最終話 あなたと幸せを作りたい
納会が終わった後、ご機嫌な社員さんたちに見送られ、私たちは会社を出た。
「すごくアットホームな会社ですね」
「ははっ、社員には東條建設にいた頃からの付き合いも多いからな。特に荒木は俺とあの男の確執をずっと気にしていてな」
「荒木さんとは付き合いが長いんですね」
「付き合いは大学の頃からだから、十年になるかな」
ハンドルを握る一織さんは、噛み締めるように「頼れる社員ばかりだ」といった。
「そこに、私も加われるのかな……」
「あいつらのことだ。もう加えているぞ」
「そうですか?」
「咲良ちゃんは、俺の健康管理責任者だからな」
一織さんに、笑いながら「自分で宣言しただろう」と訊かれ、勢い任せで食生活を管理するといってしまったことを思い出す。
冷静になれば、学生の私がなんて大きなことをいったのかと、恥ずかしさが込み上げてきた。
火照る両頬を手で包み込み「がんばります」といえば、一織さんは「それじゃ」と呟いてハンドルを切った。
「ちょっと買い物に行こうか」
「買い物ですか?」
「そう。モーニングコーヒーを飲むのには、コーヒー豆が必要だろう?」
「まだ残ってましたよね?」
不思議なことをいうなと思ったけど、私の疑問に一織さんは笑うだけで【珈琲さざんか】へと向かった。
二人でお店に顔を出すと、店長は少し驚いた顔をしたけど、すぐに笑顔になって「いらっしゃい」と、いつものように迎えてくれた。
そうして、カウンターの前で立ち止まった一織さんは私を抱き寄せると、店長に「結婚を前提にお付き合いさせて頂いています」と報告を始めた。それを店長は驚く様子もなく、だけど嬉しそうに頷きながら聞いてくれた。
「坂下さんは本当にいい子ですから、絶対に泣かせないでくださいよ」
いいながら、店長はカウンターにハンドミルやドリッパーを並べた。使い古したものじゃなくて、新品一式だ。
「こちらはお祝いです。坂下さん、お家で美味しいコーヒーを淹れてくださいね」
にこにこと笑う店長は、山茶花ブレンドを詰めた袋をカウンターに置く。
「店長……あの、でも」
「いいましたよね。坂下さんのコーヒーを飲みたそうな常連さんがいるって」
「……え?」
「東條さんのために、淹れて差し上げなさい。私よりもきっと、美味しく淹れられますよ」
紙袋に一式を入れ終えた店長はカウンターを出てくると、それを私に握らせる。
「来年もバイト、頼りにしていますよ。よいお年を」
紙袋を受け取り、胸に抱き締めた。
店長は外まで見送りをしてくれたけど、丁度入れ違いにお客さんが訪れ、一緒に店内へと入っていった。
それから買い物をして、一織さんのマンションへと戻った。
キッチンのカウンターに店長から贈られたハンドミルを並べ、嬉しさが込み上げてくる。
「さっそく淹れてくれるのかな?」
冷蔵庫に買ってきた物を詰め終えた一織さんは、満ち足りた顔で尋ねる。
「……失敗しても、がっかりしませんか?」
「咲良ちゃんなら大丈夫だよ」
そういって私をキッチンに手招いた一織さんは、ケトルをコンロにかける。その横で珈琲豆の入った袋を開け、胸いっぱいに香りを吸い込んだ。
きっちり豆の分量を量ってハンドミルに落とすと、豆がカラカラと音を立てた。まるで期待に踊るような軽やかな音に、胸が高鳴る。
美味しく淹れられますように と思いを込め、ハンドルを回して豆を挽く。
ゴリゴリと心地の良い音がキッチンに響いた。
ポットやドリッパー、カップをお湯で温める。それからペーパードリッパーに引いた粉を落とし、丁寧にならす。
最初に注ぐお湯でコーヒーの香りを引き出す。ナッツのような芳ばしい香りが立ち上がるのをじっくり待つ。三十秒の間に、飲んでくれる人の笑顔を思い浮かべるんだよと、店長はいっていた。
ふと顔を上げると、いつの間にかカウンターの向こうへ移動した一織さんが、喫茶店で待つような顔をして、こちらを見ていた。
急がず焦らず、コーヒーの香りが心に沁みるのを感じながら、お湯を落としていく。
