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アゲイン×2 《クロスツー》  作者: 紺堂 悦文
第二章 亜人の里の収穫祭
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星の降る夜

 



「あ〜、なんて事を言っちまったんだ!!」


 今日何度目かのその思いを口にすると、迅八は置いてあった布団を広げて寝転がった。

 あの後、迅八は周りの男達に取り押さえられ、この場所に連れてこられた。


 取り押さえられたと言っても、荒々しく扱われる事はなく、連れてきた男の中の一人は小さな声で言った。——いいから。大丈夫だから。大人しくしとけって。



「……ジンくん。泉でも言ったけど、女の人に変な事言っちゃダメだよ」


 その後やってきたフィレットは、開口一番そう言った。けれどやはりその顔は、困ったようにはしていたが、微笑んでいた。


「今スーローン様にお話してくるから。少し待っててね」


 そう言いフィレットは立ち去り、迅八は今、一人で牢屋の中にいる。

 牢屋と聞いて陰鬱な地下をイメージしていた迅八は、連れられてきた場所に驚いた。


 まず、地下ではなく、階段を登り上に連れてこられた。結構な段を登って辿り着いたそこは、この()天辺てっぺんに近い所だった。

 部屋の中は簡素ではあるが何不自由ない作りになっていて、扉で閉ざされた個室のトイレまである。


 大きく開いた窓から望める景色は雄大で、広がる大森林の美しさを堪能(たんのう)できたし、眼下には里の様子も一望出来た。

 窓には特に格子(こうし)などが()まっている事もない。しかし見下ろした地面はかなり遠く、この窓から逃げ出すのは死に直結すると思わせる。

この部屋から逃げ出す事は出来ないだろうが、窓から見える景色だけでも、元の世界ならスイートルームと呼ばれてもおかしくない部屋だった。


 牢屋と言われて納得出来るのは、自由に出られない事と、扉の代わりに付けられた格子だけ。しかしこの場所には全く人がいないので、人の目を気にするストレスもなかった。


「風呂がないのは不便だけど、むしろこんな良いとこに泊めてもらっていいのかな……」


 太陽の匂いがする布団の上で、迅八はゴロゴロと転がっていた。

 綺麗なオバサン発言は、つい出てしまった賞賛だった。もしもこの布団の横にスーローンが寝ていたら、迅八はその美しさに呑まれて指一本触れることも出来ないだろう。

迅八は少年だが、男でもある。しっかりと彼女には魅せられていた。


 だが、いかんせん十八歳の少年は、外見的には三十歳位に見えるスーローンの呼び方を、他に知らなかった。

 ……『お姉さん』という社会を円滑に回す魔法の言葉も、誰も教えてはくれなかった。


「けど、綺麗なオバサンだったなあ……」


 迅八は口元をにへらとゆるませてスーローンの事を思い出すと、いつの間にか眠ってしまった。




・・・・・・・・・・・・・・・




 迅八が目を覚ますと、太陽が下がり始めていた。正午はとうに過ぎているが、夕方にはまだ遠い。


「いま何時だ? ……やっぱ、時間が判らないのは不便だよなあ。この世界に時計はあんのかな。今度探してみるか」


 クロウと合流した後の事を考えながら、窓から里を見下ろす。

迅八の目の前に広がっている、大森林の壮大な青。

感嘆の声を漏らし、外の光景に見ていると、里の中に見知った人影を見つけた。


「ん、あれは……フィレット?」


 里の外れの方で、フィレットらしき人影が誰かと話しているようだ。

 遠くの事なのであまりよく見えないが、あの服装と髪の色はおそらく間違いないだろう。


「相手は、ロドさんかな……?」


 もう一人はフィレットよりもかなり大柄で、やはり見た事のある大きな斧を背負っている。

 もちろんなにを話しているのか判るはずもないが、興味本位で迅八がそれを眺めていると、突然ロドらしき方がフィレットの肩を両手で掴んだ。

