バルタザール
その昔、ギリシア人に「日の出の民」と呼ばれたバルタザールという男がエチオピアを治めていた。彼は肌が黒いものの、美麗で整った顔立ちをしていた。この男は誠実な魂と寛容な心の持ち主であった。
バルタザールが国を治めるようになって3年、22歳となった彼は領を発ってシバの女王バルキスを朝貢に訪れた。そこには魔術師のセンボビチスと宦官のメンケラが従っていた。彼の車列は75頭のラクダに引かれ、シナモンや没薬、砂金、象牙を積んだ貨車が長々と続いていた。
道中、センボビチスは彼に星占術や、宝石の法力を教えた。メンケラは聖歌を歌いその神秘を聞かせた。王は彼らを少しも気に留めないで、その代わりに砂丘に直立し聴き耳を立てるジャッカルを見て楽しんでいた。
そして、3月になってから12日が過ぎた日のこと。バルタザールはどこからともなく薔薇の芳香が漂ってくるのに気付いた。一体何処から香ってくるのだと考える間もなく、その答えは明らかとなった。薔薇園に囲まれたシバの都が彼らの面前に見えてきたのである。都へ続く道を行けば、路傍のザクロの木の満開の下では踊る少女たちがあった。
「あの舞踊は、祈祷の一種なのですぞ」とセンボビチスが話すと、宦官のメンケラは「あの女どもは良い値で売れるでしょうな」と言うのだった。
市に入った一行は、そこにある家々や倉庫、商店とそこに山積みさえている品物の量に目を丸くした。
じっくり物見しながら、殺到する軽馬車や人夫たち、ロバとその御者らの間を縫って通りを抜けていくと、たちまちその前には大理石の壁がそびえ立つ、紫の天幕と黄金の半球天井の宮殿が現れた。これこそバルキスの王宮であった。
シバの女王は3人を、真珠が雨あられとなって落ちてゆくような音を響かせ芳香を振り撒く噴水のある涼しい庭園へ招き入れた。宝石の散りばめられたローブに身を包む女王は艶然とした微笑みを浮かべ彼らの前に立っていた。これにはバルタザールも初心な少年のような困惑を禁じ得なかった。彼女は彼が夢に見たよりも愛らしく、思い描いたより美しく見えたのであった。
「――王よ」センボビチスは息を吐くよりも小さな声で耳打ちした。
「商業の条約をこちらの有利に締結せねばならぬことを、努々忘れてはなりませぬぞ」
「お気を付けあそばされませ、王よ」メンケラがそれに付け加える。
「あの女は魔術を操り、男をたちまち虜にしてしまうと言うのですよ」
――そう言って、魔術師と年老いた宦官は頭を垂れて部屋を辞した。
バルタザールは一人、女王の前に立った。彼は口を開いたが、如何せん言葉が出て来ない。それが暫く続いたもので、バルタザールは内心に、これほどに情けない無礼があっては女王の怒りも買うだろうと、己を恥じた。
だが、どれほど沈黙が続こうと女王は眉間に皺ひとつ寄せず、それどころか目元に微笑すら湛えている。そうしている内、遂に女王が言葉をかけた。どんな子守唄よりも優しく甘美な響きがバルタザールの耳をくすぐった。
「もっと、此方へいらして下さいまし。妾の傍にお座りなさって…?」
女王はそう言って、早朝の眩い日差しにも似た白く華奢な指で、バルタザールを濃紫の敷布へ導いた。
バルタザールは言われるが儘、女王の傍らに坐るや否や、柔らかな敷布に両の手をついて感嘆の声をあげた。
「女王様、この二つの敷布が二人の蛮勇なる敵であったならば。きっと、私は貴方の為にこの敵の首を討ち取りましょう」
言うが早いか彼の諸手が美しい敷布を乱暴に引き裂くと、中身の羽毛が雪埃のように白く舞った。一枚の小さな羽根が暫く空を漂って、女王の豊かな胸の上に落ちた。
