく静の頭を撫でた。


「綺麗な髪の毛だね。お姫さまみたいだ」


 優しそうな男の言葉に、静は嬉しそうに微笑んだと思う。





 そいつ、藤堂(とうどう)は、行動力の塊のような奴だった。俺たち親子三人は、すぐに藤堂の家で暮らす事になった。


「僕達はこれから家族みたいなもんだ。……形から入るっていうのは結構大切なんだよ」


 藤堂は、とんでもない金持ちのようだった。

 門が自動で開く事にまず驚いたし、家の中なのにエレベーターを使う日が来るなんて、俺は想像もした事が無かった。そして、急にこの家での生活が始まったんだ。


 ある日、突然大金持ちに母親が見初(みそ)められて、不遇な境遇から救われる。

 映画じゃよくある話だろうけど、俺は自分がそうなるなんて思ってもいなかった。

 けど、毎年宝くじに当たる人間がいるように、俺たちにもとんでもない幸運は舞い込んだ。

 ……生きてりゃこんな事もある。父親が死ぬ事も、出来る(・・・)事も。


 俺はまだ中学生だったのに、そんな現実があるっていう事を知らされた。けど、その時の俺には分かってなかったんだな。

 今だったら思うよ。確かに、毎年宝くじに当たる人間はいる。けどさ、その人たちは、みんながみんな、幸せになれたのかな?






 ある日、たまたま家に居た藤堂に、俺はキャッチボールに誘われた。


「迅八はなかなか肩が強いな」


 その頃には、藤堂は俺の事を迅八と呼ぶようになっていて、俺は藤堂さんと呼んでいた。


 ——迅八、僕達は家族みたいなもん(・・・・・・)なんだ。無理はしなくていい


 その言葉は、思春期真っ盛りの俺には嬉しかった。楽だったんだ。

 よく知らない人間の事を『お父さん』と呼べる程に俺は大人じゃなかったし、子供でもなかった。


 しずかは藤堂の事を嬉しそうに『お父さん』って呼んでたよ。藤堂が魅力的な人間だっていうのもあるかもしれないし、そう呼ぶ事で良い流れ(・・・・)になるっていう事が分かってたってのもあるのかもしれない。

だって、子供は大人が思っているよりも、ずっと周りに気を遣って生きているもんだからな。


「迅八、そのグローブはいただけないな」


 ボロボロになってしまった、小さなグローブ。

 けどそれは、俺が『父さん』に買ってもらったものだったから、俺は何も言えなかった。


「僕が新しいのをプレゼントしよう。受け取ってくれ」


 何も言えない俺が曖昧あいまいに頷くと、すぐに藤堂は車を回した。


「靴」


 藤堂に言われ、靴を脱いでその車に乗り込む。俺は、車の中に簡易ワインセラーみたいなのがあるのを初めて見たし、全く揺れない車に乗るのも初めてだった。

 信号で止まると俺が乗っている車には、周りが必要以上に距離を置く。信号待ちをしている人達の目線が突き刺さる。


——かっこいいーー

——いいなあ。あんなの乗りたいなあ


開けた窓から聞こえてくるその声。それを聞いた俺は、あの時、……なんか変な気持ちになったんだ。

繁華街のスポーツ用品店に入ると、藤堂はすぐに店員の元に向かった。


「一番良いグローブとスパイクをくれ。……バットもあったなら」

「はい、使い込むんだったらクセとかもあるんで……坊ちゃんはポジションはどこですか?」

「それはいい。一番高い物を出してくれ」


 有無を言わさぬその口調に、俺も店員さんも何も言えなかった。

 スポーツ用品店から出た俺たちは、そのまま洋服を買いに行った。ドアマンがわざわざ扉を開けてくれる店、モデルみたいな販売員がいる店。

 俺は、パリコレに出るような高級ブランドにキッズ用の服があるのなんて初めて知ったし、買い物はすべてカードで済ませる人間の事も初めて見た。

 俺は様々な服や靴を買い与えられて、藤堂は母さんや静にもプレゼントを買っていたようだった。


 家に帰り扉を開けると、それに気付いた母さんと静が出迎えてくれる。

 藤堂が、買ってきた物を母さんに渡すと、母さんは嬉しそうにしていた。


「静のは僕が選んだんだ。……ほら、これでもっとお姫さまみたいだよ」


 そう言って、静の頭にティアラを載せてやる。

 ジルコニアじゃなく天然ダイヤが使われているそれは、少なくても数十万はするのだろう。


「ありがとう! お父さん!!」


 笑いながら藤堂に抱きつく静。

 母さんは、そんな静を無表情に見ていた。






 藤堂は、俺の目から見ると、完璧な男だった。そして、強い男だった。


「……迅八、形から入れ。そしてとにかく始めろ。そうすれば、クセだの個性だの、そんなものは後からいくらでも付いてくる。

 どこにでもいるぞ。準備不足なんていう言い訳を口にして、なにも始められない奴が。お前はそんな奴にはなるな」


 藤堂は、あくまで一面だけなのかもしれないが、人間を、社会を良く理解していた。人はどうやったら動くのか、そして支配できるのか。


 俺は藤堂に高級品を買い与えられてから野球にのめり込んだ。別にプロを目指していたとかはなかったけど、技術はぐんぐん伸びていった。

 プロを目指しているような人間は、値段なんか気にしない。自分に合っている物だったらどんな安物でもいいのだろうし、あるいはどんな大金でも惜しまないんだろう。俺にはそんな大志はなかった。

 けど、ただ周りの人間よりもいい物を持っているという事実だけで、俺は野球にのめり込む事が出来た。

 まだ子供の静が化粧に興味を持ち始めたのも、確かこの頃からだ。買い与えられたキラキラした服に、見合うようになりたかったんだろう。


 ……そして、いつの間にか捨てられていた、『父さん』から買ってもらったグローブ。


 初めは悲しかった筈はずだ。

 けど、どんどんと増えていく藤堂に買い与えられた様々な物。それに(うも)れてしまうように、悲しみはすぐに消えた。




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