第十七節 ――――――――――――――――――
「アーディス・メルドだと? 笑わせるアナグラム名など使って、白々しいものだ。」
「ははっ。まぁ、レディにはちゃんと俺の真名で呼んでほしいからさ。特別に教えとくよ。」
男は軽く肩を揺らし、冗談めかした調子で言った。
「真名だと?」
少女は眉間に皺を寄せる。
灰色の重たい雲の切れ間から、うっすらとオレンジ色の陽光が差し込んだ。
まるで舞台の照明が切り替わったかのように、男だけが、その光の中に立っている。
「サミュエル――俺の真名だよ。」
少女は眉間に皺を寄せたまま、ふん、と鼻を鳴らして
「……なんの捻りもないな。」
と呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、男の顔がぱっと緩む。
心底嬉しそうに、無防備な笑みを浮かべた。
「それで、サミュエル殿。貴殿の目的はなんだ?あの絵か?」
男はくつくつと笑って言った。
「在処を見つけてくれたんだろ。見たがっていた絵画の感想は?」
少女はいやそうな顔で男を見ると、鼻を鳴らして応えた。
「在処など、わかっていたんだろう。わざわざ我々に探させて回りくどいことを…」
「ははっ、人生、寄り道が大事だよ、レディ。それで、あの絵、返してくれるのかい?」
少女はじっと男を見つめて応えない。
「悩んでるのか?レディのことだ。気づいたんだろう?彼女の右目の暗号に。――答え合わせ、しとこうか?」
「断る。」
即答だった。
少女の返答に、男の口元に張り付いていたニヤけた笑みが、一瞬だけ剥がれ落ち、男はきょとん、とした表情で目を瞬かせた。
「私が答え合わせしたいのは、エスパーニャの諜報員であるお前が、ここにいる理由だけだ。できれば、出て行ってもらいたい。」
男は少女の視線を正面から受け止め、ゆっくりと口角を上げた。
「俺は、エスパーニャの諜報員じゃないけど?」
「大して変わらんだろう。エスパーニャの諜報員だろうと、旧教の諜報員だろうと。」
――なるほど。
男は、感心したように息を吐いた。
「そこまで分かってて、俺がここにいる理由なんて、答える必要あるかい?
それより――あの絵の秘密が、知りたくないのか?」
「秘密とは?」
少女は淡々と続ける。
「あの絵に描かれている暗号は解読すれば、『ユードラシム5568』と読めることか?そんなものは、どうでもいい。」
少女はそこで一度言葉を切った。
「わからないのは、なぜ、お前が、あの絵を人目に触れさせようとしているかだ。あの絵の秘密は、旧教にとって都合の悪いものだ。隠そうとするのが、筋だろう。盗まれたままで、不都合もないはずだ。」
男は、力を抜くように肩を落とし、少し呆れた調子で言った。
「そこまで分かってんのに……レディは、知らなくていい事実の処理の仕方を、学んじゃったみたいだな。」
少女の片眉が、ぴくりと跳ねた。
「あの婆さんは、やり手だよ。俺たちにすら、しばらく事実を掴ませなかったんだから。
いい材料になったのになぁ。」
男は、楽しげに舌を鳴らす。
「前公爵が、実の娘に自分の子を産ませてたなんてさ。」
「……何が目的だ?」
少女の声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
男は、その反応を楽しむかのように、さらに言葉を重ねる。
「せめて前公爵だけでも生きててくれりゃ、もう少し煙を立たせられたんだけどな。
――してやられたってわけだ。」
「まさか、ちんけな革命など望んでいるわけではないだろう?旧教は、どちらかと言えば、上流階級と一蓮托生のはずだ。ヴァロワのように、上流階級の排除やらを望んで内――」
少女は、不自然に言葉を切った。
自分の口から出た言葉を、頭の中でもう一度なぞる。
男は、その様子を見逃さなかった。
にやりと、愉快そうに笑う。
「我が唯一の主のために――」
男は、ゆっくりと両手を広げる。
「欲しいのは――ケイオス。
混沌、だよ」
男の姿が、ゆっくりと後ろへ倒れていく。
次の瞬間、その姿は少女の視界から消えた。
驚いた少女は塀まで駆け寄り、その下を覗き込む。
そこには――
変わらない風景。
行き交う人々がいるだけだった。
「レディがどうするか――。見守ってるよ。」
低い男の声が、灰色の空に沈むように響いた。




