第1話 ちょっと遅いランチは【珈琲さざんか】で
芳醇なコーヒーの香りとともに、ピアノジャズが店内をゆるやかに流れている。
ここは創業三十年になる【珈琲さざんか】、オフィス街の路地裏にあるこだわりの喫茶店。
カウンター席の他に四人掛けの卓が五つ。お昼のピーク時をすぎた時間は、オフィス街の社会人や、ここからほど近い経世国際大の学生が立ち寄ることが多い。
カウンター内の棚には店長の集めたコーヒーカップやティーカップが並び、台の上にはインテリアよろしく水出し珈琲の器具が置かれている。
フラスコをひっくり返したようなガラス器具で入れたアイスコーヒーは飲み口が爽やかで、私も大好きなメニューだったりする。
さざんかでバイトを始めるようになってから、かれこれ三ヵ月。
通っている大学からは電車で五駅ほど離れているけど、午後の講義がない日は塾講師のバイト時間までみっちり働かせてもらっている。といっても、ランチ時をすぎた夕方までの時間になるから来客が少なくて、商売の苦労よりも楽しさを教わるような日々だったりする。
午後六時を過ぎるとバーに変わこともあり、私のバイト業務は、バーで出すおつまみや軽食に使う野菜の仕込みも含まれている。
そう難しい作業でもなく、ホットサンドに使う千切りキャベツの用意をしたり、自家製ピクルスの仕込みになる。
今日も、いつものようにキャベツの千切りを仕込んでいると、カップを磨く店長が声をかけてきた。
「坂下さんにも、そろそろコーヒーの淹れ方を覚えてもらおうかな」
「本当ですか!?」
「うん。そう難しいことではないし、覚えてもらえると私も助かるからね」
目元にしわを寄せて朗らかに笑う店長は、それにと呟いた。
「坂下さんのコーヒーを飲みたそうな常連さんもいるからね」
「……私のコーヒーを、ですか?」
そんな奇特な人がいるのだろうか。
首を傾げていると、入り口に下げられた呼び鈴が鳴った。
自然と視線をドアに向けると、常連の東條さんがひらひらと手を振って入ってきた。
スーツをカジュアルに着こなす東條さんは「今日は一段と寒いね」といいながらマフラーを解いた。オレンジと茶色のストライプ柄は、秋から冬へ移りゆく季節を表しているようで、スマートな彼によく似合っている。
いつだったか「来年には三十路になるし、オジサンの仲間入りかな」なんて笑っていたけど、オジサンなんていうのが失礼に感じるくらい素敵な人だ。
ひそかに憧れているけど、きっと、東條さんから見たら私なんて子どもだろうな。
「いらっしゃいませ、東條さん」
「やあ、咲良ちゃん。いつものお願いできるかな?」
カウンター席に座った東條さんはスーツの内ポケットからスマホを取り出すと、ちらりと画面を見た。
「自家製ブレンド山茶花ですね。一緒にケーキはどうですか?」
「ケーキか……それよりホットサンドがいいかな。今日も昼飯を食べ損ねてさ」
ははっと笑う東條さんは、立て掛けてあるメニューを引っ張り寄せて眺めると「キャベツのホットサンドがいいな」といった。
「キャベツですね。もう、ちゃんとお昼休憩取らないとダメですよ」
「ははっ、だからこうして来たんじゃないか」
「今はお昼じゃなくて、おやつの時間ですよ」
呆れた私を見て、東條さんは楽しそうに笑いながら「スープとポテトサラダもつけてほしいな」といいながら、持っていたメニューを元の場所に戻した。
すると、店長が「それならセットはどうですか?」と薦めた。
「マスターに任せるよ。とにかく腹ペコでさ。あ、コーヒーは食後で頼むよ」
「かしこまりました。坂下さん、ホットサンドを焼いてくれるかな」
「はい! 急いで作りますね」
私が持っていた伝票をひょいっと取り上げた店長は、手早く注文を書き込みながら、東條さんと世間話を始めた。
店長は今年で還暦を迎えるのだけど、東條さんも息子みたいなものだって、いつだかいっていた。お腹をすかせてくると、つい世話を焼きたくなるんだって。
その気持ち、ちょっとわかるかもしれない。
急いで東條さんの腹ペコを満たしてあげないとね。
ホットサンド用のフライパンに食パンをのせ、辛子バターを塗り千切りキャベツ、ハム、輪切りにした茹で卵を並べる。さらに上からチーズをのせて食パンで挟み、コンロの火をつける。
焼いている間に、セット用のスープを温めなおしてカップに注ぎ入れ、サラダボウルに店長お手製いぶりがっこ入りポテトサラダを盛りつける。
そうこうしているうちに、パンが芳ばしく焼ける香りが立ち上った。
「お待たせしました。キャベツと卵のホットサンドになります!」
包丁でさっくりと三角形に切られたホットサンドが盛りつけられた皿を、笑顔と一緒に差し出す。
店長と談笑していた東條さんは、嬉しそうに笑って「いただきます」と手を合わせると、大きな口でホットサンドに嚙り付いた。
男の人が遠慮なしに食べる姿って、見ていて気持ちがいいんだよね。東條さんは本当に美味しそうにニコニコしながら食べてくれるし、なおさら嬉しくなっちゃう。
黙々と食べる姿を微笑ましく思いながら、洗い物を始めると、東條さんが話しかけてきた。
「咲良ちゃんが作ってくれたと思うと、割増しで美味しく感じるな」
「店長のレシピ通りに作ってるんだから、誰が作っても同じ味ですよ」
「そんなことないと思うけど」
「お世辞が上手なんだから。私を褒めても、デザートのサービスはつきませんからね」
笑って返すと、東條さんは楽しそうに「それは残念だな」といい、ポテトサラダを口に運んだ。
「デザートのサービスはありませんが、食後のコーヒーを坂下さんに淹れさせるくらいはできますよ」
