天使と悪魔
迅八はフィレットと二人、牢屋で星を見ていた。
二人とも窓枠に腕を掛け、静かに空を見つめている。
迅八は楽な寝巻きに着替えていて、フィレットも緩いミニスカートと、丈が余ったタンクトップを着ていた。
満天の星空に、ときおり流星が走る。迅八は生まれて初めて見るそれに目を奪われた。
流星は迅八が想像していたようなものではなく、一瞬で短い距離だけ走った。もっと夜空を斜めに切り裂くものだと思っていた迅八は、早々と願い事を三回言うのを諦めた。
「……そんなおまじないがあるの? けど、そんなの無理だよジンくん 」
迅八の呟くような愚痴を、フィレットは笑いながら聞いている。
「……けど、綺麗でしょ?」
「うん。すげえ綺麗だ。……けど」
迅八には気になる事が二つあった。
以前、一人で野営した時も感じた違和感だが、なにかこの夜空は、元の世界とは違う。両端が欠けた月は当然として、他にも何かが違う気がする。
……そして、もう一つの気になる事。
——くかかかかかかか。ほらメス豚、なんだ言ってみろ
——いやだあ いや いや ……ごしゅじんさまあああ
時折、下の部屋の窓から漏れ聞こえてくるこの声。
その度に、迅八とフィレットの会話は中断し、おかしな空気が流れた。
——そんなでけえ声でどうするんだ。おい、娘に聞こえてたらどうするんだあアアア?
——ああ ゆるして おかあさんをゆるしてええええ
(……最低だ。あいつは本物のクズだ。マジで悪魔じゃねえか……)
迅八は、ついさっきまで興奮しながら見入っていた自分を棚に上げた。フィレットが横にいる状態で、こんなやり取りを耳にするのは地獄だった。
迅八が横目にフィレットを見ると、困ったように、ポリポリと頬をかいていた。
(よかった……。オークが性に対しておおらかで、本当によかった……!!)
もしも迅八とフィレットの立場が逆だったのなら、発作的に窓から身を投じてもおかしくはない。
桃色の空気に当てられて、フィレットと夜空でも見ようとした迅八は、自分の愚かさを認めると窓から離れた。
(あ〜、もう寝ちまおう。クロウには、明日文句言ってやる)
昼からずっと活動していた迅八は、そうと決めるとすぐに睡魔に襲われた。
「……あーフィレット、俺はもう寝るよ。なんかゴメンな。あの馬鹿が……」
「ふふ。ジンくんが謝る事ないよ。おやすみなさい」
(やっぱりフィレットは可愛いなあ……)
迅八がそう思いながら布団に寝転がると、なぜかフィレットもその隣で横になった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あの、フィレットさん」
「……なあに? ジンくん」
フィレットは身体ごと迅八の方を向いている。
柔らかそうな巻き毛がぺたりと横に流れて、可愛らしいおでこが露出していた。
「俺、眠いんだけど……」
「うん。寝ていいよ」
そう言うと、フィレットは左手でリズムをつけて、迅八のお腹をぽんぽんと叩く。
なんにもおかしな意味はないその触れ合いに、迅八の身体の芯からおかしな熱が湧いてくる。すると、いつかのように、フィレットは優しい子守唄を歌いだした。
………ラララ……ララ……
(……無理。ぜんっっぜん無理です。……ヤバい。こんなん寝れねえよ!!)
そう思った迅八は、フィレットの向こう側にある掛け布団を取って、それにくるまってしまおうとした。
「……ぁんっ、ジンくんっ」
柔らかい何かが迅八の手に触れた。しかし、そこはフィレットの身体の位置からは少し外れているはずだった。
(なんだこれは……)
ぐにぐにとした触感のそれを、手で弄ぶ。
「い、ジンくん…、ジンくんッ、あっ!」
……柔らかい。短い鞭のようだ。うっすらと毛が生えていて、まるで尻尾のような……。
「え、尻尾!?」
迅八はガバッと体を起こし、今まで自分が触っていた物を見た。そこには、くるんと丸まった可愛らしい尻尾が生えていた。そして、スカートがめくれあがったその尻には、フィレットは何も履いていなかった。
「んなあっ……!?」
なんで、と言葉が続かない。
フィレットの眼はどこか虚ろに遠くを見て、身体からはクタリと力が抜けていた。
「ジンくん、そんな、急に、……ダメだよぅ……!」
「違う違う違う違う!! なんで尻尾!? あれッ? そういう場所なの!? 尻尾っ!!」
それ以前に、なんで下着を履いていないのか。尋ねる事も出来ず、迅八はそれをじっと見た。
……こんなに綺麗な物体を、迅八は生まれて初めて眼にしていた。どこまでも滑らかそうな肌が、月明かりに照らされて艶やかに光っている。……その時、雲が動いたのか光の位置がずれた。そこにはひときわ濃くなった影と、その先には割れ、
(ダメだダメだダメだダメだ!! それ以上はっ、ダメだあっっ!!)
