物語の始まり
なにかが、体の中を通り抜けた。
そのなにかは、迅八の体の中をまさぐったあと、一瞬で消え去った。
「……まず、落ち着け。体はなんともないだろう」
化け物が喋りだし、迅八はとっさにナイフを構えた。
「……ほう。そのちっぽけな剣でなにをするつもりだ? 我と戦うつもりなのか? 先ほどの行為で汝に危害を加えてはいないはずだが」
——がふんっ
濡れた鼻から息を吐き出す狐の化け物。人間の言葉を喋るそいつは、厄介者を見る目つきで迅八を見た。
「言葉がわかるようにしてやったのが迷惑だったと言うか? ならば汝には我に挑む資格がある。その剣を使うか?」
そこではじめて迅八は色々な異常に気付いた。
まず、なぜか化け物の言葉がわかる。そして、噛られた頭はなんともない。
頭が混乱している迅八に構わず、化け物は続けた。
「挑む意思がないのならその不快な剣を下ろせ。そしてもうひとつのそまつな剣もしまうがいい。それを見るのも不快だ」
そこで、迅八は自分が裸だったのを思い出した。
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迅八はその後、化け物がどこからか取り出した服を着て、壁にもたれかかっていた。
不用心とは思ったのだが、頭が割れてしまいそうな程に色んな疑問が渦巻いていたので、へたり込むようにしていた。
化け物がどこからか取り出した服の事も、問いただす事はしなかった。
「……転生者?」
「おそらく……というよりも、汝は確実にそうだろう。言葉がわからない。そのちっぽけな剣を我に向ける。どちらも考えられん。……この場所にいることもな」
化け物が言うには迅八は《転生者》と呼ばれる存在で、この世界の住人ではないらしい。どこかからこの地に呼び寄せられたと言う。
化け物は少しだけ会話をした後、無言のまま、ちょこんと座っている。特に話しかけてはこない。
(……夢か?)
一番現実的な答えだった。
聞きたい事は山程あるが、この世界が夢ではないと、迅八の中で確定してからでないと意味がない。
迅八は、明晰夢を比較的自由に見ることが出来た。夢を夢だと自分で認識し、自分の考えで行動できる夢。
この現状も、それではないのか?しかし、判断は出来るはずもない。
次に考えたのが、死後の世界、という事だった。
迅八の記憶は曖昧だが、全く思い出せないのは『最後の方』に関してだけだった。
それ以外の事は、思い出せるのだ。濁った水のような毎日も、殺してやりたい奴の顔も、可愛い妹の顔も。
ただ、何故なのか。
自分は死んだはずだ、という思いが頭の中にある。
けれど、『最後の方』の記憶は思い出せないので、正直、迅八にはよくわからなかった。正しい思考の方向性すらわからなかった。
「……考え事は終わったか」
化け物はそう言った。どうやら迅八の混乱を察して、黙っていてくれたらしい。
迅八は頷くと、化け物にまず礼をした。
「……服をありがとう。それと言葉も。これはあんたがわかるようにしてくれたのか?」
「そうだ。ただ、どうやってやったのかという質問には答えん。お前はこの世界の言葉がわかるようになった。それで充分だろう。服の事もだ」
「なんで答えられないのかを聞いてもいいかい?」
「面倒だからだ」
化け物は即答した。
「我の持つ能力でやった、と思っておけばいい。我は汝の世界を知らん。汝もおなじだ。
……我と汝の世界では、その知識も常識も違うのだろう。汝の世界の手近な技術を我に理解させる事が出来るか? 出来ても面倒だろう」
「……わかった。とりあえず今はそう思っておくよ。話は変わるけど、この場所は何処なんだ?」
「南の木だ。南の木の森ともいうな。常夜とも」
「……常夜?」
質問を続けようとする迅八を化け物は右手で遮り、迅八の背後の『壁』を指差した。
「まあ待て。その前にここを動くぞ。どうにも、そいつに近付きすぎると落ち着かぬ」
その背後の『壁』はとても巨大に見えた。
そもそも、なんでこんな森の中に巨大な壁があるのか。
「ついてこい。そうすれば分かる事もあるだろう」
化け物はそう言った。
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迅八が化け物と歩き始めてから一時間ほどが経った。