「店長、なにいってるんですか? 私、まだコーヒーの淹れ方すら教わってませんよ。そんなのサービスになりませんってば」
おかしなことをいい出した店長に首を傾げると、東條さんは「え、咲良ちゃんの初めてをもらえるの?」と目を輝かせた。
「初めてって、いい方がいやらしいんですけど。セクハラで訴えますよ」
「あははっ、今の若い子は手厳しいな。でも、咲良ちゃんがコーヒー淹れてくれたら、夜も仕事を頑張れそうなんだけど」
悪びれる様子のない東條さんはスープを飲み干すと、残りのホットサンドに手を伸ばした。
「無理ですよ。せっかくのコーヒー豆が無駄になりますって」
「そんなことないと思うけどな。ほら、咲良ちゃんって器用そうだし。頑張ってみてよ」
東條さんにそういわれてしまったら、やるしかないような気がするから不思議だ。でも、やっぱり初めてのものをお客様に出すというのは気が引ける。
そろそろコーヒーの用意をした方がよさそうではあるんだけど。
ちらりと店長の様子を窺ってみれば、丁度コーヒー豆を挽き終わったところだった。にこりと微笑まれて「やってみますか?」と訊ねられた。
すっかりコーヒーを淹れる準備は整ったみたい。
冷静に考えて、練習なしぶっつけ本番なんて失敗する未来しか見えないよね。東條さんは期待の眼差しを向けてくるけど、思い切ることは簡単じゃない。
「……やっぱり東條さんには美味しいコーヒーを飲んでもらって、午後も頑張ってほしいです。だから、ちゃんと練習してからお出ししたいです!」
包み隠さず本音をいうと、東條さんはちょっと驚いた顔をしたけど、目を細めて「それは楽しみだな」と頷いてくれた。
「じゃあ、自信をもって出せるようになった一杯目は、俺のために淹れてくれるって、約束してくれる?」
「もちろんです。頑張って練習しますね!」
気合を入れて宣言すると、東條さんは「俺のために頑張ってね」といって、ホットサンドを全て平らげた。
空になったお皿を下げてしばらくすると、ふわりと芳ばしいコーヒーの香りが立ち上がった。
「山茶花ブレンドになります」
白地に青い花柄がお洒落なコーヒーカップがカウンターに置かれる。
ほんのりとナッツのような優しく甘い香りに、東條さんの顔がほころんだ。カップに口をつけ、ほっと一息ついた後に「夜も頑張れそうだ」と呟くのを聞き、私は心の中で「私も頑張ります」と頷いていた。
◇
あくる日、大学の講義も終わり、急いでバイト先へ向かおうと校内を足早に歩いている時だった。
「あれ、咲良ちゃん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、東條さんがいた。
ただただ驚いて言葉を失っていると、彼は一緒にいた教授になにか早口で話し、笑いながら揃って近づいてくる。よく見れば、一緒にいるのは経営戦略論を専門としている野崎教授だった。
慌てて教授に頭を下げると、東條さんが「偶然だね」なんて軽く話しかけてくる。
「咲良ちゃん、講義はもう終わったの?」
「終わりましたが……どうして東條さんがうちにいるんですか?」
「野崎教授に呼び出されてさ」
まったく話が見えずにきょとんとしていると、野崎教授は「来年からゼミに入る坂下だな」と、したり顔で話しかけてきた。
「お前たちの歓迎会で、東條に少し話をしてもらおうかと思ってな」
「俺もそんな暇じゃないんですけどね」
「だから年明けじゃなく、来春でいいといっただろう。可愛い後輩のために一肌脱ごうって男気はないのか?」
「男気って今時、流行らないと思いますよ。それに教授はいつも唐突なんですよ。俺にだって予定がありますから」
東條さんが苦笑すると、野崎教授は「坂下も東條の話を聞きたいだろう?」と突然話を振ってきた。
世間話ならカフェでよくしていますが、というわけにもいかない。返す言葉に困っていると、教授が首を傾げた。
「お前たち知り合いなんだよな?」
「知り合いですよ。ねえ、咲良ちゃん」
「ええ、まあ……バイト先のカフェの常連さんですが」
むしろ、東條さんと教授が仲良く話している理由を聞きたいのだけど。
困惑していると、野崎教授は大口で笑い出した。
「坂下、お前なバイトばかりしてないで少しは経済新聞を読め! 東條は今注目のベンチャー企業社長だぞ」
寝耳に水とはこのことだ。
突然、教授が投下した衝撃の事実に、思考がついていけなかった。
東條さんがベンチャー企業社長?
さざんかのカウンターで「昼飯を食べ損ねた」てよくいっていて、食後のコーヒーを飲んで「今夜も頑張れそう」なんていっているから、どんなブラック企業で働いているんだろうかなんて思っていたのに。
唖然として東條さんを見上げると、きまり悪そうな顔に笑みが浮かんだ。なんとなくだけど、知られたくなかったといっているようだ。
「学生で起業する子も増えてるこの時代に 、三十路手前で若手というのは無理ないですかね」
「なにをいうか。下積みをしっかりしたお前だからこその結果だろう。私の自慢だぞ。胸を張れ!」
東條さんの背中をバシバシ叩いた野崎教授は、後ろから誰かに呼ばれた。すると、なにか思い出した顔になり、すまないといって慌てだす。
「この後、会議が入っていてな。それじゃ、東條、また連絡をするな」
「今度は余裕をもって連絡してください。俺もそれなりに忙しいので」
「そうだな。けど、今日は話せてよかったよ」
満足そうな笑顔になった野崎教授は、再び離れたところから名を呼ばれ、慌ただしく去っていった。
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