南の木
寺田 迅八は、目覚めてからなにもしていなかった。
寝起きのまどろみを楽しむわけでもなく、ぼんやりとした顔で前を向いていた。
そのままいくらかの時間が流れると、見るとはなしに見ていたのだろう辺りの状況が、情報として脳の中で生まれだした。
(ここは……)
辺りは薄暗いが、不思議な暗さだった。夜なのだろうが、妙に明るい。
月明かりのようでもなく、電灯でもない。迅八が初めて目にする暗さだった。
(木が多い……)
迅八が目覚めたその場所には、色彩が溢れていた。
数々の草木が生い茂り、色とりどりの花が咲き乱れている。この場所に、世界中の色という色が集まってきたのではないか……そう思わせる光景。
そして、咲き誇る花はどれもこれも、それ自体が薄闇の中でほのかに発光していた。
やがて迅八は、緩やかではあるものの、思考を始めるようになった。
(……壁? なんだこれ)
迅八は、自分が何かにもたれかかるように座り込んでいるのに気がつくと、同時に今まで意識していなかった体の感覚に気付きはじめた。
(ちくちくする……、うおっ)
迅八は裸だった。草に細かく体を刺され、それを払いのけるように手を振ると、自分の胸に何かが刺さっているのに気がついた。
……それは柄のように見えた。まるで心臓にナイフを突き立てているように。
そして、迅八はとっさにそのナイフを抜いてしまった。
もしも体にナイフが刺さっていたとしたら、なんの考えもなくそれを抜く事がどういう結果を招くのかは誰にでも分かる。
その事に迅八が気がついたのは、完全にナイフを抜いてしまった後だった。
しかし、胸からは出血することもなく、刺さっていた傷跡すら見当たらなかった。
(このナイフは……)
何故かそれを見ると、心がざわついた。刃渡り十センチ程の、余りにも頼りない武器。
そのナイフは、迅八の曖昧な記憶をやたらと震わせる。
そして、思考を続けようとする迅八の前に、唐突にそれは現れた。
その生き物は、所々に赤が混じる金色の毛をまとっていた。全体で見れば狐のようなその生き物は、あらゆる部分が狐とは違った。
頭部からは荒々しくたてがみが生え、馬のように背中まで続いている。四つ足で歩いているが、前足は手のようにも見え、後ろ足で立つ事も出来るのかもしれない。
その腕、体は見ているだけでも力が漲っているのがありありと分かり、その気になれば迅八の頭などたやすく握り潰せそうに見えた。
そして、一番違う点は、体の大きさだった。体長は優に二メートルを越え、三メートル程もあるかもしれない。
迅八は初めの鳴き声では驚きのあまり身をすくませた。しかし、二度目の鳴き声では、恐怖と畏怖から身も心も固まったのだ。
「……え」
驚きのあまり硬直している迅八に向かい、その生き物は、現れたと同時に不思議な声で一度鳴いた。
迅八がなんの反応も返せずにいると、少しの間をおき、生き物は先程よりも長く鳴いた。
「な……」
その生き物は迅八をつまらなそうに眺めると、唐突に迅八の頭に噛り付いた。
がおんっ。
空気が震えるように聞こえた後、迅八がこの世界で初めて出した言葉は、意味を成さない絶叫だった。