「嗚呼、バルタザール様よ」
女王バルキスは頬を紅潮させて言う。
「どうして貴方様は敵を討とうとして呉れているのです?」
バルタザールはそれに答えて言った。
「貴女を、愛しているから」
「ねえ、教えて下さいまし」バルキスが尋ねた。
「貴方様の国には水の滾々と湧き出る井戸がたくさんあるのでしょう?」
「ありますとも」バルタザールは女王の質問の意図を計りかねながらも答える。
「妾はそれよりも知りたい」バルキスは続けて言った。「エチオペアではどのようにして果実の乾物を作っているのです?」
だが女王の質問に、王は答えることが出来なかった。彼には乾物を作る知識など持ち合わせていなかったのである。
「ね。どうか教えて下さいまし。どうか」そうして女王はしきりに懇願したのであった。
王は必死に記憶を思い返して、エチオピアの調理人たちがマルメロの実を蜂蜜漬けにする方法を女王に説明してみせた。だが女王はそれを聞くのもすぐ飽きてしまったのか、話を中断して次は突然こんなことを言った。
「王よ、貴方様はお隣の国の女王キャンディスにお心を寄せておいでとか。ではそのお方は妾より美しいのですか? ね、正直に申し上げて下さいまし」
「美しいかですって、貴方よりも? ああ女王よ!」バルタザールは女王の足にひれ伏すように嘆いて言った。
「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」
「本当に? じゃあ……彼女の目はどうかしら? 口は? 肌は? 首は?」バルキスは続けた。
バルタザールは女王へ両腕を捧げて叫んだ。
「どうか貴女の胸の上の小さな羽根を私にお与えください。その為でしたら、我が国の富の半分、それから賢いセムボビチスと宦官のメンケラだって差し上げましょう!」
しかし、女王は立ち上がるとクスクスと冷たい微笑を点々と零しながら逃げて行ってしまった。魔術師と宦官の二人が戻ってきたとき、王は彼らしくもない物憂い様子で瞑想に耽っていた。
「我が王よ!」セムボビチスが言った。
「して、商業条約は上手く纏まりましたかな?」
あくる日、バルタザールはシバの女王と会食しシュロの木の果実酒を飲んでいた。
「それで――」バルキスは彼らと同じく杯に口を付けながら言った。
「本当にキャンディス女王は私ほど美しくないと仰せになるの?」
「彼女は黒人だ」バルタザールが答えた。
バルキスは意味ありげにバルタザールを見た。
「黒いからって、見目が悪いということにはなりませんわ」
「バルキス!」王が苛立たしそうに、というのも自らの思いのたけを伝えられない自分自身に対してであるが、いくらかの嘆きで潤んだ苛立たしさを声に上げ叫んだ。
だがバルタザールはこれ以上を言わず、ただ女王を両腕で掴んで振り向かせた。そして後ろから、彼女の頭を下に組み敷くように唇を交わした。しかし若き王はこの女王の頬を伝う涙を見てしまった。彼はハッとすると、子を優しくあやす育て親のような、低くゆったりした声で語りかけた。彼は女王を「我が愛しの花」と、「我が頭上の小さな星」と呼んだ。
「どうして泣いているのです」彼は尋ねる。
「何が貴女の涙を乾かしてくれるというのです? 貴女が強く望むものを私にお聞かせ願えるのならば、きっとそれを叶えて差し上げよう」
女王は泣きやんだものの、そのまま深く物思いに沈んだ。王はそれからずっと懇願して女王の望むものを聞こうとし、ついに彼女が言ったのはこんな言葉であった。
「妾は、どうやっても怖いと思うものが知れないのです」