ポットを満たしたコーヒーを少し揺らして、抽出した香りと旨味を均等にするのも忘れちゃいけない。
一つ一つに気を配り、温まったコーヒーカップにそっと注ぐ。
カウンターの上に置いたお揃いのカップから、芳ばしい湯気が立ち上がった。
「お待たせしました」
「ありがとう。咲良ちゃんも、こっちにきて飲みなよ」
カップを手にした一織さんは目を細め、コーヒーの香りを吸い込んだ。その横に座り、私もカップを手に取る。
ドキドキしながら一織さんを見つめていると、その喉がごくりと鳴った。カップから口を放すと、ほうっと安堵の吐息が零れる。
振り返った笑みは砂糖のように甘くて、美味しいよと囁く声はミルクのように優しい。
「ほら、咲良ちゃんも飲んでみて」
「は、はい!」
促されてはっとした私は、慌ててカップに口をつけた。すると、芳ばしいナッツのような香りが鼻腔をくすぐった。一口飲めば優しいコクが口に広がる。ほんのりと残る苦味は嫌味がなく、ほうっと息をつけば体の力が抜けた。
「──美味しい」
「うん。これからは毎朝、咲良ちゃんにコーヒーを淹れてもらわないとだな」
ことんっと音を立て、コーヒーカップがカウンターに置かれる。
「……毎朝?」
首を傾げると、私の手からカップが取り上げられた。
温まった指先が一織さんの両手に包み込まれる。
「咲良ちゃんを幸せにできないっていったこと、取り下げたい」
少し強く握りしめられて指先が、じんっと痺れた。
「生涯かけて、咲良ちゃんを幸せにする。だから……結婚して欲しい」
突然のプロポーズに鼓動が跳ねた。
「俺を信じてくれ」
信じているに決まってる。一織さんの思いを疑ったことなんてない。
目の前が涙でかすんでいく。
「……本当に、私でいいんですか?」
「咲良ちゃんしかいない」
「料理を作るくらいしかできない私ですよ?」
「俺の健康には咲良ちゃんの料理が欠かせない。それに、俺を経営学で説き伏せられるのは、咲良ちゃんだけだ」
指が絡まり、しっかりと握りしめられる。
今すぐその胸に飛び込みたかった。大好きだっていって、ずっと一緒にいるっていいたかった。
「……条件があります」
「なにかな?」
「卒業までは待ってください。ちゃんと、大学は卒業したいです」
声が震えた。
陽菜ちゃんや猪原さんに放したら、バカだなっていわれるかもしれない。素直にプロポーズを受ければいいのにって。でも、この先も一織さんの横を堂々と歩くためには、いろんなことから逃げちゃいけないんだ。
「もっと勉強して、一織さんの力になりたいです。東條社長に小娘なんていわせない社会人になります。それまでは」
「うん、わかった。じゃあ、俺も条件をつけさせてもらうよ」
私の手を離した一織さんは私の頬に触れ、涙の痕を擦る。
「咲良ちゃんのお母さんに挨拶するとき、恋人ではなく、婚約者として挨拶したい。お母さんに、結婚の許しをもらいに行っていいかな?」
一度は引っ込んだ涙がまた溢れてくる。はいと返事をすれば一織さんは椅子を降り、私の頭を胸に引き寄せるようにして抱き締めてくれた。
いつにない早鐘が耳に響く。
「それと、咲良ちゃんのお母さんが許してくれたら、一緒に暮らそう」
耳元で甘えるように「ダメかな?」なんて訊かれて断るなんて、できるわけがないじゃない。こんなに暖かい腕に抱き締められたら、もう、一人の部屋に帰りたいなんて思えなくなっちゃうじゃない。
「毎朝のコーヒーを淹れさせてほしいんだ」
「……私のコーヒーは美味しくなかったですか?」
「違うよ。咲良ちゃんのコーヒーは、二人でゆっくりすごす時の特別な一杯にしたいんだ。忙しい朝に飲むのは俺とコーヒーメーカーに任せてほしいなって。……どうかな?」
優しい声が胸に響く。それに応えるようにして、一織さんの背中に両手を回した。
「それなら、私からも、もう一つお願いしていいですか?」
「ふふっ、咲良ちゃんのお願いなら何でも聞くよ」
「その……たまには一織さんの手料理を食べさせてください。この前のホットケーキ、美味しかったです」
「そんなことでいいの?」
