青き鮮血の
目覚めは心地良く訪れた。
ほんの少しの気怠さを払うように、迅八は頭を軽く振る。起こした体から薄い布がぱさりと落ちて、自分が横になっていたのが床だった事に気付く。
「あのまま寝ちゃったのか。体痛い……」
周りを見てみると、アマレロが椅子の上でイビキをかいている。クロウとクーロンの姿は見えない。
もう起きて活動しているか、部屋で寝てるかしてるのだろう。
「よし。今日こそ静とちゃんと話さないと」
迅八は妹に確かめないといけない事がある。それは、出来れば避けて通りたい事だったのだが、それは許されない。
この世界に来た理由にも繋がるのかもしれない『最後の方』の記憶。それには静が深く関係している。もしも、妹がそれを覚えているのなら。
(……記憶を失っていてくれたら)
迅八は、この世界でお互いの境遇を唯一理解し合えるかもしれない妹に、そんな願いのような気持ちを抱いた。
ドアを開け、水汲み場に行くと、そこには大きな水たまりが出来ていた。すでに誰かがここで水を浴びたのだろう。
泥濘を避けるように乾いた地面の上に立ち、迅八は頭に水をかけた。
服が濡れないように注意しながら、水を飛ばすように頭を振る。首だけ突き出し目を閉じたまま、独り言を呟いた。
「……布、もってくればよかったな」
「よかったら、どうぞ」
「え?」
迅八が答える前に、その頭に何かが載せられた。柔らかくてそんなに大きくない、タオルのような物。
「アゼル?」
なんとなく思いついた名前を呼び、その布で顔を拭った後、声がした方を向いた。
……その女は美しい青い髪を持っていた。コルテのような薄い青ではなく、深い海のような青。
その下には真紅の瞳。怖ろしさすら感じさせるその赤い輝きは、つぶらな瞳と下がった眉尻で中和されて、どことなく兎のような可愛らしさを持っていた。
「え、だれ?」
「突然すみません」
その女が丁寧に頭を下げると、胸元から瞳と同じ色の宝石がはまった首飾りがこぼれ落ちた。
「お話を聞くためにうかがいました。……アゼルというのは、アゼルスタン——『ロックボトムの弟』の事ですか?」
「……あんた誰だ?」
誰かを呼んだ方がいいのかもしれない。迅八がそう思った時、後ろから聞き慣れた声がした。
「……お兄ちゃん、その人も知り合いなの?」
迅八がその声に振り向くと、妹が子狐を抱えて立っていた。子狐はだらしない顔で静の胸元に顔を埋めている。
(ぶっ殺されてえのかこのバカ悪魔は……!!)
しかし今はそんな場合ではない。思わず静を庇うようにその女との間に立つ。
「その少女がオズワルドの館で『保護』されていた転生者ですか? ……その子にも聞きたい事があるんですが」
「……てめえ、誰なんだよ」
思いのほかに硬い声が迅八の口から出る。その緊張を感じ取ったのか、目の前の女は慌てて手を振った。
「あ、違います違いますっ。別に尋問とかそういうのじゃないんです。誤解しないで下さい」
そう言って、女は再び頭を下げる。……迅八が、強く握りしめていた布を見ると、それは可愛らしいピンクの布で、何か動物の刺繍がしてあった。
「……あんた、何者なんだ。ジークエンドさん達に用なのか?」
「わ、私だって、ロックボトムなんていう怖い人達に話聞くのは嫌なんですよう。けど、あなたはあんまり怖くなさそうだったから、つい声を掛けちゃったんですけど……」
女はおどおどとした目つきで迅八を見ると、伺うように口を開いた。
「自己紹介が遅れました。私は教会の職員で、セリアと言います。ロックボトムの方々はご在宅でしょうか? ……お話を伺いたくてこちらに来たんですが」
その言葉を聞いて、千年の子狐のだらしなく歪んでいた顔が、無表情になったように迅八には見えた。
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(……やべえやべえやべえ、マジでやべえぞっ、なんでこの女がここに……!?)
子狐はダラダラとその顔から汗を流していたが、覆われている金毛のお蔭でそれは他には悟られない。
だが、そのキョロキョロと忙しなく動いている眼球を、迅八は不審の目で見ていた。
(あの首飾りは、俺のやった宝石で作ったのか? ……多分そうだ、間違いねえ、あいつだ!!)
