迅八とクロウの始まり
「……全くとんでもねえ。ちょいと暇つぶしに転生者に関わってみりゃあ、この仕打ちとはな。あやうく結魂なんぞに巻き込まれるとは、ジョーダンじゃねえぞっ!」
怒気を含む声は、闇の中にこだまする。
鳴り続ける闇の中、迅八は頭に衝撃を感じた。
「まあ、なんにせよここまで町の近くまで来たんだ。久しぶりに町でつまみ食いでもしていくとするか。……しかし、カーーッ! イラつくぜっ!!」
なにか、自分の中から重要なものが無くなってしまった気がする。それがなんなのか、迅八には分からない。
「さてと。……あばよ異世界の小僧。全くとんだ疫病神だったぜ」
先ほどよりも強い衝撃を頭に感じ、迅八は闇から目覚めた。
「……痛ぇーーなコラッ!」
迅八が叫ぶと、先程まで鬱憤晴らしに迅八の体を軽く蹴り回していた『クロウ』は、毛を逆立たせ跳躍した。
「……生きてやがる? いや、手応えはあった」
なおもつぶやくクロウに迅八は食ってかかる。目の前のバケモノに。
「てめえ、いきなりなにしやがるんだっ。人の頭に蹴りくれやがって!!」
「……ちっ、まあいい。さっさと死ねい『魂喰らい』ッッ!!」
クロウの狐のような顔が恐ろしく歪み、あり得ないほど大きくその口を開けると迅八に襲いかかる。
がおんっ! 鼓膜を震わせた衝撃に、迅八は身をすくませた。しかし、衝撃はそのまま迅八の体を通り過ぎていった。
「うお!? ……おっっかねえええっっ!! なんだよ今の!?」
「……なん、だあ? おいクソガキ。一体全体、てめえはなんなんだ?」
なんでなのかは分からないが、迅八は化け物の機嫌を損ねてしまったらしい。
迅八は生き残る為に必死に頭を働かせるが、意識は混乱し、体は震え、心も体もいう事をきいてくれない。
同時にクロウの顔に驚きが浮かぶ。もっとも狐のような顔からは、その表情が分からない。
しかし、もしもそれが人間の顔だったなら、そこに浮かぶわずかな恐怖も見てとれたはずだった。
クロウもまた、目の前の事態に混乱していたのだ。
「……なんにせよ考えるのはあとか。 死ねいっ、異世界の小僧オッ!!」
クロウが豪腕を迅八に振るうと、迅八がとっさに構えたナイフにその腕が当たった。しかし、クロウはそんなものを気にしなくていいはずだった。
クロウがいうところの『不快な剣』の迅八のナイフは、たかだか刃渡り十センチ程の刃物であり、この世界でも珍しい希少金属で鍛えられた剣でもないと、クロウの毛皮はびくともしないはずだ。
それなのに、クロウの腕からは鮮血が吹き出した。
「うぬあっ、痛ッッてあああ!?」
迅八は震えながらも、目の前で絶叫をあげて転げ回るクロウを見て、どうにかなるかもしれないと考えた。
(……こいつ、見掛け倒しか!?)
もちろん自分が勝てるとは思わないが、こんなちっぽけなナイフでついた傷に、さっきから大げさに転がり回っている。痛い痛いと叫びながら。
「……ぷふっ」
「なに笑ってやがんだクッソガキャアッ。ぶっっ殺すッッ!!」
転げ回っていたクロウが、跳躍し迅八と距離を取る。
そしてその右腕を天に向かい突き出すと、迅八の周りから炎の柱が立ち上がった。
「な、燃え、……おああああああああっっ!!」
「くかかかかかかっ。火蜥蜴さえ逃げ出す魔界の炎だ。 骨まで舐め尽くされろ、ベロベロとなあああっ!!」
一瞬で迅八は火だるまになり、自分の体が炎に包まれる光景に、絶叫をあげながらその場に崩れ落ちた。
クロウは炎を楽しげに見つめると、やがて迅八の体が動かなくなったのを確認し、
「ち、ワケがわからんだらけだが、ようやくくたばったか……」
「……勝手に殺してんじゃねえよ」
目玉が飛び出る程驚いた。
「熱くねえ。……なんだったんだ今のは」
「そりゃこっちのセリフだ小僧っ!! なんなんだ…… なんなんだテメェは!?」
炎が収まると、迅八は無傷のままで立ち上がった。先程まで体を舐めていた炎。それなのに火傷の一つも負っていない。
それを見たクロウの顔に、ハッキリとした恐怖が浮かんでいた。
「おおおあああっっ!! 死ねいっ!!」
そのまま恐ろしいスピードで迅八に向かうと、クロウは迅八の左腕を刈った。
迅八から少し離れた所に、ずざっと空から音が落ちる。その音から一拍置き、迅八の喉から絶叫が溢れ出た。
「……術は効かねえ。魂喰らいでさえもどうも感触がわからねえ。 なのに、ただ殴りゃあ痛えのか!? このガキ、いったい何者だっ!!」
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迅八は、生まれて初めて経験する激痛に、その身を全て委ねていた。この痛みには逆らえない。逆らおうとすれば、自分は発狂してしまう。
ただ、痛みに身を委ね『痛い』と考える事しか出来ない。だって、自分の左側を見てみれば、そこにはあるはずのものがないのだ。
……あの恐ろしい爪は凄まじい切れ味と圧倒的なスピードで、迅八の左腕を根こそぎ持っていった。
断面からは黄色い肉がはみ出してきて、見たこともない管が、震えながら血液を迸らせている。
一定のリズムを刻むその鮮血が、バクバクと唸りをあげる心音と同期している事に気が付いて、また悲鳴をあげた。
(いたい、いたい!いたいいたい!!)
痛みから先へと思考が進まない。進ませたなら、圧倒的で不可避な現実と、正面から向き合う事となる。
(このままじゃ、死、)
その考えを打ち消すように、また絶叫をあげる。
そして、微かな希望を込めて、迅八はクロウを恐る恐る見上げた。自分を殺そうとした相手に。助けてくれと媚びるように。
そんな愚かな子供に、目の前の化け物はためらう事なく何かを投げつけた。
——すこんっ
心地よい音が迅八の耳に聞こえると、その眉間には何かが突き立っていた。
それは、数時間前に、自分の胸に刺さっていたナイフだった。