#23 白い百合に願いを
蓮が安静を言い渡された一週間はあっという間に過ぎて、その後の検査でも異常はなく、晴れて自由の身となり律はほっとした。家出騒ぎ──なのか、逃走劇か──の後、数日間だけ蓮の様子はぎこちなかったが、揶揄いこそするものの誰も蓮を責めなかったのもあってか、安静中の一週間のうちに普段の調子に戻っていた。ただ、ひとつだけ蓮には不満が残った。週末の朝稽古で許可が出るまで先制を封じられたのだ。手合わせの際に癖で先制攻撃をしてしまった場合、稽古後の道場の床掃除がペナルティ。
「りーつー……先制禁止とかもうキッツイんだけどー!」
二週目の朝稽古の後、蓮は勢いよくモップを手に走り回りながら文句を言ってきた。
「んー、それはさあ、蓮の自業自得? だよね。間が悪かったとはいえさ。ちゃんと反撃も防御もできるのにしなかったから。あー。あと、蓮ってさ、手合わせだと先制取って相手を自分のペースに巻き込むじゃん。だから、みんなからしたら先制禁止にしないと、蓮に反撃と防御を叩き込めないって言うか……」
ペナルティの床掃除中の蓮に向かって律は考えながら返事した。掃除中の蓮の邪魔にならないよう、律は道場の入り口のところで戸口に背を預けている。蓮が早く掃除を終わらそうとモップがけをしながら「ええー!」と抗議を示した。
「僕はあまりそういうのわかんないけど、何度もそういう条件でやってたら体が覚えるっていうじゃん。付け焼刃かもしんないけど、蓮に同じ目にあってほしくないんだよ」
「……」
基礎の部分だけ習得した後は向いていないからとやめてしまった律に言われた蓮は無言になった。優劣の問題ではなく、そもそも先制を封じられた理由を蓮自身も自覚しているからだろう。
なにも考えてなかった、と父に説教された時に答えた言葉は間違いなく蓮の本心だ。それだけ自暴自棄になった蓮には危害に対する防御も反撃も無意味になってしまうことが既に立証済みなのだから、先制を封じて反撃と防御を叩き込もうとしているのだろう。元々、運動神経も反射神経も優れていて飲み込みが早かった分、ここまでゲームのように得意な部分だけを楽しむように伸ばしてきた蓮が不服に感じるのは仕方ない。
「じゃあさ、蓮。僕と一本やってみる?」
ふと律が思いついて言うと、モップを掛けて走り回っていた蓮がぴたりと止まった。
「は? マジ言ってんの?」
「嘘ついてどうすんの」
「律が?」
「久しぶりだけど。いいよ、先制禁止なしで」
何年ぶりかな、などと律が考えていると、蓮は信じられないという顔をしてきた。蓮はわかりやすい。
道場の戸口から背中を離し、律は靴下だけ脱いで道場の真ん中へと進んでいった。さすがに素足でないと板張りの道場では滑ってしまう。律は伸びをしながら素足で道場の板張りの感覚を確かめた。モップがけをしてすぐで、素足ならば問題ない。
「蓮。やんないの?」
「俺さー、律のこと殴りたくないんだけど。あ、蹴りたくもないかんな?」
モップの柄に顎を乗せた蓮は気が乗らなそうだ。確かに蓮が家を出た理由も〝律を殴ったかもしれない〟という疑心暗鬼が大元であるから無理もない。だが、蓮が律のことを抵抗しないまま殴られる相手だと思い込んでいるのならば、律にとってはちょうどよくもあった。
「じゃさ、賭けしよ。負けたらなんでも言うこときく。どう?」
くすりと律は笑う。
「レバニラとホルモン食う?」
「それはちょっと、かなり嫌だけど。僕が負けたら、ね」
なんでも言うことをきく、と言っているのに要求が随分と低いんだなと律は笑った。ぽい、と持っていたモップを放り投げた蓮が律の方へと歩み寄ってきた。かたん、と板張りの道場にモップが倒れた音がやけに響く。
向かい合うと、蓮の目つきは真剣になっていた。一瞬の無言。それから、礼。頭を上げるともう油断はできない。蓮の体幹が揺らいで重心を低く取ろうとする。拳と蹴り、どちらかは五分。蓮の気分次第。瞬発でどちらでも選択できるように沈み込む。けれど、律はそれをずっと見てきた。
