白百合
百合の匂いがした。
彼女は花束を持っている。
山を縫う乗客の少ない列車の中は、冷房に夏の暑気を隔絶されて、陽射しの熱は白さだけを揺らしていた。
向かいの席に三十半ばの女性が座っている。
白いカーディガンを羽織った彼女は白い帽子を目深にかぶり、白百合の花束を抱えながら、窓の外を眺めていた。
深い緑の山谷は、強い陽射しに青く薫る。
夏。
表情をうかがえない彼女の口は虚ろに見えて、薄く開いた唇に漏れる吐息が聞こえるように、列車の揺れに身を任す彼女の抱える白百合は、ただ花を揺らして匂いだけを漂わせていた。
誘われる関心に彼女と降りた駅は無人駅だった。
暑い。
白い太陽に目を細める陰影は、待合駅舎を黒に翳らせ、ホームの白とに際立つ熱に、蝉の声が鳴き渡る。
白い彼女は夏の光によりいっそう白かった。
彼女は駅舎を出ると白土の坂道を上る。
坂道。
それは誰しもの記憶にあるような、大きなヒノキの伸びる枝に夏の影が落ちる、道脇に草の薫る風が流れた、田舎の小道の坂だった。
白い小石の砂利を踏み、固く乾いた白土は、細かい足の音を吸い込む。
坂道を上り切ると古い民家が建っていて、取り換えられない瓦屋根に人の住んでいる気配のない、静かな静かな家だった。その家の夏草に埋まる庭にはブランコがあって、さびた鎖に朽ちた木片をぶらさげたブランコは、木陰に夏を避けるように、風にも揺れずにたたずんでいた。昔は子供の遊んだブランコも、大きく振られて空を漕いだブランコも、今は昔と悟るように、役目の果てたことを受け入れて、人の住まない家とともに、ただ時間の尽きるのを待っているかのようだった。
懐かしさを覚えさせる風景を見回していると、彼女は朽ちる家に近づいて、廃屋の柱に手を触れて、黒ずんだ柱の手触りを名残惜しげに手放すと、夏の陽射しに隠れる土間の向こうの薄暗がりに目をやって、そのまましばらく動かなかった。
蝉の声の鳴き渡る。
土間に足を踏み入れた彼女が影に消える。
彼女の触れた柱に触れる感触は、夏の熱と木の冷たさにあたたかい堅く年老いた木の心地よさで、沈黙に語る黒い柱は何ものをも受け入れて、ただ立ち尽くすだけだった。
軒の庇に身を入れると、太陽を失って光の残像に眩む目が、徐々に土間の様子を伝え出す。
居間にイグサのほつれた茶色の畳が土に汚れて眠っている。垂れた白熱灯のひび割れに、土色の壁のポスターには色あせたアイドルが涼しげに、清涼飲料水を握って笑っていた。時の止まった時計のガラスは白くくすんで文字盤を隠し、重いタンスは畳を潰して床に傾き立っていた。そんなタンスに貼られた剥がれることを知らないガムのおまけの水溶シールには、アニメのキャラクターが力強いポーズを決めている。
彼女はそれらをひとつひとつに眺め歩くと、台所に家を出て、陽の下の白にまばゆく染まる夏庭に、白い彼女は木陰のブランコを優しく撫でると、木陰を抜けて坂を下りた。
ブランコ。
鉄の鎖は赤にさび、椅子の木板は黒ずんで、誰も座れないブランコは、役目を終えたブランコは、けれども風に漕いだ感覚を呼び起こして忘れずに、触れるものに思い出を与えてくれて、また眠る。
触れる。
風を感じた。
白百合が揺れている。
坂を下りる彼女の腕に揺れる白百合は、香りを残して道を行く。
白いガードレールに木々の影差す山道は、蒼々と重なる枝葉の連なりと、鬱々と満ちる夏の樹木に冷え湿り、途中に開ける崖の空が乾いた熱を導くと、じっとりとした汗が抑えを失って噴出すのが、頬に伝わる感覚からわかった。
道は集落に抜けると、山あいに田んぼが広がって、緑に染まる夏の稲穂は頭を垂れずに生い茂り、用水路に流れる水はせせらいで、蛙の飛び込みにわずかに音を濁らせる。
蝉の声。
とんびの高く飛ぶ空の濃く青く、入道雲の白くそびえ立ち、自転車を脇に置いた少年たちはザリガニでも釣っているのか、田んぼの畦に座り込んで垂らす糸を揺らしていた。
蝉の声。
キュウリ畑の老人の、撒く水の白に輝く。
蝉。
すべてはどこまでも夏だった。
いつか触れたこの夏は、久しぶりのように汗に滴る。