 そのまま二人は何かを話していたようだったが、フィレットがロドの手を振り払い、その場から走り去った。


「……うわっ。あれって、そういう事なのかな」


 思わず赤面してしまった迅八は、窓から離れ、布団の上に座り込む。


「……そりゃ、あれだけ可愛かったら恋人くらいいるよなあ」


 頭の中で、フィレットとロドを思い出す。お似合いの二人。……そんな事を考えた迅八は、何故か自分がほんの少しだけ落ち込んでいる事に気付いた。


「いやいや、別に俺には関係ないしな」


 そして、無理矢理にでも他の方向に思考を向けた。丁度いい材料もあったのだ。

 シェリー達と別れてから、ずっと小さく考え続けてはいたのだが、まだ決まってはいなかった黒刀の名前。


「よし、いい機会だ。決めちまうか」


 スイートルームのようなこの部屋だが、連れてこられた時に、ナイフも刀も取り上げられた。しかし、いざ体から離してみるとなんとも心が頼りない。

 迅八は、いつの間にか武器に愛着を持っていたのだ。


「よし。まだ一回も使ってないけど愛刀だしな。さて……」


 迅八は、クロウから貰った黒刀を思い浮かべる。あの妖しい美しさは容易に脳で像を結んだ。


「しかし、あいつやたらとセンスはいいよなあ」


 服装などにもこだわりがあるようだし、クロウの作る物はなんでもかんでもかっこいいし、美しい。

 しかも本人は、テキトーだテキトーなどと言っていた。


「服、早く作ってくんねえかなあ」


 ひとり言をつぶやきながら、すぐに脇道に逸れる思考を元に戻す。


「やっぱ、ムラマサ? なんかいかにも、魔剣、妖刀! って感じだし」


 迅八の元の世界での魔剣の代表格。真っ先にその名前が浮かんだのだが、やはり自分で名前を付けたい。


「……そもそも、ああいうのって作者の名前とかだったりするんだよな。村正さんとか虎徹さんとか。じゃあ、九郎(クロウ)?」


 それは嫌だ。おそらくクロウも嫌な顔をするだろう。


「んじゃ自分の名前付けるか? ……はは。そりゃないな。ないない」


 色んな所に思考が飛んでなかなか名前は決まらない。

 一番ひどい所で、もうエクスカリバーでよくねえか? などと思ったのだが、迅八の心の中の、違う、色々と違う。という声は無視するには大きすぎた。


「……こんなことならクロウに名前も考えてもらえばよかったなあ。けど、方向性はやっぱ和風だな。村正とか虎徹系だな。……それにしても」


 頭が疲れてきた迅八は再び布団に寝転がり、少しずつ沈んで行く太陽の光を見ながら呟いた。


「いつまでほっとかれてんの俺……」




 ・・・・・・・・・・・・・・・




 残照はとうに消え、部屋の中には代わりに月明かりが差し込んでいる。

 窓から外を見下ろせば、また昼とは(おもむき)が違う絶景が広がっているのだが、空きっ腹を抱えた迅八はそんな事には気付かなかった。


(くそっ、牢屋甘く見てた! ……流石に三食昼寝付きとはいかないか)


 そんな事を何度か考えているうちに、下の方から扉を開く音がして、誰かが部屋に向かってくる。

 するとランタンを腰に下げたフィレットが、両手に何かを抱えて牢屋の前に現れた。


「……ジンくん、ごめんね遅くなっちゃって。お母さん凄く怒ってて、まだ頭冷やしてろって。けど、ごはん持ってきたから一緒に食べよ 」

「め、女神さま……!!」

「ち、違うよ! 豚人オークだから!」


 空腹の余りまた寝ようかと思っていた迅八には、ランタンに照らされたフィレットは、後光の差す女神に見えた。

 それから、鍵を開けて部屋に入ってきたフィレットは、テキパキと食事の用意をした。

 用意と言ってもランタンを置いたり持ってきたものを広げたりするだけだったが、迅八はそれを眩しく見ていた。


「じゃあ食べようよ。…はい、ジンくん」


 そういって、()ずから水筒のような容器を傾け、湯気が上るスープを注いで迅八に渡してくれる。

 それは、ゴロゴロとした野菜が沢山入った、コンソメスープのようなものだった。両手で包む(わん)の温もりと、そこから立ち昇る香りと湯気に、迅八の腹の虫が大きく鳴った。


