#20 まっさら
修治が車の後部座席に先に律に乗るよう指示し、その後、意識のない蓮を律の膝を枕にして乗せた。
「安全運転はしますが、特に蓮の頭をあまり揺らさないようにしてあげてください」
「……うん……」
ふらふらの足取りで車に乗り込んだはいいが、まだ律の涙は止まらなく、現実感が薄い。ぼろぼろになった蓮の血がこびりついた茶色い癖っ毛に触れると、更に涙が止まらなくなった。胸が苦しいどころの話ではない。心臓が握りつぶされそうに痛い。
膝に乗せた蓮の頭の重みと体温はあるのに、律は現実として受け止めきれない。蓮が喧嘩や争いごとで負けることも、況してや意識不明になるほどの怪我を負うことも律の想定にはなかったのだ。だからこそ、余計にぼろぼろの蓮に未知の恐怖が募る。
ゆっくりと動き出した車は修治の運転で線路の西側を抜け、東の馴染み深い町へと戻っていく。たった線路を隔てた区画というだけなのに、別の場所に行ったような錯覚がする。──安全に育てられていたのだ、と律は蓮の頭をそっと抱えながらぼんやりと思った。
しばらくして黒瀬組が昔から世話になっている病院につくと、救急搬入口で既に看護師が複数待機していた。先に修治がいったん運転席から降り、看護師たちと短いやりとりをした後、後部座席のドアが開き、蓮は看護師たちに運ばれて行った。膝に乗せていた重みがなくなると、律はしばらく呆然とした。いままであった蓮の重みが消えてしまい、急に心細くなる。その間、運転席に戻った修治が車を駐車場に移動させた。
「若。疲れていますか? 蓮は処置や検査もあるでしょうし、ここでしばらく休んでいても構いませんが」
「いい。行く。……蓮の近くに、いる」
疲れていないと言ったら噓になるが、律は返事して後部座席から車を降りた。
今日一日のうちに目まぐるしく物事が起きすぎて律の気持ちが追い付けていない。それでも律は蓮の近くにいたいと決断する。少しでも近い場所にいないと胸の奥がざわついて落ち着かない。
ぼんやりぼんやり頭が痛いと自覚するが、律はそれが泣きすぎたせいだとは気付いていない。ただ、物凄く体が重い。体の外側、一ミリくらいの場所と自分の体の触れている重力が変わってしまったかのように、動きにくくなってしまった体を引きずって律は修治の後について裏口から病院の院内に入っていった。
*****
夜の病院の待合は照明が落されていて、非常灯のみの頼りない明かりしかなく律の心細さは増した。救急搬送口から搬送された蓮はいまどこで検査や処置を受けているのかわからない。事務的な手続きは修治が行っていて、いまは待合に律ひとりで座っている。
ふと、家でずっと握りしめていた〝れん〟と名付けた犬のキーホルダーが手元にないことに律は気付いた。いつ手放してしまったのか、覚えていない。家を出る時か、それとも蓮を見つけて車から降りた時か──それなら車内のどこかにあるだろう──、はたまた蓮に駆け寄った時か。無意識に手放したのか、落としたのかさえ定かではない。似ているというだけでずっと蓮が出て行ってから数時間、手の感覚がなくなるほど握りしめていたのにいつの間にかない。そんな風に、気付かないうちに大事なものを──人を失ってしまうのだろうかと静かな恐れが背筋を伝ってくる。
「若。蓮の手続きは済みました。……いまはひとりでいたいですか? 私が隣にいても?」
父のいない時の保護者代わりが身に染みついている修治は、まるで親のような口ぶりで律の隣には座らず屈んで視線を合わせて訊ねてくる。けれど、修治の問いに律はすぐ答えられなかった。
心細くて、怖くて、恐ろしくて安心できるものがなにもない状態は不安だ。だが、原因が律にある分、その穴埋めを他人に頼ってはいけないという自戒の気持ちも生まれる。
律が返事できないまま黙っていると、修治が微かに溜息をついた。
「若のそういうところは竜一さんに似ていますよ。蓮が怪我した原因を自分ひとりで抱え込もうとしているのでしょう? 確かに蓮が飛び出していったきっかけは若と蓮の問題かもしれません。けれど、竜一さんと私が蓮を連れ戻そうと追いかけ回していなければ、あんなところまで行かなかったかもしれません。初手を打ってしまったのは若だということは変えられませんが、その後のことは若のせいとは言い切れないのですよ。複合的なことの一手目を打ったからと、全責任を負う必要はないです。……吐き出した方が楽になることもありますよ」