一月ほど前、千年の大悪魔はその名に恥じないクズい行いを目の前の女にしていた。
漆黒のカザリアとの戦いで町に混乱を引き起こしたクロウは、その戦いで『死んだ妻』を捏造し、千年の大悪魔への復讐者という設定でセリアの事をハントした。見事なまでのクズっぷりだった。
ちなみに実際は死傷者ゼロ。『良い領主』だったベドワウのお陰で復興費用はたんまりと出たし、商魂たくましい商人などは、『伝説の大悪魔饅頭』などを売り出したりした。
「……つまり教会は、『知った事じゃねえ』と?」
「教会は、というか、アグリアさんがですが。アグリアさんはオズワルドのような人間が嫌いなんで……。『討ち漏らしがいたら殺しておけ。ロックボトムがやった事にすればいい』って言ってました…」
今はコルテが代表してセリアと話している。
初めに迅八はジークエンドを呼びに行ったのだが、眠い、殺されたいのかと言われ、すごすごとコルテを呼びに行った。
アマレロも木陰に座り、離れた場所でアクビしている。その隣に座っていたクーロンがのんびりと声を出した。
「コルテーごはんまだ〜? その子も一緒に食べさせてあげればいいじゃん」
後に転生者の少年は、この時の様子をこう語っている。
——俺はさ、あの人達は、肝が太いっていうか、大物なんだって思ってたんだ。けど、違うね。あの人達は、頭がおかしいだけだよ
「……『白銀』のアグリアはとんでもねえですね。天使が人間に罪をなすりつけるなんて」
「あの人は特別なんですよう……。だって、第三位ですよ。第三位!! この世界中で最高峰のワガママな人なんですっ。いつも部下がどれだけ苦労してるか。……大体、今は町の事をなんて呼べばいいのかすらよくわかんないんですよ? 統治者の『オズワルド』がいないんです!! ……それなのに、『そんなの私達には関係ないから放っておけ』って。 ……そんな事言っても、後で他の偉い人から怒られるのは、あの人じゃないんです、私達なんです!!」
先程から、セリアの話は半分以上がアグリアに対する愚痴になっていた。
——あの人はなんにもしない、私のお菓子を勝手に食べる、年増の癖して若作り……あ、今の本当にオフレコで。ミリ単位で刻まれちゃうんで
「え、アグリアっておばさんなの? 凄い美人だったけど……」
「なに言ってんですかっ。騙されちゃダメですようっ!? 正確な歳は知らないけれど、天使なんて見た目じゃ年齢分からないんですからっ!!」
横から口を挟んだ迅八とセリアの話はどんどん脱線して、コルテは深く溜息を吐いた。
「……で? あんたさんはどんなお人なんです? 職員って言っても色々あんでしょうよ」
迅八に向かい、アグリアへの愚痴を加熱させていたセリアが我に返り、コルテに向き直った。
「あ、はい。ちょっと恥ずかしいんで、コレ嫌なんですけど……」
意を決して女が言う。
……ぐっ。手を握り、下がっている眉毛を上に引き上げた。
「十二使徒第六位、『青き鮮血』のセリアです……。すいません。なんかごめんなさい。本当に……」
・・・・・・・・・・・・・・・
——チュンチュン、チュンチュン
小鳥の声が爽やかな朝に、何かを押し殺したようなコルテの声が響いた。
「……あんたさん、わざわざこんな時間に、つまんねえ冗談で僕たちに喧嘩売りに来てんです?」
コルテが眼鏡を押し上げる。その瞳は笑っていない。
「ち、違います違います! 本当に、その……本当なんです!!」
その様子を見ていたアマレロとクーロンが、アクビ混じりに言いあった。
「お〜? 第六位だってよ〜。勝てねえかな?」
「だからあんたは……けど、どうなんだろねえ。今は千年の大悪魔もこっちに、」
クーロンがそこまで言った時だった。
近くの木々から一斉に小鳥が飛び立ち、その場に居た人間が全員背筋に寒気を覚える。静などは理由も分からず、その足から力が抜けへたりこんだ。
「……そこのダークエルフさん。千年の大悪魔、知ってるんですか? どこにいるのか」
「な……!」
セリアの赤い瞳がクーロンを見すえる。先程までと全く違う眼光に、ダークエルフは息を呑んだ。
その様子を見ていた千年の子狐が、静の胸の中でガタガタと震えている横で、セリアがクーロンに向かい歩き出す。……すると、家の扉が開かれた。
「コルテー?」
