長屋暮らし
「お帰り」
自宅前に近づくと、植木に水をやっている隣の住人が声を掛けてきた。
隣人は退職した六十がらみの老人で、にこやかな笑みで学生を出迎えてくれる。学生は「あ、どうも」と口の中で返事をして、軽い足取りで自分の部屋の前の入口に近づいた。
向かい合わせに、十軒の部屋が連なっている長屋である。
最近の流行で、学生や、挨拶を掛けてきた老人のような独身者の住居は、江戸時代の長屋を模した構造になっているのだ。
もちろん、水洗設備やエアコンは完備されているから、暮らしは快適である。
大体において、人々の暮らしは懐古趣味に染められていた。学生の暮らす現代風長屋もそうだし、気軽に声を掛け合う習慣もそうだ。昔の暮らしを再現しようと、人々は細心の注意を払って暮らしていた。
老人が熱心に世話をしているのは万年青という植物で、向かい側では朝顔を世話している。江戸時代では大衆は色々な植物を育て、変わった形になると、高額で取り引きされることもあったという。
もっとも、知識を仕入れる先は、所謂“時代劇”で、プロの時代考証家に言わせると、間違いだらけで見ていられないと文句をつけてくるが。
見上げる空には巨大なビルがにょきにょきと立ち並んでいるが、なるべく昔の景観を取り戻そうと、デザインは和風の味付けがなされていた。木目を思わす塗装に、屋根瓦に似た上部構造。ちょっと見ただけでは本物の和式建築なのか、新素材を利用した新しい建築なのか、見分けがつかないほどだ。
がらがらと引き戸を開け、三和土にスニーカーを揃えて置くと、四畳半の部屋に上がりこむ。漆喰の壁に古びた木材の和風建築。古びているのは見かけだけで、本当は新素材をふんだんに使用した、新築物件である。
エアコンなどは目立つ場所にはなく、巧みに木目を利用して送風口があるから、一目ちらっと見た程度では判らない。
屋根瓦は太陽光発電装置を兼ねていて、個人の住居には充分な電力を供給できる。