す、と逆手を蓮の首筋に当てる。それだけだ。
「蓮? まだなにもしてないよ」
ぴたりと手刀を首筋に当てたまま、律は静かに言った。蓮は攻撃態勢に入る前に動けなくなっている。
「……え? マジ? なんで? これ、もう俺詰みじゃん」
さすがになにも言わなくても蓮には伝わったらしい。律が手刀をそのまま落としていれば、蓮は拳も蹴りも繰り出す前に倒れていた。
「さて、と。なに言うこときいてもらおっかな」
「待って、律! いまのなに?」
「蓮にしかできないよ。僕なんて基礎しかやってないもん。でも、蓮の動きはちゃんと見てたから癖はわかる」
簡単な種明かしをすると、律は首筋に当てた手刀を引いた。動作と的確な急所の見定め、無駄のない動きと正確ささえあれば律でも蓮の動きを止めることくらいはできる。ただし、できるのはそこまでで身体的な動きとして手刀を最小限の威力で落とすことが可能かは別だが、律の目的は蓮を倒すことではない。
「だからさ、もし蓮が僕に手を上げたとしても平気だよ」
一分もしない勝負の緊張感を捨てて、律は笑う。蓮はまだ固まったまま動かない。なにかとんでもなく信じられないものにでも会ったかのような顔をしている。
「蓮。ねえ、れーん?」
律がしゃがみこんで蓮を覗き込むと、蓮はぱちりと瞬きをした。
「律、怖っ!!」
べたっと蓮は後ろに尻もちをつくと、修治に対して言う時と同じトーンの声で言われた。
*****
夏休みも終わりに差し掛かったお盆。迎え盆の日、黒瀬家は少しだけ静かになる。
朝のうちに二つの仏壇の掃除をし、午後は手配していた花を受け取り、墓参りに行く。律の母、澪と、蓮の母、沙世の墓は霊園の同じ区画内に建てられている。緑が近くにある日当たりのいい区画は、いつだったか修治にいい場所だったからと移したと聞いた覚えがある。
霊園の設備のバケツに水を汲み、雑巾を借り、墓所まで向かう間、律は供える花を持たされていた。父が澪と沙世の墓に供える花は通常の仏花ではなく、いつも白い百合だ。しかも両手に抱えて余るほどたくさんの。それが父なりの二人の女性への変わらない愛情表現なのだろう。修治は父のことをいまだに母を引きずっているというが、蓮の母と律の母に差をつけることはない。実際に愛人関係ではなかったとしても。
抱えた百合の花の香りにむせ返りそうになりながら墓所につくと、つい数か月前に墓参してから多少は荒れているはずなのに二つの墓は枯れた花もなくきれいだった。その理由も、律は知っている。父は二人の月命日に欠かさず手を合わせに来ているのだ。誰もわざわざそれを言わない。ただ、夕方帰ってくる父に毎月決まった二日だけ、百合の残り香が微かに香る。
墓所にはもう随分と年季の入った黒瀬家の墓と、比較すると新しい相良家の墓。区画の広さの関係か、蓮の母の墓は黒瀬家の墓よりもコンパクトになっている。
「さて、澪も沙世も帰ってくる前にべっぴんにしたろな」
父はまるで生きている女性にでも話しかけるようにそんなことを言う。
余分に持ってきていたバケツに供える百合を挿し、三人がかりでの墓掃除が始まる。父は墓石を磨きながら、近況報告のような独り言を言う。その癖が移ったのか、蓮も同じようなことをする。母の記憶を持たない律は二人を邪魔しないように、風で拭きだまったゴミを掃除し、白い玉砂利の間から生えてきている雑草を抜いていた。
誰かを失ったら、自分もそんな風に話しかけるようになるだろうか。
夏の午後の炎天下の下で雑草を抜きながら、律はぼんやりと考えた。──あの時、蓮が無事でなかったら? そうしたら、どうなっていただろう。
そう考えただけで律は怖いと思う。父や蓮のように、穏やかに墓標に語り掛けられるようになるまでどれだけの時間が必要だろう。そんな穏やかな顔をできる日は来ないのではないか。忘れられなくて、心の内側の思い出だけに届かない声を向けて、普通になんて生きていられない。いま律が墓参りに対してなにも実感を持てないのは母の記憶も、もちろん蓮の母の記憶も持たないからだ。失ったという本当の経験が律には欠けている。