扉が開かれるとそこからアゼルが顔を出した。その場を見渡し、迅八がいるのに気が付く。
すると、アゼルは迅八に向かいドでかい舌打ちを一つしてからコルテに続きの言葉を言った。
「チッ、朝から不愉快な顔を見た。……コルテ、ジークエンドが会うってさ。部屋まで来いって」
アゼルはそれだけ言うと、さっさと家に引っ込んだ。一瞬だけ弛緩した空気の中で、セリアが我に返り謝罪した。
「ご、ごめんなさい。あの、千年の大悪魔を探していて……。あと、『サジタリア』って人の事も知っていたら」
コルテが静に抱かれている子狐を見ると、そいつはカタカタ震えながら、ブンブン首を振っていた。
「……まあ、そんな事よりも今は中に入ったらどうです? あんたさん、ジークエンドに会いに来たんでしょ?」
コルテが家の扉を開くとセリアは中に入っていった。そこでやっと空気が再び動き出した。
「……お〜、ありゃ本物くせえな。タイマンじゃ無理だな。……ジークエンドも揃ってやっと、ってとこじゃね〜か?」
「……あたしゃ出来るならやりたかないねえ。あの子あれだよ、状況で強さ変わるタイプだろ。……『千年の大悪魔』とどんな因縁があるのやら」
クーロンが冷たい目で子狐を見ると、子狐は口の前で指を一本立てている。『聞こえる! 聞こえる!』と言っているようだった。
「チッ、て。アゼルのやつ、あんな冷たい顔しなくても……」
迅八がウジウジと言っていると、後ろから声が掛けられた。
「……お兄ちゃん、一体、これはなんなの? ここ、どこなの?」
その声を聞き、迅八は覚悟を決めた。
妹に、確かめる時が来た。微かな不安を抱いて、迅八は妹に向き直った。
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アマレロ達も家に戻ってしまった。
今は迅八と静、それと子狐だけがいる。
なにから話せばいいのか。迅八が迷っていると静が口を開いた。
「可愛いでしょこの子。狐なんて、本物初めて見た」
静が子狐の喉をくすぐるが、子狐は家の方をチラチラ気にしていた。
「……ああ。中身は可愛くないんだけどな。クロっていうんだ。あんまり構いすぎるなよ。調子に乗るから」
「調子に乗るって……。こんなに可愛いのに」
静は笑いながら子狐に頬ずりする。その顔は純粋で無垢な笑顔だった。
それは先日までの崩れてしまった顔と精神からは想像できないもので、迅八は静の胸に抱かれている子狐を引き剥がすのを、今はやめておいた。
「ここは、どこなの? 日本じゃないの? ……おかあさんは? あの人は?」
その言葉に迅八は身を硬くする。
静はどこまで覚えているのか。元の世界の事は覚えているようだ。しかし、その『最後の方』。それを覚えているのかどうか。それが迅八にとって最重要な事だった。
「ここは……、」
その後が続かない。迅八にも分からないのだ。
この世界の、亜人を含む人間、天使とも悪魔とも触れ合った。しかし、この世界はなんなのか。何処なのか。そんな事は迅八にも全く分からない。
ただ一つだけ確かなのは、ここは元いた世界では確実にない。
「日本じゃ……ない。それ位しか分からない」
「……そうなんだ」
静の顔からは笑みが消えていた。
悲しい顔でもない。無表情でもない。形容しようのない顔……あえて表現をするのなら、ほっとした顔だった。
「静。おまえ、覚えてるか? その、ここに来る前の事」
「……分からない。なにも思い出せないの。思い出せないって言うよりも、無い、みたいな……」
「……そうか」
その時、兄の顔に確かに安堵が見えた。しかしそれに妹が気づく事はなかった。
そして兄は思った。
どうか、このまま妹が、それを思い出さないよう。その心を傷付けてしまわぬよう。
もう、いいのだ。元の世界に帰れるのかどうかは分からない。帰りたいかどうかすら分からない。
ただ、妹にこれ以上の不幸が襲いかかるのだけは嫌だった。その為なら、目の前の『悪魔』に魂を売っても構いはしない。
雨に濡れる体。
胸に刺さるナイフ。
泣き叫ぶ妹、静の顔。
その最後の光景に至る記憶を、迅八はベドワウの館から逃げ出した後に思い出した。
(……こいつに、思い出させる訳にはいかない)
寺田迅八は、妹に殺された後、この世界で目を覚ました。
三章、本編終了