そうして、女王が未知なる危険なものをどれほど切望したか、彼女を見守る臣下やシバの神々の加護によってそれが叶わなかったかを語ったのだが、いくら説明してもバルタザールには伝わらなかったようだった。
「そして、ずっと」彼女はため息と共に付け加えた。
「夜の間もずっと私は、素晴らしく冷たい恐怖が心に忍び寄って来るのを待ち焦がれているのです。髪の毛を逆立たせるほどの、身の毛もよだつと云う恐ろしさを。おお! そんな恐怖に苛まれるなんてことがあれば、一体どれほどに楽しいものなのかしら!」
彼女は王の浅黒い首に細い腕を絡ませて、その強欲を子供のように訴えた。
「もうすぐ夜ですわ。ね、下賤の格好で街を歩いてみましょうよ。貴方様は、怖気づいたりしないでしょう?」
バルタザールは当然その趣向に乗った。すると女王は窓に駆け寄って、格子から眼下の街の一画を見下ろした。
「ほら、あそこに乞食が宮殿の壁に寄り掛かっているわ。あれに貴方様の衣装を与えて、それと交換にあの男の駱駝の毛のターバンと粗末な腰巻を貰ってきて下さいまし。私は、こちらで急いで着替えて参りますわ」
そう言って彼女は楽しそうに両手を叩きながら、会食の間から出て行ってしまった。言われた通りに、バルタザールは金字の刺繍が入った亜麻布の衣を脱ぎ与え、代わりに乞食の腰巻を身に付けると、彼は一見奴隷とまったく変わらない見た目になってしまった。そこへ早々、農民の娘が着るような紺の服を纏った女王が現れて、「さあ!」とバルタサールを急いた。彼女は細い回廊を通り抜け、バルタザールを引き連れ外へ出る裏口へ向かった。
夜は一筋の光明も残していなかった。その深い闇の懐で胎児のように漂うバルキスは、とても小さく見えた。彼女はバルタザールを連れて、ならず者達や出自も分からないような人夫達が商売女とたむろしている酒場に入った。貧相な服に身を包んだ高貴なる二人は近くのテーブルに腰を下ろした。何かの動物の脂を固めた蝋燭の火に焙られて悪臭を漂わせながらも満ちる光によって、空中を舞う膨大な量の埃を見てとれる。周囲では、汚らしい獣じみた男達が女や一杯の発酵酒を物にしようと、拳やナイフで争い合っていた。その他の連中は拳を固く丸めてテーブルの下でいびきを掻いている。酒場の主人は積まれた麻袋の山の上に横たわり、酔っ払いどもの喧嘩を用心深そうな目で眺めていた。バルキスは天井の垂木から吊下がっている塩漬けの干し魚を見ていて、それから連れにこう言った。
「このお魚を摺り下ろした葫と一緒に食べたいわ」
バルタザールは女王の食指が動いたところを与えるのにやぶさかではない。だが、女王が食事を終えたところで彼は銭貨の一枚も持って来ていないのに気付いた。バルタザールはその問題をくよくよ考えることなく、まずはここから女王を連れ会計を済まさずに密かに立ち去る算段をたてた。しかし、その企みはすぐに見破られてしまった。
ターバンを被った扉番が彼らの前に立ちはだかり、性質の悪い用心棒やならず者を呼び寄せた。もはや選択の余地もなく、バルタザールは拳を空に唸らせ面前の男を地面に殴り倒す。そうなるや否や血の気の多い何人かの酔っ払いは一斉にナイフを煌めかせ、ここらでは見かけない顔の連れ合い客を脅かした。
だが勇猛な黒人バルタザールはそこらに立て掛けてあった埃及葱を潰す為の大きな棍棒を掴み、たちまち二人の暴漢を打倒すと、あとの者は尻込みして容易に手は出せなくなった。
バルタザールは己の背中へ怯えて寄り添うバルキスの体温を肌に感じている限り、彼に勝る敵は居なかったのである。