「……蓮が、いなくなるなんて、やだ……」
ぽつりと律は呟いた。律の中に様々な負の感情が渦巻いているが、すべての原因を辿ればその一言に集約される。
「大丈夫ですよ、若。蓮はいなくなったりしません。あなたがよく知っているでしょう。竜一さんも言った通り、蓮は元々頑丈なんです。生きているんですから、いくらでも誤解を解く努力はできますよ」
「でも、蓮をたくさん傷付けた」
「……若も蓮もまだ子どもなんですから、間違うことなんていくらでもあります。小さい子どもが喧嘩した時になんて言って謝りますか? 歩み寄る勇気を持っていることと、許す気持ちを持てることが大事でしょう? いくら年齢を重ねても同じことですよ」
「……うん……」
子どもにされるように下から視線を合わせられ、言い含められると律の気持ちは少しだけ落ち着いた。極端な不安の重さが少しだけ軽くなり、律は深く息を吸ってゆっくりと吐いた。生きているからいくらでも努力できる、という修治の言葉にふと律は自分と蓮の二人の母のことを思い浮かべた。律の、自分自身の母は生まれた時に亡くなってしまったから話す機会どころか、触れたこともないどこか遠い存在だ。蓮や父、修治の話しづてに聞く蓮の母は理不尽な暴力から蓮を守り、優しい歌を歌う人なのだろう。両者とも、律には永遠に話す機会がない。
もし、自分の母や蓮の母と話すことができていたら、などと律は初めて考えた。男所帯の家で育ち、一般的な家庭環境と違うことを自覚しながらも、特に母という存在に憧れたことも、羨望を抱いたこともなかった。いまも不満がある訳ではないが、ふと、母という存在に触れていたら少しは世界が違ったかもしれないと思う。──蓮は、母を知っている。律と蓮の決定的な違いはこの点にある。
「修治も、蓮のお母さんのこと、知ってるんだよね。どんな人か、聞いてもいい?」
何気ない問いに修治は少し間を置いてから答えた。
「優しすぎる人でしたよ。……優しすぎるから、理不尽な暴力でも許してしまうんです。それでも、子どもだけは守ろうとしていました。蓮は喧嘩っ早さと有り余った体力で竜一さんに似てきていると思っているようですが、沙世さんにそっくりですよ。時々歌っている鼻歌の雰囲気まで」
「……優しすぎる……」
律は口の中でその言葉を繰り返した。
優しさというのは、時にわかりにくい。
*****
静かに時間が過ぎて、夜が更けた頃にいったん外で電話をしていた修治が待合に戻ってきたタイミングで看護師に声を掛けられた。蓮の処置が終わったので医師から説明を受けて欲しいということだった。
律の心が一瞬ひるんで修治に視線を投げると、困ったように眉間に皺を寄せられた。
「……いいですか、若。私は蓮の血縁者ではありません。よって、本来、私はそのような説明を聞く立場にありません。竜一さんが蓮の後見人ですが、いまここにはいません。若は竜一さんの息子で、蓮とは血の繋がりはなくても兄弟同然に育った、ここにいる人間の中で一番蓮に近い立場です。竜一さんの代理という筋が通るのは若だけですよ」
「修治は駄目なの? 僕だけじゃわからない話だと、困る」
「いいえ。ずっと院長には懇意にしていただいていますし、多少の融通はきいてもらえるでしょう。そうではなく、ここで若が蓮のことを受け止められないのでしたら、という話です」
「……そういうことなら、大丈夫、だと思う」
両手を固く握って、律は返事した。不安は残っているが、律の目には静かな覚悟が宿っている。修治に背中を促されると、律は看護師に案内され、診察室に入った。中には律も馴染みのある老院長が穏やかな表情で座っていて、律と修治に椅子を勧めた。
「律坊、そんな思い詰めた顔せんと、蓮坊は大丈夫だから、まあ安心しんさい」
呵々と笑って老院長は子どもにするように律の頭を撫でた。些細なことで体調を崩しやすかった律は、幼いころから蓮よりもこの老院長の世話にはなっている。変わらない子ども扱いに律の緊張がまたひとつ剝がれていく。