「律! 草抜き終わったんやろ。お前も澪と沙世きれいにしたれ」
玉砂利の上にしゃがみこんだままぼんやりしていると、父に呼ばれそれまで使っていた雑巾を渡された。
いつも父は同じことを言う。律には全く記憶にない母と、更に縁遠い蓮の母だというのに。
それでも律は受け取った雑巾で古い墓石をこしこしと磨いた。それは習慣に近い行為で、律には父や蓮のように墓石を磨いてきれいにしながら浮かぶ言葉も、いままではなかった。無感情ではなく、実母にも蓮の母にもどんな言葉を投げたらいいのかわからなかったのだ。母と言う存在が律には曖昧過ぎる。
しかし、今日は──
「……あのさ、初めて好きな人、できたよ……」
律は晴れた空に吸い込まれてしまいそうな小さな声でぽつりと初めて母に報告した。父になど、そんなことは口が裂けても言えなく、修治にはあっさりと見抜かれてしまったが、どうしてか写真と時折話に聞く程度の母にそのことを告げたいと思った。言ってしまうと律は急に恥ずかしくなり、踵を返して蓮の母の墓の前で再び墓石をこしこしと磨いた。そしてこちらにも、
「……ありがとう」
と短い言葉をかけた。
父と蓮は揃って律が掃除した後のゴミを捨てに行っていて、一人でよかったと思う。いまの言葉は、恐らく父と蓮がいたら出てこなかった。律はしばらく無言で墓石を磨き、一つ息をつくと、雑巾をバケツの縁に掛け、別のバケツに挿していた百合を八等分に分けながら二人が戻ってくるのを待った。花屋の店主は父が墓前に白い百合ばかり供えるのを知って、茎は短く切りそろえられている。
両手に抱えるほどの百合は四等分にしても墓標の花挿しには多すぎ、追加の花挿しがいつも二つずつ置いてある。父と蓮はその花挿しをゴミを捨てるついでに洗いに行っているはずだ。それから、花挿し用のきれいな水。同じことを父はずっと繰り返している。蓮も。
たくさんの百合の花をしゃがみこんで分けていると、父と蓮が戻ってきた。八つの花挿しを二人で器用に四つずつ持って、「おう」と父が短く言い、花挿しを差し出してくる。律は分けた百合を花挿しに挿していくが等分しても百合の量が多く、ぎゅうぎゅうになってしまう。
「……父さん、花、多すぎない? こんなにぎゅう詰めにしたら花がすぐに傷んじゃうよ」
「なら花挿し増やそか」
「花の量が多すぎるって言ってんだけど」
「ええやん、多い方が。べっぴんにしたらなあかんやろ」
単純なのか、物理的な量が愛情表現になるのか律には父の思考が理解できない。けれど、それ以上の言及は諦めてなんとか八つの花挿しにいっぱいの百合を挿した。挿し終わったそばから父と蓮が花挿しを墓前に据えに行く。そうして墓掃除が完了すると、掃除道具を霊園の通路に出し、静かに手を合わせる。
墓石を磨く時ですらいままで言葉が浮かばなかった律には、手を合わせる時もそれまで浮かんでくる言葉はなかった。ただ、父の真似をするように形式的に合わせていただけだ。けれど、初めて
──もう、誰もいなくなりませんように。
それは供養ではなく願いに近い気持ちだった。だから守ってほしいというのでもない。大事な人が悲しむ姿を見たくない。だから、もう誰もいなくなってほしくない。祈りにも似た気持ちが、二つの墓の墓前でふんわりと律の心の底から湧いてきた。
*****
帰宅すると先ほどまでの静かな空気はどこへやら、普段と変わらない活発さに戻った蓮は精霊馬作りに精を出す。父は送り火の時間まで部屋に閉じこもる。母の部屋には父自身さえも足を踏み入れない。精々、酔っ払った時に部屋の前で独り言を言うしかなく、そうなると父は自室に閉じこもっている。いままで律はもう十年以上も、と考えていたが父には〝まだ〟なのかもしれないと初めて思い至る。
「蓮、今年はどうするの。馬と牛だからね?」
精霊馬を作るのに、きゅうりとなすを複数、それから割りばしやつま楊枝などを並べ、果物ナイフを横に考え込んでる蓮に律は訊いた。本来であれば簡単で、適度な長さにした割りばしを四本刺せば終わるのだ。