扉番の取り巻き達はもう勢い勇んでかかって行くことはしなかったが、酒場の隅から油壺やしろめ製の杯、火の点いたランプ、さらには銅製の大釜を羊のシチュー入りのままでバルタザールへ投げつけた。その大釜がバルタザールの頭に当たったらしく、耳障りな大きな音をたてた。頭を割られたバルタザールは暫し朦朧としていたが、あらん限りの力を奮い起してその大釜を投げ返した。
投げつけられた金属の釜の衝撃で筆舌に尽くしがたい唸り声と、阿鼻叫喚の死前喘鳴がない交ぜに響いた。仲間の惨状に茫然とする荒くれどもの隙に乗じて、バルタザールはバルキスが傷つけられることを恐れて彼女を掻き抱いて静まりかえる寂れた暗い通りに逃げだした。
密やかに夜の帳を落とした大地で、逃亡する二人の耳にしつこく聞こえていた女や酔っ払いの狂乱は闇の中に次第に遠のいていった。そのうち、彼らに聞こえるのはバルタザールの額から垂れバルキスの胸に滴り落ちる血の音の他に無くなっていた。
「恐ろしかったですわ…。とっても」
女王は王にすがって唇をかすかに震わせ、囁いた。
暗雲の切れ目から覗いた月の明かりで、濡れて輝く澄んだ瞳がまどろむ様な女王を、バルタザールは見つめた。そのまま二人は枯れた小川を下って行く。
不意に、バルタザールが苔に足を取られて二人かたく抱き合ったまま倒れ込んだ。それは最愛の人と溶け合いながら永遠の虚空に落ちていくようで、世界の中からこの二人だけが存在しなくなるような感覚であった。
夜が明けて、岩間にガゼルが水を飲みに来たときでも、二人はまだ幻惑的な世界にどっぷりと浸かって時間を忘れ、場所も、他の何者かの存在も忘れていた。そこにやがて山賊たちの一団がやって来て苔の上に横たわる二人の恋人たちを見つけた。
「おや可哀そうな乞食の恋人だ」山賊たちは冷やかして言った。
「しかし、こいつらは若くて器量も飛びきりだ。さぞ高値で売れるだろうよ」
山賊たちはたちまち二人を取り囲み縄で縛ってロバに結んで連れて行った。黒人バルタザールは息巻いて山賊に殺すぞと脅しをかけた。一方でバルキスは新鮮な朝の空気の冷たさに震えながらも、ただ見えない何かへ向けるような微笑を浮かべていた。
荒涼とした野をどんどん進むと、何時しか一行は頭上から降り注ぐ日差しに暑さを感じた。日は既に高く、山賊たちは捕虜を岩陰に座らせ、カビ臭いパンを投げ与えた。
バルタザールは頑としてそれに手をつけようとしなかったが、バルキスは空腹に耐えかねていたように、がつがつとそれを食べてしまった。そして彼女は屈託の無い笑い声をあげた。山賊の首領は彼女にどうして笑うのか尋ねると、
「私が兵士に命令して、貴方達がみんな絞首刑にしようと考えていたのです」と答えた。
首領は「まさか!」と嘲笑しながら叫んだ。
「そんな子供でも信じない嘘より他に言葉が出ないのは馬鹿な給仕女の口ゆえだ。なあ、お前さん! それならそこの勇敢な黒ん坊の奴隷に俺らの首を絞めてやれって云えばよかろうよ?」
この侮辱にバルタザールは烈火のごとく怒り狂い、憤怒の渦に身を任せた。山賊に飛びかかり、その首を乱暴に掴むと万力のように締め上げる。別の山賊がナイフを抜き、バルタザールの体へ柄まで刃を刺し込んだ。哀れ王は倒れ込み、かすむ視界の中にバルキスを最後に見たのだった。
ちょうどその時、馬の嘶きと剣を煌かせた男たちの雄雄しき叫び声が聞こえた。バルキスはその男たちの中に、女王の護衛隊長であるアブナーの姿を認めた。この男は女王の行方が分からなくなったあの晩からずっと捜索を続けていたのである。
彼は三度バルキスの足元にひれ伏し、女王の座るためだけに用意した敷布を部下に命じて持ってこさせた。その合間に護衛たちは山賊どもの手を縛り上げてしまったのである。シバの女王はクルリと振り返って、山賊の首領に優しく言った。