「うまそ〜っ、いただきます!!」

「うん。いっぱい食べてね」


 慌ててがっつき出す迅八を見て、フィレットはクスクス笑い、自分もスープに口を付けた。


 ……食事はたっぷりと用意されていた。

 主食はパンで、それは固い代わりに味がしっかりと詰まっていて、スープに浸してから食べると旨味が倍増した。

 ローストされた獣の肉などもあり、迅八は、この肉まさか……などと思ったが、チキンのような味で安心した。


(ここでポークは食えねえよ……)


 他にも果実やよく冷えた水もあり、迅八は空腹だったせいもあったが、必要以上によく食べた。これはフィレットが作ったものだと聞いたからだ。

 フィレットを見てみると、彼女も幸せそうな顔で、もりもりとよく食べている。


(この子、ほんとーに可愛いなあ)


 可憐なその口を大きく開けて、頬をいっぱいに膨らませながら幸せそうな顔をしているフィレットに、迅八はつい見惚れてしまう。

 すると、その視線を違う意味で受け取ったのか、フィレットが口の中の物を飲み込んでから口を開いた。


「……もう、食べ過ぎだって思ってるんでしょ」


 迅八は全くそんな事を思ってはいなかったのだが、フィレットは続ける。


「兄さんにもいつも言われるの。お前、それ以上太ったら兄妹の縁切るぞって。わかってるけど、美味しいんだもん……」


 いつも笑顔を絶やさないフィレットが、初めてジト目で迅八を睨む。

 迅八は太ってるとは思わないし、それがフィレットの魅力だと思ったのだが、口を開いたらまた余計な事を言ってしまいそうだったので、苦笑して誤魔化した。


「もう、ジンくんまで。……いいよ。太ってる子が好きな王子様が、そのうち出てくるから」

「……王子様?」


 それを聞いて抑えられなくなった迅八が笑い出すと、そこまで本気で言ってはいなかったのだろうフィレットもクスクスと微笑み、二人で笑いあった。


 食事を綺麗に平らげ迅八が一息ついていると、フィレットが濡れた手拭いを迅八に渡した。


「はい、ジンくん」

「お、サンキュー」


 昨日から風呂には入っていない。そのまま顔を拭いて手拭いを返す。


「もう、まだ付いてるよ 」


 そういって、フィレットは優しく迅八の口元を拭ってくれる。……まだ迅八はフィレットと出会って数時間だったが、フィレットにはこういう所があった。天然とかほわほわとは少し違う、自然な柔らかい感じの魔性。

 思わず迅八が頬を染めると、それに気付いたのかフィレットはクスクスと笑った。


「ジンくん、はいお茶」


 また別の水筒からお茶を出してくれたフィレットに、迅八は尋ねた。


「そういや、お母さんって……あの綺麗なオバサン?」

「そう。スーローン様が私のお母さん……ジンくん。もうお母さんの前で絶対にオバサンって言っちゃ駄目だからね。次は本当にお仕置きされちゃうよ」




(お仕置き……。少しだけなら……)




「もう、全然解ってない顔してるんだから……。お母さんも今は大変なんだから、あんまり負担を増やさないであげてね 」


 フィレットは苦笑する。オバサンと言われた時の、自分の母親が普段は見せないあの表情を思い出したのだろう。


「そういや、祭りの準備みたいなのをしてたけど、それが関係あんのかな?」

「……うん、そう。収穫祭(ハーヴェスト)が近いから」


 そう言ったフィレットの顔が、どことなく寂しげに迅八には見えた。

 

(あちゃ、またまずい事言っちゃったのかな?)


しかし、祭りの内容を聞く事が失礼に当たるとも思えない。


「えと、祭りなんだよな。どんな祭りなんだい?」

「……う〜ん。簡単に言うと、結婚式かな」

「あ、そうなの? だったらめでたいよな。俺は部外者だけど、花嫁さん見たいなあ……」


 蠱惑的な美人揃いのこの里だ。花嫁もさぞ美しい事だろう。


「……うん。そうね。おめでたいよね。ねえ、ジンくんの世界の話、聞きたいな 」


 沈んでいた顔を一転させると、笑いながらフィレットはそう言った。



 迅八は、フィレットに日本での思い出を話した。

 学校の事、スポーツの事、テレビの事、食事の事、幼い頃に見たふるさとの事、そして、妹の事。

 迅八に残る記憶の中で、綺麗な部分(・・・・・)だけを選んで。


 その中でもフィレットはデザートの話を喜んで聞いていた。ふわふわの生クリームが乗っかったショートケーキ、甘くて柔らかな舌触りと苦味のあるカラメルを垂らしたプリン、色とりどりのシロップをたっぷりと掛けたかき氷……。その一つ一つを聞く度に、目を輝かせたり溜息をついたりしてから、ポツリとフィレットは言った。