「それと……たまにでいいから、一緒に料理がしたいです」
ダメですかと問う代わりに一織さんを見上げると、幸せに輝く目が私を見つめていた。そうして「お安いご用だ」といって、私の頬を撫でる。
「大好きだよ、咲良ちゃん」
「私も、一織さんのことが大好きです」
熱い指先が耳たぶをふにふにと触り、吐息が唇に触れる。
「今夜はいっぱいキスしていいかな?」
それはどこまでなのか。考えたら恥ずかしくて、全身が熱くなった。でも、一織さんになら全身どこまでも愛されたいって気持ちを抑えることはできず、私から彼の口へと唇を寄せる。
小さなリップ音を立て、すぐに唇を離せば、見開かれた切れ長の瞳が私を映していた。
「その……お手柔らかにお願いします」
ごにょごにょといえば、少し強引に口を塞がれた。
角度を変えて繰り返された熱い口づけに溺れそうになる。息が苦しくなり、堪らず縋りつくと唇が離れ、はふっと息をついた瞬間だった。身体がふわりと持ち上げられた。
「い、一織さん!?」
「あまりに可愛いことをいうから、ちょっと我慢が効きそうにない」
「えぇっ!? 待って、一織さん」
「大丈夫。咲良ちゃんの嫌がることはしないから」
台詞に既視感を覚えるのに、熱を孕んだ瞳に見つめられたら全てが吹き飛んだ。
ベッドに連れていかれ、今まで見たことがない余裕のなさで口づけられた。
乱れる息の中、服が脱がされていく。全身に唇が印をつけていく。何度も耳元で愛を囁かれ、感じたことのない熱の奔流に溺れながら、一織さんの愛を一身に受けた。
覆いかぶさる一織さん息遣いに背筋を震わせ、初めての充足感に満たされた。
翌朝、開けられたカーテンの向こうでは朝日が輝き、リビングはコーヒーの香りに満たされている。
スマホのディスプレイにはお母さんの文字。通話ボタンをタップして、数コール鳴るとすぐに「おはよう、咲良。早いわね」とのんびりした声が聞こえた。
「お母さん、明日、そっちに帰ろうと思うんだ」
「それじゃあ、年越し蕎麦とお節も用意しないとね」
「うん、それでね……この前話したけど、会ってほしい人がいるの」
「覚えてるわよ。連れてくるんでしょ? お酒とお布団の用意もしておくから、心配しないで連れていらっしゃい」
お母さんはどこまで気付いているんだろうか。
私の横に並んで立つ一織さんを見上げ、スマホの向こうへ「ありがとう」といって、私たちは笑い合った。
「お母さんの大好きな月餅買って帰るね」
「楽しみに待ってるわよ」
「うん。また連絡するね」
窓から差し込む朝日に目を細めて通話を切った。
すっとコーヒーカップが差し出された。
「もしかして、緊張してた?」
「うん」
「帰省するっていうだけなのに?」
「そうだけど……一織さんが、その、お母さんに許可を取るなんていうから」
昨日のことを色々と思い出し、頬が熱くなってきた。
カップをもったままソファーに座ると、横に座った一織さんは自分のカップをテーブルに置く。
「真剣だから」
ちゅっと頬に唇が寄せられ、驚いてコーヒーをこぼしそうになった。
「もう、不意打ちでそういうことはやめてください!」
「嫌だった?」
「そうじゃないけど……心臓がもちません」
「それは大変だ。じゃあ、キスしていい?」
楽しそうに笑う一織さんは、私の手からカップを取り上げるとテーブルに置く。
唇が触れそうなところまで顔が近づく。
これでダメっていったら、どうなるんだろう。ふと疑問がよぎったけど、ダメなんていえるわけもなく、一織さんの首に手を回して「ちょっとだけですよ」と返した。
窓から差し込んだ朝日が私たちに降り注ぐ。
キスだけで終わりそうにない熱い口づけを受け止め、幸せを噛み締めながら、これから二人で歩んでいく日々に思いを馳せた。
二人で幸せを作っていこう。
殺風景なテレビ台を、たくさんの思い出と写真で埋め尽くせるくらい、幸せな家族になろう。
最後までお付き合いありがとうございました!
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