「…ねえ、ジンくんも、やっぱりしたいの? ……おかあさん達みたいな事」
迅八の頭を空白が占める。
「へ? ……へ?」
「したい?」
「……な、なにを?」
「えとね。……アレ」
(……それは、まさか、……アレをアレする、まさかのアレの事でしょうか)
「……いいよ 」
なにがあ? ……そう言える程の阿呆だったら迅八は幸せだった。しかし、彼は中途半端な阿呆だったので、そこまでの言葉は出てこなかったのだ。
「けどね、順番に、して欲しいな……」
そう言って、フィレットは静かに眼を瞑った。
(うおおおおお……! こ、これはあれか、キ、キッッスを、せがんでるのか……!?)
若き迅八は苦悩する。どうすればいいのか、何が正解なのか、全く判らない。迅八は、自分の気持ちすらも判らなかった。
……フィレットとは出会って二週間も経っていない。自分の中のフィレットに対しての気持ちが、世間で言うところの愛とかだったりするのかも判らない。
けれど、もしも。……もしもフィレットはそんな段階をとうに越えていて、自分の事を『愛してくれている』とするのなら、誠実にその気持ちに応えるべきではないのか。
しかし、そんな思いとは裏腹に、迅八の眼はふっくらとしたフィレットの唇に引き寄せられた。
……それは、きっと甘いに違いない。優しく噛んだら蕩けるような果汁が出てくるに違いない。
(……それでもダメだ。ダメだよ)
迅八は冷静になり、フィレットの顔を見つめた。……すると、目を閉じたままの少女の唇が、小さく開いた。
「ジンくん……」
……可愛らしいオークの女の子。
張りのある薄桃の肌は月の光で青く輝き、尖った睫毛は震えていた。柔らかな頬はいつもよりも赤く染まり、ほっそりとした顎が物欲しげに動いている。
(うおおおおお……!! ダメだ、けどっ、キッッスくらいなら、そのくらいなら……!!)
その時、苦悩する迅八の心に天使が舞い降りた。その『漆黒』の天使は迅八に向かい囁きかけた。
『些末なことだ……些末なことだ……些末なことだ……。そのくらい、取るに足りん……取るに足りん……取るに足りん……』
鼻息荒くフィレットの顔に突進しようとした迅八の前で、フィレットの眼が開かれた。
「うひっ!!」
「……ジンくん、あのね……。するんだったらね、お願いがあるの……」
「な、ななっ……」
「あのね、わたし、ごめんね、オークだからね、……最後、ちゃんとしてほしいの 」
(最後? ……なに!? 最後ってなに!?)
「……赤ちゃん、すぐ出来ちゃうのね、だから、最後……」
天使は言う。
『些末な事だ…些末な事だ…些末な』
(そ、そそ、それは、だだだだだだだだだだだだ、断じて、些末な事じゃねえッ!!)