「……いつか、食べたいなあ」


 それを聞いた迅八は、頭の中の記憶を引き出した。簡単なプリン位のものなら材料さえあれば自分でも作れる。正確にはブリュレのような物だが。


「だったら俺が作ってやるよ。材料さえ揃えられたら多分出来ると思うよ」

「本当に? 約束だよジンくんっ」


 そう言って、フィレットは自分の小指を迅八の小指に絡ませる。

——この世界にも指切りがあるんだろうか。迅八はそう思いつつフィレットを見る。

フィレットのその顔は、本当に可愛らしい年頃の女の子で、迅八はついつい意地悪を言ってしまった。


「けど、いいのかい? デザートは太るんだぜえ」

「…っ!? もう、ジンくんキライ!!」


 そう言って迅八の肩を叩いてくるフィレットと、迅八は笑いあった。そしてひとしきり笑いあった後、迅八は気にしていない感じで切り出した。


「……そういやあさ、その、昼間見た……つーか、目に入っちゃったんだけど、その、ロドさんは恋人なのかい? いや、別にだからどうだとかじゃないんだけど。……喧嘩してるみたいだったから。大丈夫か?」


……へ?

その一文字が、一番フィレットの表情に近かった。そして少し考えるような仕草をした後、ニマァっと笑う。


「ああ見てたの? ここからだったら里は一望できるからね。ロドは兄さんだけど、見られてたんだ。それは別に良いんだけど……。そっかあ。ジンくんは、お姉さんに恋人がいるのか気になっちゃったんだね」


 そんな事を言いながらフィレットは面白がるようにクスクス笑う。さっきまでは歳の事など関係なく笑いあっていたのに、突然自分の事を『お姉さん』などと呼び出した。


「いや、別にそういうんじゃねえし。ただ、こんな時間に俺と一緒にいたら、その、また喧嘩しちゃうかもしれないし……」

「……そっかあ。ジンくんは優しいんだね」


フィレットは、窓の外の月を見ていた。






 そのまま幾らかの時間が流れると、フィレットは唐突に迅八に言った。


「ジンくん。はい 」


 そう言って、自分の太ももをぽんぽんと叩く。


「……え?なに?」

「いいから、早くあたま。ほ〜ら 」


 フィレットは微笑みながら、自分の太ももをぽんぽんと叩いている。


「え。ひざまくら? ……いいよ、なんでそんな、」

「……もう、仕方ないなあ」


フィレットの手が優しく迅八の頭を撫で、そのままそれを自分の太ももの上に招いた。


「い、いいよ。恥ずかしいって」

「……し〜」


 フィレットが口の前で指を立てる。音をたてるな、と言うように。


「けど……」

「……し〜〜……」


 迅八は、仕方なく黙った。



 今、迅八はフィレットのおなかに背中を向けて、膝枕して貰っている。

 なのでフィレットの姿は目に入らないが、頭を載せた太ももの感触や、すぐそばで聞こえるフィレットの吐息に、心臓は途轍もない速度で(はく)を刻んでいた。


 耳に直接感じるむっちりとした感触。

 今日の朝方見てしまったフィレットの体が脳裏に浮かぶ。


(……ヤバっ! これやばいって絶対に)