「私はお前を絞首刑にすると言ったけれど、それを愚かな戯言だと笑えるかしら?」
アブナーの隣に立っていた魔術師のセムボチスと宦官のメンケラは、地に倒れている王とその腹に突き立てられたナイフを見て大きな悲鳴を上げた。彼らは注意深く王の体を起こした。セムボビチスは医学にも造詣が深かったのである。未だ昏倒している王を診てその傷へ応急の包帯を巻いた。メンケラは口の血を拭った。そして彼らは慎重に王を馬に括りつけ女王の宮殿へ運んだのである。
バルタザールは15日もの間、熱にうなされ苦しみ、煮えたぎった大釜だとか渓流の苔だとか、そのようなうわ言を言い続けたが、取り分け頻りに大声でバルキスを呼んでいた。16日目にようやく彼は目を開けた。王の傍にはセムボビチスとメンケラが居たが、そこに女王の姿はなかった。
「彼女はどこだ? 彼女はどうしている?」
「王よ」メンケラが口を開いて答えた。
「女王はコマゲイナの王と密談中で御座います」
「きっと彼の国は女王との商談を上手く纏めるでしょうな」セムボビチスは付け加えて言った。
「気をお鎮め下さい、王よ。また熱が上がりまするぞ」
「バルキスに会うのだ」バルタザールは叫んだ。
そう言うが早いかセムボビチスとメンケラが制止する暇もなく女王の部屋に飛んでいく。寝室へ近づいて行くと、彼の目にコマゲイナの王が来ているのが見えた。この王は黄金を纏って太陽のように輝いていた。
バルキスはそこで絢爛な寝椅子に身を横たえ、笑って目を閉じている。「バルキス、バルキス!」バルタザールは叫んだが、彼女はそちらへは顔さえ向けずに、ただ夢心地のような顔でいた。バルタザールは駆け寄って女王の手を取ったが、バルキスはにべなく手を払ってしまった。
「どうしたと云うのです?」彼女は冷たく言った。
「それを、貴女はそれを尋ねるのか?」バルタザールはそう言うと滂沱の涙を流した。
バルキスは彼を静かな目で見やった。そこに、バルキスがいつか枯れた川底で見せていた瞳が、瞳に映った自身の姿が無いことに気付いた。バルタザールはあの夜のことを思い出させようと言い縋った。
「王よ、貴方様が言うようには妾は貴方様のことを知らなくってよ。きっとシェロの果実酒で悪酔いでもしたのでしょう。すべては夢だったのですわ」
「何だと」不幸な王は叫んで、爪が食い込むほど自分の両拳を強く握り込んだ。
「貴女の接吻も、あのナイフが私の左脇に残したこの傷も、みんな夢だと言うのですか?」
バルキスが物憂げに起き上がると、ローブの宝石が無数の雹の落ちるような音をたてて刹那、稲光の如き耀きを放った。
「評議会の招集の時間が来てしまいましたわ。貴方様の弱った頭が見せた幻想を理解して差し上げるだけの時間は御座いません。体をお大事に。では御機嫌よう」
バルタザールはこれまで自分が彼女へ捧げた尽力の分だけ気持ちが失墜していくのを感じた。せめてこの女に自分の弱ったところを見られぬよう、バルタザールは屈辱に耐えながら先ほどまで怪我に臥していた部屋へ駆けて行った。部屋へ戻ったところで腹の傷が開き、彼はそのまま卒倒したのである。
3週間、彼は死んだように眠り続けた。22日目にようやく意識を取り戻し、その間彼を見守ってくれていたセムボビチスとメンケラの手を固く握って泣きに泣いた。
「おお、友よ。お前は幸せだ。一人は老いて、もう一人も同じくらいに老いている。だが、どうだ! この世に幸せなんてあろうものか、あるのは悪い事ばかりだ。愛が不遇であったばかりか、バルキスは妖婦そのものなのだ」