「んーとさ、来るときは馬で早く来てほしくて、帰りは牛でゆっくりまた来年ってやつじゃん?」
「そう」
「んで、律のかーちゃんも俺のかーちゃんもかーちゃんだから、危ないのは駄目じゃん?」
律は蓮の返事に頭を抱えそうになった。危ないのは駄目とはなんなのか。
蓮の作る精霊馬が毎年精巧な工作になっていることは律もわかっているが、精霊馬に亡くなった人間の安全性を求める蓮の気遣いの方向性がよくわからない。
「あ。牛はさ、馬車にしよ。アレ。かぼちゃの馬車」
「牛だったら牛車じゃないの」
「知らんけど。童話のやつ。魔女が作るやつ」
「それは確かにかぼちゃの馬車だけどさ……。シンデレラなの?」
蓮の発想の飛躍に律はツッコミが追い付かない。
「それは……母さんたちをお姫さまにするってこと?」
なんとか律が蓮の突飛な発想をかみ砕こうとして精霊馬のなすの牛に込められる願いとかぼちゃの馬車を結びつけると、大声で「それ!!」と返された。
「牛はゆっくり帰ってまた来年だから、安全第一でかぼちゃの馬車で姫!」
「……じゃあ、きゅうりの馬は?」
母親を姫扱いする思考回路とは、と律は口に出すのをやめて諦めた。どうやら今年の精霊馬は危ないのは駄目らしいが、基本的な由来からは外れてはいけないようだ。律の質問に蓮はきゅうりの馬を決めかねているらしく、まだ悩んでいる。
「早く帰ってきてほしいじゃん? ブルーインパルス?」
「……それは危なくないの?」
「速いじゃん」
安直な返答に律は我慢しきれずに笑い出した。きゅうりの馬がブルーインパルスで、なすの牛がかぼちゃの馬車。落差が激しすぎる。
「ブルーインパルスはいいけど、うち、通り過ぎないようにしてあげてね」
「おう! 任せとけ」
笑いながら言う律に、蓮は自信満々に答えて早速果物ナイフを手に精霊馬を作り始める。精霊馬の由来はかろうじて残っているが、馬と牛という概念が欠片も残っていない。それでも蓮は毎年違うことを言い出し、器用にきゅうりとなすで独特な精霊馬に願いを込める。
*****
夕方になるとしばらく姿を見せていなかった父が出てきて、門前で迎え火を焚く。ほうろうの小さな皿に火を灯し、燃え尽きるまで無言で揺れる炎を見ている。風に揺らめく炎は麻の茎が燃え尽きてしまう前に風に負けてしまいそうだ。炎とは危ないものであるはずなのに、儚く大事にしたいだなどと律が感じたのは昼間の墓参りからまだ感傷的な気持ちを引きずっているのだろうか。
迎え火が燃え尽きると、修治が軍手をはめた手で熱くなったほうろうの皿をそっと片付ける。
中に入ると食堂では夕食の準備がされている。盆で、本来は精進料理であることが正しいのだが、若い男が多いこともあり肉食だけを控えている。結果、選択肢が魚になり毎年盆の食事は食卓に複数の寿司桶と刺身の船盛が並ぶ。気持ちだけ、きゅうりの酢の物や簡単な副菜が添えられている。相変わらず黒瀬家の夕食の食卓は量が勝負だ。
父と修治、律と蓮が定位置につくと「いただきます」となる。普段は夕食時に酒は出ないが、今日は酒も食卓に大量に並んでいる。律と蓮の前には麦茶の保冷ポット。
普段よりいっそう賑やかな食卓は、大人たちに酒が入っているせいもあるが律はほっとする。男ばかりの大所帯で大味なところもあるが、律には当然の日常で母がいたらなどと思う隙もない。律が母親不在の家庭でも、なんの不満もなく育ったのはこの賑やかさがあってなのだ。ずっとこのままいれたらいいのに、と思う。
「……ずっと、このまま……」
自分で呟いて、律はふと首を傾げた。
「なしたん? 律」
蓮が律の皿に勝手に寿司と刺身を載せながら訊いてきた。
「え?」
「なんか、変な顔してたけど」
「してないよ」
律は思わず頭を振り、箸を取り直した。蓮に乗せられた皿の上の刺身を取り、醤油をちょんとつけ、口に運んで咀嚼しながら、律は仕草には出さずにもう一度頭の中で反復した。
──ずっと、このままでいられたらいいのに。
その望みをかなえる方法は、ひとつしかない。