 フィレットは優しく、汗やホコリでほつれてしまった迅八の髪を、指で丁寧に解きほぐしていた。


「……ジンくん。気にしちゃったんでしょ? 兄さんが、私の恋人かもって」


 少し上でフィレットの甘い忍び笑いが聞こえたが、迅八にはその顔が見えなかった。


「いや、ホント、その、違うっていうか、なんていうか」

「……ふふ。なんていうか?」


 その太ももから伝わる体温は高く、迅八に膝枕されている事実を常に伝えてくる。

 頭を撫でる手は常に優しく、(いた)わるように動いている。


「ねえ、ジンくん」

「な、なに?」

「太ってる子が好きな王子様が出てきてくれなかったら、ジンくん私の事貰ってくれる?」


 その言葉に、迅八の心臓はドキリと跳ね上がった。

……こんなに可愛い少女が自分みたいな見ず知らずの人間に、そんな事を言うはずがない。冗談だとわかっている、わかってはいるのだが。

 いつまでも返事をしない迅八に、フィレットはクスクスと笑いながら言葉を重ねた。


「……だめ? やっぱり、太ってる子はいやかな?」

「いや、そんな事ねえよ!! それに、その、フィレットは、太ってるってのはちょっと違くて、あの、グラマーっていうか、うまく言えないけど、……可愛いよ 」


 フィレットの吐息が迅八の空いている方の耳にかかる。

 そのくすぐるような感触に、思わず身体が震えてしまう。


「……じゃあ、貰ってくれる?」


 フィレットは、迅八のすぐ近くで囁く。

 冗談だとわかってはいても、そんな事恥ずかしくて口には出せない。まだ迅八は、女の子とまともに付き合った事もないのだ。


「いや、それはあれだよ。なんつーか、もう少し、こう、ほら、お互いをよく知ってからって言うか……!」


 当たり障りなくお茶を濁す。その言葉をどう思ったのか、フィレットは、そっかあ……、と言った。


 その言葉はどこか寂しげに聞こえたが、迅八からはフィレットの顔が見えない。


 少しの沈黙が流れた後、フィレットは迅八の顔を上に向けさせ、お互いに見つめ合った。


 ……フィレットの目には、星が映っていた。その星の輝きは、まるでそこからきらきらとこぼれ落ちるように迅八を優しく照らす。

 どうやっても手の届かない星。それが、きらきらと降ってくる。


「ジンくん、……ありがとね」


 すると、フィレットの顔が迅八にゆっくりと近づいてきた。


(ありがとうって、なに? つーか、え?)


 迅八には、ありがとうの意味は判らないし、突然変わっていく事態にその頭は混乱する。


(コレって、キ……)


 フィレットの唇がだんだん近づいてくると、唐突に視界が別の物に(・・・・)塞がれた。


 元々膝枕をしてキスをするのは難しい。そしてフィレットの胸には、たぐいまれなる二つの巨大な武器が付いていた。

 その特大マシュマロボールは、今まさに迅八を窒息させようとしていた。




 ・・・・・・・・・・・・・・・・




 沈黙が流れる。


 しかし、一分を越えるころに、迅八の手がもがき出した。

 苦しいのだろう。しかし、自分の手でそれ(・・)をどけるわけにはいかないし、だったら頭をずらして自分から動けばいいだけなのだが、極上の太ももと胸に挟まれた迅八には、自分の意思でそこから抜け出すことは無理だった。

 しかし、それが二分、そして三分を過ぎる頃には腕が力なく痙攣し。


「ジ、ジンくんっ。大丈夫!?」


 やっと、その極楽の責め苦から解放された。


「こ、殺す気かっっ!?」


 ぜはー、ぜはーっ!

荒い息を吐きながら迅八は言うが、太ももから頭をどける気はないらしい。

 そして迅八の息が整う頃には、どちらからともなく笑い出した。

 二人ともひとしきり笑い終わると、いつしかまた、フィレットは迅八の頭を撫ではじめていた。


——ラララ、ラララ……


 この世界の子守唄なのだろう。優しい韻律(リズム)に乗せられた歌声は、迅八の心に染み渡って行く。


 思えば、この世界で目覚めてから、一時も完全に緊張から解放される事はなかった。

 その歌声は迅八の耳から脳に至り、やがてゆったりとしたまどろみと共に、迅八の上にだけ優しい夜が降りてくる。


 迅八が眠りに落ちる直前に思ったのは、フィレットの事ではなく、妹の事でもなく、まだ幼い頃、正常だった頃(・・・・・・)の母親がよく歌ってくれた、優しい子守唄だった。




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