「幸せは賢明さによって賜ることが出来るのです」セムボビチスは答えた。
「その通りかも知れぬ」バルタザールは言った。
「だがまずは一度、エチオピアへ戻ろう」
こうして彼はこれまでの恋もこれから恋もすべて終わらせ、学に身を捧げやがては魔術師となるべく決心をした。この決心はバルタザールへ特別楽しみを与えた訳ではないが、少なくともこれで落ち着きを取り戻した。
夕暮れになると、三人はバルタザールの王宮のテラスに座った。バルタザールは地平線の反対に影を射した椰子の木が無風の中に佇んでいるのをじっと見たり、ナイルの川面に木の幹が浮かぶように漂うクロコダイルの群れを、月明かりに眺めたりした。
「ナイルの美しさには飽いて退屈することがありませんな」セムボビチスはしみじみ言った。
「されど、此の世には椰子の木やクロコダイルの他にももっと美しいものがある」バルタザールがそう言ったのは、バルキスを考えていた為らしかった。
しかし、老いたセムボビチスは言った。
「勿論、ナイル川は氾濫も致しましょう。それはいつか私は説明しましたな。ですが人は理解する為に創られたのです」
「…人は愛する為に創られたのだ」バルタザールは嘆息した。
「解することなど出来ぬものが、あるのだ」
「そのようなものがありましょうか?」
「女の心変わりだ」王は答えた。
それでもバルタザールは魔術師になる決心は変わらなかったのである。
山の頂きに建てた、周囲の国々や無限の天上が見渡せる塔があった。塔は積み上げられた煉瓦とそこに絡まる薔薇のツタと花によって高く聳えていた。完成してから2年と経っていないこの塔は、先代の王の財宝まですべて費やして建てられたものであった。毎夜彼はこの塔の頂上へ登り、占星術をセムボビチスから学んだ。
「星座は我々の運命をあらわしております」
「そうかも知れぬが、その御告げが明確だった試しはないな。まあ、これを学ぶ合間はバルキスのことを忘れていられる」セムボビチスの言葉に王は苦々しげにこう答えた。
セムボビチスは数ある真理のうち特に知るべきものとして、魔術師は空へ半円に広がる天球の星は鋲のように固定されていること、5つの惑星でベル・メロダク・ネボは男性格、シン・ミリッタが女性格であると教えた。
「銀はシンに相当して、それが即ち月であります。鉄はメロダク、錫はベルです」セムボビチスが更に教鞭を振うと、賢明なるバルタザールは答えた。
「叡智は偉大なるかな。それの知るところを得たいものだ。占星術を学ぶ間はバルキスのことも、他のどんなことも考えるに値わないように思えた。学問は人を考えさせない点で何より慈悲深い。私に叡智を授けてくれセムボビチスよ。学問は人のあらゆる感情に打ち勝てる。そうしたあかつきには、きっとお前の名声がこの国の人間に高く聞こえることだろう」こうして以後、セムボビチスは王へ知識を授けていったのだった。
彼はアストランフィコスやゴブリヤス、パザタスの原理に従った魔術の力を王に教えた。さらにバルタザールは黄道十二宮の室を学んだ。
彼はこれっぽっちもバルキスのことを考えなくなった。用心深いメンケラはこれに事のほか喜んだ。
「知っておりますか我が王よ。女王バルキスは黄金のローブの下に小さな蹄のある足を隠しているのですぞ」
「誰がそのような莫迦げたことを申したのだ?」王は尋ねた。
「王よ。これはシバでもエチオピアでも言われております」宦官が答える。
「曰く、女王バルキスは毛むくじゃらの脛に、足には二本の黒い蹄があるそうで御座います」