化け物は迅八の質問に対してぽつりぽつりと答える以外は、とても静かだった。
ときおり、身を切るような鋭い枝を折り、深い藪を避けて先導する。おそらく迅八の為にしているのだろう。
迅八の先を歩いている、狐と人間の中間のような化け物。その大きな背中につい言葉は出た。
「……なんかよくわかんねえけど、初めに会ったのがこいつでラッキーだったのかな」
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
歩き始めてから二時間以上。それも当然正確には判らない。そんなものだろう、という予測だ。
辺りはなぜか見渡せるものの、夜の森など歩いた事もない迅八は、すでに疲れきっていた。
更にどれほど歩き続けたか、迅八が気が付くと、辺りは明るくなってた。どうやら朝になったらしい。
「ジンパチ。森をぬけるぞ」
森の切れ目が見えると、右手に握ったままのナイフに力がこもる。
思わず走り出していた迅八は、化け物を追い越して森から抜け出る。そして、柔らかそうな草むらの中に倒れこんだ。
「あーーっ、つかれた……」
「あれが町だ」
森は小高い丘の上にあり、見下ろせばさほど離れていない場所に町が見えた。
それでも歩けばそこそこの時間がかかるのだろうが、目的地が目に見える。それだけで迅八には充分だった。
化け物に礼を言おうと振り返ると、迅八はまた絶句した。数時間前に自分がもたれかかっていた『壁』。それがなんだったのかやっと分かったからだ。
「スカイタワーどころじゃねえ…」
そのあまりにも大きな、木と呼んでいいのかも分からないもの。それが今まで歩いてきた森の真ん中からそびえ立っている。
化け物は幾つかの質問に、そのうち判ると答えた。
……なんでこんな森の中に壁があるんだ? 常夜ってなんだ?
あれは壁ではなく、木だった。
さっきまで夜だったわけではない。あのあまりにも巨大な木の、木陰を歩いていただけなのだ。見上げてみれば、太陽はすでに中天を越している。
(だから、常夜の森なのか……)
迅八は、自分の中の選択肢の一つを消した。
ここは元いた世界では、確実にない。
死後の世界か夢か、それとも異なる現実世界か。
そこまではまだ分からないが、喋る動物も奇妙な草花も、迅八が見たことないものは溢れていたが、この巨大な木はそれらとはケタが違う。
道すがら化け物に聞いたところによると、遠くに見える町の中には迅八のような『転生者』が集まるギルドがあると言う。
とにかく転生者ギルドに行く。迅八はそう決めた。話はそこから始まるのだろう。
「……なんだか頭の中はめちゃくちゃだけど、あんたがいなかったら俺はやばい事になってた。それだけは理解できたよ。ありがとう」
「よい」
「あそこに転生者ギルドがあるんだよな?」
「そのようなものはあるはずだ」
この化け物のはっきりしない言い回しにも、迅八は慣れてきた。どうせ町に行けば分かるのだろうし、迅八は必要以上には気にしなかった。
「本当に世話になったよ。ありがとう。えーっと……、不便だな。名前がないのは」
「今までそのように感じた事はない。それではな。ジンパチよ」
そして立ち去ろうとする化け物を迅八は見た。
そのたくましい腕。日の光に照らされ、きらきらと輝いている金色の毛。
太陽の下で見た化け物は、『化け物』と呼ぶのは失礼に当たるほど神々しかった。
(森の神獣か……)
そしてその後ろ姿に、迅八は声を掛けた。
「……なあ、あんたの事クロウって呼んでいいかな?」
ピタリと。
立ち去ろうとしていた化け物の体が止まった。
そのたくましい腕に生える、五本の鋭い爪。それは恐らく、どんなものでも切り裂く無敵の武器なのだろう。
この世界ではじめて感じた友情に、迅八は名前を付けた。爪と。
「じゃあなクロウ、本当にありがとう。……また会えるといいな」
先ほど、寺田 迅八は考えた。
まずは転生者ギルドに行こう。そこから話は始まるのだろう。おそらく、本当ならそうだった。
しかし、迅八は言ってしまった。自分の運命を変える一言を。その短い一言が、一足先に物語を始めてしまう。
「……待あてェ、小僧ォオ……」
先程までと違う口調が迅八の後ろから聞こえた。
「死ね 」
迅八が振り返る間もなく、その意識は闇に落ちた。