「けどね……」
フィレットは、迅八の頭に腕を回し、コツン、とおでこを合わせた。
「もしも……、もしもだけど、ジンくんが、いいよって言ってくれるなら……、最後も、いいよ」
……迅八の心に悪魔が舞い降りる。その悪魔の姿は金色に輝き、何よりも神々しく見えた。
そして、その悪魔と迅八の叫びは一致した。
(『知ったことかっっっっ!!』)
悪魔の力を得た迅八には、もはや恐れる物などなにもない。
その獣性を存分に発揮しようとしたその時、フィレットの後方……牢屋の格子の向こう側に浮かぶ『眼』に気が付いた。
その眼は、瞬きもせずに迅八達を見ている。そして、闇の中に浮かぶ瞳は、無言でこう言っていた。
——責任とれよ。弟
その悪鬼の姿を見た瞬間に、迅八に無限の力を与えた天使と悪魔はさっさといなくなっていた。
迅八のカチカチと鳴る歯の音に気付き、フィレットが後ろを振り返ると、その身体を硬直させた。
・・・・・・・・・・・・
まんじりともしない空気の中、迅八が口火を切った。
「……いやあああ〜フィレットォォオオ。そろそろいいかあ〜〜? もう充分肩はほぐれただろ〜お?」
あまりにも苦しい言い訳に、フィレットはすぐに乗っかった。
「う、うんっ。ありがとジンくーーん。……ふあ〜あ、私眠くなっちゃったわぁぁ。帰ろうかなあ〜……って、兄さあん!? いつからいたの〜お!?」
猿芝居もいいところだったが、ロドは何も言わなかった。
「オ、オホホホホ……。それじゃ私帰りますから。さ、兄さんも行きましょ。そうしましょ〜」
遠ざかってゆくフィレットと悪鬼。しかし、悪鬼は最後に迅八を見た。
——チッ
舌打ちして去っていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、あぶなかったあああ……!!」
何が危なかったと言えば、あそこでロドに気付かなければ、間違いなく迅八は突っ走っていた。
「……この世界、天使も悪魔もクズすぎだろ」
それから迅八が眠りにつけるまで、短くない時間を必要とした。
————————————————
次の日の朝、一階での朝食風景は、奇妙なものだった。
「お袋、メシはまだかい?」
「はいはい、ちょっと待っててね〜」
ロドに急かされたスーローンは、パタパタと台所を走り回り、食事の支度をしている。
迅八は、長方形の食卓にフィレットと向き合い座っていた。フィレットは迅八と目が合うとニコリと笑いかけてくる。
「おはようジンくん」
「おっ……おはようっ!!」
その顔を見て思わずどきりとしてしまうが、迅八は他の事に強く気を引かれていた。
……食卓の上座、そこにはなぜか、どっしりとクロウが座り、新聞のような物を広げている。まるで家長のように構えているクロウに、ロドが声をかけた。
「オヤジ、なにか面白いものでも載ってるか?」
「……ん」
そっけなくクロウが返事を返すと、そこに料理を運ぶスーローンがやってくる。
「はいはい出来たわよ〜。……ほらお父さん。みんなに切り分けてあげて」
「……ん 」
クロウはナイフをちらりと見ると、目でスーローンに命令した。
「もお……本当にしょうがないんだから。これは本当はお父さんの仕事なんですからね?」
鼻から一つ息を吐き出し、それでもスーローンは嬉しそうに大きな肉を切り分けた。
初めにクロウ、次にロド、そして迅八の前に置いてくれる。
「ジン、いっぱい食べるのよ」
そう言って笑った顔は本当に美しくて、迅八の心の中で幼い日を思い出させ、暗い気持ちにさせた。
スーローンはフィレットと自分の前にも皿を置くと、クロウをうながした。
「ほら、頂きましょう。……ジン、どうしたの?」
湧き上がる昔の記憶を底に沈め、迅八はスーローンの顔を見た。その顔は様子のおかしい迅八を心から心配している顔だった。
「い、いや、なんでもないよ」
「全く、ジンはおかしな子なんだから……。ほらお父さん、もういい加減にしてください」
(いや、おかしいのはおめえらだ)
「……ん 」
クロウも新聞を畳むと食事に目を向け、無言で食べ始める。それを待っていたかのように、ロドとスーローンも食事を始めた。
(言葉が、見つからねえ…)
ごく自然に、和やかな食事の風景が迅八の前に広がっている。しかし、しかし。
(いやいや、おかしいでしょって。不自然でしょって……)
スーローンは昨日までとは違い、豪華なローブを着ていない。一般的なシャツと長いスカートを身に付け、口調すら変わっている。
ロドも目の前の風景を当たり前のものと思っているようで、家の中でも堅苦しかった言葉遣いが自然に砕けている。
フィレットだけはその場の空気になじめずにいたようだが、それを口にする事はなく、迅八と同じ状態だった。
そして、『おとうさん』。
「……ん。これうめえな」
クロウのその言葉を聞いて、スーローンが顔を輝かせた。
「うんっ。……朝早くから狩人さんの所に行ってね、分けてもらってきたのよ」
(うん。って……)
服装、口調、表情、その全てが昨日までとは違う。
しかし、そんなスーローンは、迅八の目にはとても素敵に映ってしまった。
スーローンの横に座るロドが、和やかに声を出す。
「ははは……お袋、そんな顔を息子の前でしないでくれ。オヤジに妬いてしまいそうだ 」
「うふふふふ、全くロドったら〜」
「わっはっはっは……」
ロドとスーローンの笑い声が響く、春の木漏れ日のような温かい食卓の中で、迅八は一人だけ鳥肌と戦っていた。しかし、フィレットも氷のような無表情だったので、もしかしたら二人だったのかもしれない。
そして、その幸せな朝食は、迅八を無視して続けられた。