バルタザールもそれには肩を怒らせた。彼はバルキスの脚が人間の女と変わらないこと、そしてそれが完璧な美しさを体現していることを知っていた。それにも関らず、大衆の下らない流言によって彼がこの上なく愛したバルキスの姿に泥を塗られたように感じたのである。
バルキスの美しさについて何一つ知らない人々が、彼女の美に何かしらの欠陥を想像しようとすることで彼女が傷ものになってしまったような不快があった。実際彼女が完璧な姿であったにしても、一時は自分が夢中になった女性がそのように奇怪な姿だと言い触らされていると、バルタザールは余りの嫌悪感で、もうバルキスになど会いたくもないという念に駆られるのである。
彼は単純な魂の持主であったが、愛はこの男には扱いかねるほど強く複雑なものであったのである。
日は過ぎ、王は魔術と占星術の多くを学んだ。巨大な星の合や朔を学び、天宮図の正確さではセムボビチスと肩を並べるほどになっていたのである。あるとき王は尋ねた。
「セムボビチス。私の占星術は一体どれほど物になっただろうか。お前の明晰な頭脳で正直に答えてくれまいか」
「我が王よ。学問は確実なものでありましょう。しかし、学者は時として誤るものであります」バルタザールは偉大な自然による託宣を賜っていた。
彼は言った。「唯一の真実と云うのは神聖であるもので、神聖なものは我々の目から隠されているものだ。我々はいたずらに真実というものを探ろうとする。それでもなお、私は空に新たな星を見出した。美しい星で、まるで生きているようだった。その星が煌いたときは、まるで天使の瞳が優しく耀いたようであった。私はそこで、その星が私に呼びかけているのが聞こえたような気がしたのだ。『幸あれ、幸あれ、星の下に産まれし児に幸あれ』と。見よ、セムボビチスよ。何と可愛らしく、きらめく星であろう」
しかし、セムボビチスはその星を見ようともしなかった。彼が敢えてそれを見ようとは思わなかったかららしい。老いたる賢人は真新しい珍奇なものを好まないのである。夜の静寂の中でバルタザールは一人呟いた。
「幸あれ、星の下に産まれし児らよ」
バルタザールとバルキスの恋愛が完全に終結したとの噂はエチオピア全土から隣国にまで広まった。その噂がシバの国に届いたとき、バルキスはまるで彼女が謀られていたかのように腹を立てた。
彼女はシバの国で、自分の国のことも忘れて怠惰な客人となっていたコマゲイナの王の許へ走った。
「親しき王よ」彼女は泣きついた。
「妾のことをお聴きになりまして? バルタザールはもう妾を愛していないと云うのです!」
「それがどうしたのだ」コマゲイナの王は言った。
「我々は愛し合っているのだから、それで良いではないか」
「ですけれども、妾があのような黒奴に侮辱されて貴方様は何も思われないのですか?」
「――いや」コマゲイナの王は言った。
「お前は何故そうまで言うのだ。何の不満があって――」
バルキスは散々この王を罵った挙句に目の前から追い出してしまった。又それと同時に、高官に命じてエチオピアへの旅路の支度をさせた。
「今晩中にエチオピアへ出発します。日没までに準備が出来ていないようでしたら、貴方の首を斬ってしまいますから」
しかし一人になると、女王はさめざめと泣き始めたのである。
「妾はあの男を愛していたのに! 彼はもう妾を愛しておらぬ。それでも、妾はあの男を愛している」バルキスは嘆息に胸の内を吐露したのだった。
ある夜、バルタザールが塔で空を眺めていると、不思議な星が現れた。彼はその目を地へ向けた。見れば砂漠の果てまで黒々と曲がりくねった曲線が蟻の行列のように続いている。少しずつ蟻のように見えた列が大きくなって、それが馬や駱駝や象であるのが王の目にも見て取れるほどになった。