こんな夏の匂いに満ちた道に、それでも百合の香りは鼻に残った。
集落の片隅に寺があった。
彼女は石段を上っていく。
石段の長く伸びる。
足が重くなった。
暑さのせいかもしれない。
石段の長く伸びる。
足の重さが心に伝わったのか、足の動かぬ間に彼女は石段を上り切る。
百合の香りの残る。
一段一段に上る足の止まろうとするのに逆らいながら、脂汗ににじむ額を腕にぬぐいながら、石段を上り切ると、彼女の見えない境内の、本堂の隣に墓場が見えた。
汗のせいか背中に冷気が走った。
墓場に近づくと、ひとつの墓石に目が止まった。
それは目を逸らすべきだったという予感であったのかもしれない。
墓石に近づくと、足が震えた。
立ち尽くす。
人の訪れない、土に汚れた寂しい墓石。
涙が出て止まらなくなった。
――ああ。
何故ここに来てしまったのだろう。
――ああ。
どうしてここにいるのだろう。
墓に彫られた字をなぞる。
「タカシさん」
振り向くと、白い帽子に白いカーディガンを羽織った妻が、私の墓に白百合を捧げた。
妻は私の名前を呼んで、私の墓に話しかける。
「タカシさんの好きだった花です」
白百合の匂いがする。
私は大きくかよわく潔癖な、白い百合が好きだった。
妻は私の墓石に水をかけ、私の墓をみがき始めた。
私が死んだのは、五年前のことだった。
交通事故だった。
視界の悪い雨の夜に、横から迫ったライトは私の身体を赤く潰した。
私たち夫婦に子供はいなかった。
妻だけが残った。
妻は墓石をみがいている。
五年前に戻った故郷には、けれど朽ちた生家と父母の墓しか待っていなかった。
二十二年前に父が死に、十八年前に母が死んだ。
一人息子の私は家を捨てて、街に出た。
一人。
妻に会って二人になった。
そしてまた一人。
妻は私の話した故郷をなぞった。
私も妻と故郷をなぞった。
けれど私が故郷を覚えていても、故郷は私を覚えていても、私の名前を呼ぶものはここには何も残ってなどいなかった。
墓石をみがき終えた妻は、白百合の花を生け、線香に火を点けると、白い帽子の影から私を見やり、気遣いがちに真剣に、何かを相談するときに妻の見せる眉を寄せた顔を向けて、私の墓に言葉をこぼした。
「……タカシさん。今日はあなたに話したいことがあって、ここに来たの」
妻は目を伏せる。
ためらい。
妻は目を上げる。
決心。
「私、再婚するの」
心が揺れる。
「あなたのことを忘れるわけじゃないから、あなたのことを忘れたいわけじゃないから」
妻は顔を振り、髪を揺らし、心を揺らし、けれど瞳は動かないで、最後に止まって私を見つめた。
そして妻は私に頼んだ。
「祝福して」
妻は手を合わせ、目をつむる。
線香の白煙に立ち上る。
私は妻に声をかけたかった。
白百合。
私は妻に祝福の言葉をかけたかった。
白い妻。
私は妻を抱き締めたかった。
白い雲。
けれど私には何もできない。
線香が灰に尽きる。
妻は立ち上がった。
立ち上がる妻に届かない手を伸ばす私の横から、男の声が聞こえた。
「もういいのか?」
妻の隣に男がいた。
さっきまでいなかったのに。
「……うん」
――いなかった?
いや、いなかったのではない、気付かなかったのだ。
いや、気づかなかったのではない、見えなかったのだ。
いや、見えなかったのではない、見なかったのだ。
私は妻しか見ていなかった。
妻しか見たくなかった。
妻にいつまでも私を見ていて欲しかった。
けれど、妻の隣に男が見える。
私は男を見た。
見なければならなかった。
それが私の使命だった。
今の私にできるすべてであった。
けれど。
私は妻の幸せを願った。
けれど。
私は妻の人生を祝福した。
けれど。
「さようなら、タカシさん」
私は寂しかった。
妻が去っていく。
私の名前を呼ぶものが去っていく。
私の名前が去っていく。
私が去っていく。
私。
さようなら。
蝉の鳴き降る夏の風に、白百合の匂いがした。
とりあえず主人公は危ない人ではなかったので安心して下さい。
ところで、こういうのはホラーと呼ぶんでしょうか?
感想あったらお願いします。