老院長は修治に向かって挨拶のように「あんたもデカい子守り二人も抱えて大変じゃのう」と言い、修治は「いえ、もっと手がかかるバカデカい問題児がもう一人いますので。若も蓮も比べものになりません」と涼しい顔で返している。挨拶のような軽口が済むと、老院長は律に向き直った。
「蓮坊な、検査の結果はななんも異常なしだ。骨折もなし、内臓や脳に異常もなし。意識失ってんのは脳震盪の可能性があるから一週間は安静にしてやれ。頭痛・眩暈・吐き気なんかあるようだったら連れて来んさい。外傷や打撲の内出血でしばらく痛みは残るだろうが、まあ蓮坊にはいい薬じゃろ。目え覚めて意識がはっきりしてるなら家で休ませなさい。ここよりは蓮坊も落ち着くじゃろて」
そこまで一般的な医者としての説明をした後、老院長はいったん言葉を切った。なにか逡巡している様子で、それから「蓮坊も律坊ももうすぐ十八だしなあ」と呟き、再び口を開いた。
「あのなあ、律坊。生まれた時から暴力が隣にある環境ってな、想像つくか?」
唐突な老院長の質問に律は思わず素直に「わかりません」と答えた。想像できるかと訊かれているにも関わらず、反射的に返事してしまい、言った後にしまったと気付いたが、老院長は気にした様子もなかった。
「わからんもんはわからんくていい。想像つかんのは律坊が暴力とは無縁の環境で育ったってことだ。でもな、蓮坊は違うんじゃよ。四歳まで暴力と隣り合わせの生活じゃ。無抵抗な子どもがな。本人の記憶に碌に残っとらんでも、体が覚えてる。なにがあったか知らんが、蓮坊の怪我の具合な、あれは無抵抗な子どもが一方的に虐待されたのと同じだ。なんも抵抗の跡がない。原因は儂にはわからんが、蓮坊のはな、怪我の加減より中身の方気ぃつけてやるのが大事なんじゃよ。なんも、律坊がひとりで背負えって話じゃない。それに蓮坊を腫れ物に触るように扱えって話でもない。こんなもん、儂みたいな他人に言われて腹立つかもしれんし、儂も専門じゃないけどな、いまの蓮坊は糸の切れた凧みたいなもんじゃないのか?」
静かにゆっくりと話をする老院長の言葉を取りこぼさないように、律は注意深く聞いていた。父と似たようなことを言っている。それから修治とも。けれど、老院長の言葉は専門でなくとも医者という立場で、かつ、第三者の客観的な見解として律にはすんなりと入り込んだ。
「……僕が、蓮に怒鳴り散らして、それから……蓮は少し記憶がないみたいで、怯えるようになっちゃって……できるだけ普通にしてようと思ったんだけど、上手くできなくて。何度も失敗して、蓮を振り回しちゃって。そしたら、蓮が僕の態度がおかしいのを、自分が僕のこと殴ったんだって疑っちゃって、出てくって。それで、みんなが探してくれたのに、蓮を見つけた時には誰かにボコられてあんなになってて……。だから」
「そりゃ盛大な喧嘩じゃの」
僕のせい、と言おうとした言葉をさえぎられて、老院長は呵々と笑った。そんな喧嘩などという軽い言葉で済ませていいのかと律は疑心暗鬼になったが、老院長は向かいから手を伸べてまた律の頭を撫でた。
「あのな、律坊。怒鳴って、上手く仲直りできんくて、勘違いされてなんざ小さい子どもの喧嘩と同じじゃよ。お前さんら、碌に喧嘩もせんと育ったじゃろ。だから拗れるんじゃよ。まあ、蓮の小さい頃の環境も影響してるだろうけどなあ。ほれ、律坊。そこまで自分でわかっとるんじゃったら、もうやることはわかるじゃろ」
「連と……仲直りする」
喧嘩という表現をされたので、律も同じ表現の中から必要な言葉を返した。
「いい子だ。蓮坊んとこ行きんさい」
ぽん、と老院長に肩を叩かれると、律は「ありがとうございます」と深い礼をして立ち上がった。隣で立ったまま話を聞いていた修治も老院長に頭を下げている。
「あんたも苦労するのぅ。白髪、増えるぞ」
「全く、私には妻子もないのに子どもばかりが増えていくのは難解ですね」
老院長と修治の軽口を背中で聞きながら、律は先に診察室を出た。外には看護師が一人待機していて律を蓮の病室まで案内してくれた。
まだ、律の緊張も不安もなくなったわけではない。ただ、それらを増大させていた要素が少しずつそぎ落とされていき、当初の純粋な緊張と不安だけが残っている。そして、律の緊張と不安の真ん中にある感情の源が心もとなく光っている。好き、というまっさらな好意が。