その旅団が街へ近づいて来ると、バルタザールはそこに黒馬に跨り煌く三日月刀を携えたシバの女王の護衛兵士たちの姿を認め、さらに女王がそこに居るのさえ見てしまった。
バルタザールは酷く動揺した。彼はバルキスと再開すれば、きっとまたあの時のように彼女を愛してしまうと直感めいた予感が自明の理のようにその体を貫いたのである。天上では星が眩い光輝を放っている。地上の砂漠には黄金と紫であしらわれた御簾の上で、バルキスが明朝の星の如く微笑しているのが見えた。バルタザールは抗いがたい恐ろしい力によって彼女の中心へ引き込まれていくのを感じた。それでも、彼は半ば自棄に顔を背け、再び星を見上げた。すると星が王へ向けてこう話しかけてきた。
「天上の創造主にこそ栄光あれ。地上の迷える羊達に神のお導きを! 王、バルタザールよ。没薬を取りて我に続け。驢馬と牝牛の間に馬屋で産まれし児へ汝を導かん。その児はやがて王の中の王となり、求める者たちに救済を施すであろう。主は汝を彼の児へ遣わしめた。おお、バルタザールよ。汝の魂はその顔と同じほどに黒い。しかし、彼の児の魂は穢れの無い。主が汝を選び給わったのは汝のその苦悩ゆえである。主は汝に富と幸福と、愛をお与えになるだろう。主は汝へ仰られた。『貧しきものは幸なり。持たざることに真の富あり。諦念にこそ幸福なり。我を愛し、他を愛するなかれ。唯一我のみ愛を知ればこそ』」
それらの言葉は付き従った神聖な厳粛さと共に光の洪水のようにバルタザールの黒い顔へ降り注いだ。彼は感極まって星の声に耳を傾けた。バルタザールは自身が生まれ変わったのを感じた。彼の傍らに平伏したセムボビチスとメンケラの表情はあまりの感動に石のように固まっていた。
バルキスの女王はバルタザールを見ていた。そして、主への愛に満たされた彼の心に、彼女の愛が入り込む余地のない事をはっきりと悟ったのである。バルキスは怒りに顔面蒼白となって、旅団にシバの国へ戻るよう命令した。
やがて星は塔に居るバルタザールと畏まる家臣へ御告げを授けて消えていった。すぐに彼らは没薬を用意し、星の導く方角へとキャラバンを出発させた。
彼らは長い旅路に見知らぬ国々を過ぎた。星は常に彼らの前を照らしていた。ある日、彼らは三つの道が交差する地で多くの家臣を引き連れた二人の王と出会った。一人は若く、整った顔立ちをしていた。この王はバルタザールを迎えてこう言った。
「私の名はガスパアといいます。ベツレヘムというユダヤ人に産まれた児へ金を持ってゆく所なのですよ」
二人目の王が代わって進み出た。彼は老人で、白い顎鬚は胸まで覆っていた。
「我が名はメルキオル。人類を真理へ導く聖なる児へ、乳香を届けに行く途中である」
二人の王との謁見の最後にバルタザールが口を開いた。
「私は貴公らを導く役目を負っている。私は己の色欲に打ち勝った。そしてそれをご覧になった主が、天の使いに私への言伝を託したのだ」
メルキオルは言った。「我は己の高慢を打ち払った。それ故、主は我を呼ばれたのであろう」
次にガスパアが話し始めた。「私は自分の残虐さを心改めました。それが貴君と共にゆく理由でしょう」
こうして3人の賢人たちは、旅路を共にすることとなった。東の空に輝いて彼らを導いた星を辿り、ついに彼の児のまどろむ家まで至った。星がその家の真上でジッと輝くのを見て、彼らは大いに喜んだ。
その家に入ると、彼の児と、それを抱くマリアがあった。三人の賢人は平伏し、彼の児を祝福した。そしてそれぞれ持参した黄金と乳香と没薬を納めた。
これが福音書に記されるところである。