最終話その3 メインバンク編 ― 友情と裏切りの一週間
総務課の机の上に、紙の書類が雪崩のように積み上がっていた。
売掛金回収予定表。
東洋メガ機工向けの仕掛品一覧。
在庫評価表、資金繰り表、銀行別借入一覧、支払予定。
そのどれもが、藤井仁(三十六歳)の視界の中で、
ゆっくりと「会社の死亡診断書」に変わりつつあった。
――被害総額、五億円。
二億は売掛金。
三億は東洋メガ機工専用の“特注品”在庫。
売り先を失った鉄と部品の山が、倉庫で冷たく積み上がっている。
これがきっかけで、自社も倒産しかねない。
その計算は、もう何度もやり直した。
(……三カ月)
藤井は画面の資金繰り表を見つめる。
東洋メガ機工が消え、同じ売上がしばらく戻ってこない前提で回すと、
残高がゼロを割るのは、きれいに三カ月後だった。
(三カ月で、終わる)
心の中で、さらっと会社の寿命を読んでしまう自分が嫌になる。
だが、嫌でもやらなければならない。
経理・財務担当は、希望ではなく数字を見る役だ。
その現実を握りしめたまま、藤井は電話を取った。
――まずは、セーフティネットだ。
政府系金融機関の応接室は、無駄がないほど殺風景だった。
壁のカレンダーだけが「がんばろう中小企業」と励ましてくる。
担当者は、几帳面そうな眼鏡の男性だった。
「東洋メガ機工さんの倒産……大変でしたね」
「はい……お世話になっている会社でしたので」
藤井は、売掛金二億と在庫三億の経緯を説明する。
担当者は淡々とメモを取り、やがて首をかしげた。
「セーフティネット保証の件ですが……」
その前置きが、すでに嫌な感じだった。
「今回の倒産は、保証対象の“指定業種”ではないんです。
それと、取引銀行さんがどこも支援の意思を出されていない」
「……はい」
「この状態ですと、弊機関単独でのご支援は……難しいですね。
少なくとも、メインバンクさんが協調姿勢を示されない限り」
(結局そこか……)
藤井は心の中で頭を抱えた。
第二メイン地銀は、前話で「様子見」を決め込み、
融資どころか「数字を出せ」の一点張りだった。
メインバンクには、社長が「最後の砦だから行くな」と言い続けている。
にもかかわらず、政府系はきれいに言い切った。
「取引行さんが支援されない先に、我々だけ出ることはできません。
協調融資でなければ――」
藤井は、営業事務・お局から教わった「営業スマイル」を総動員して頭を下げた。
「……承知しました。ありがとうございました」
建前としての笑顔は、ちゃんと作れる。
ただし、心の中ではすでに土下座だ。
(頼りにしてみたけど……結局、“銀行に頼れ”って話に戻るのかよ)
会社に戻ると、第二メイン地銀から電話が入っていた。
事前に留守電が入り、その折り返しだ。
「うちは、セーフティネット対象にならなかったようで」
電話口の第二メイン担当は、妙に滑らかな口調だった。
「ええ、ニュースになってましたよ。東洋メガ機工さんの件」
「……ええ」
「でですね」
その「でですね」の声色が、すでに寒かった。
「御社の“東洋メガ関連の売上比率”を、本部に報告したところですね」
(うわ、嫌な予感しかしない)
「社内でリスク区分の見直しがありまして。
正直なところ、融資の新規支援は難しいです」
(ですよねー)
心の中で乾いた笑いが出た瞬間、
担当はさらに言葉を重ねた。
「それどころかですね……」
「……それどころか?」
「現在のご融資残高についても、
将来的には、少しずつ圧縮させていただきたい というのが本部の判断でして」
その一言で、背筋が氷になった。
「……圧縮、というと?」
「返済条件の見直し、ですね。
短期融資を減らし、長期もできれば繰上げ返済を――」
「お待ちください!」
藤井は思わず口を挟んだ。
丁寧語を保つのに、喉が焼けるようだった。
「現状、こちらとしては資金繰りに大きな穴が開いている状態です。
新規支援が難しいのは理解しますが、既存融資の引き上げ まで言われると……」
「ええ、もちろん“今すぐ”ではありませんよ」
担当は、笑い声まで冷たかった。
「ただ、御社側もリスクを認識いただきたい、ということで。
こちらとしても、貸出金の健全化 を進めなければなりませんので」
言い方は丁寧だが、要するにこうだ。
――沈みそうな船から、真っ先に荷物を捨てたい。
電話を切ったあと、藤井はしばらく受話器を見つめた。
(……セーフティネットは対象外。
第二メインは支援どころか、引き上げ準備。
第三以降は門前払い。
政府系は“メインが動いたら考えます”)
詰んでいる。
将棋で言えば、まだ王は倒れていないが、手はどこにもない。
総務室の隅で、営業事務・お局がコーヒーを飲んでいた。
「顔、死んでるわよ、藤井くん」
「今、うちの会社のライフポイント、マイナス五億です」
「マイナスになっても立ってるのが、この会社でしょ」
「……立ってるっていうか、死んだまま動いてますよね、皆」
お局は肩をすくめた。
「で、どうするの?」
藤井は、ゆっくりと息を吐いた。
「……メインバンクに行きます」
「社長、発狂するわよ」
「もう半分発狂してるんで、誤差だと思います」
その夜。
社長室のドアの向こうから、うめき声と独り言が聞こえ続けた。
「わたしは負けん……負けるはずがない……
いや、違う!負けた……終わりだ……!」
ドアの前を通りかかった最長老が、藤井に小声で言う。
「あれはな……」
「はい」
「“ほんとうに…しんどい人”の声ですね…」
「ですよね」
「戦時中…ああいう声はよく聞きました…」
「比較対象が国レベルなんですよね、うちの会社」
藤井は、社長室のドアをちらっと見たのち、
廊下の一番奥にある自分の机へ戻り、
深く椅子に座り込んだ。
(……メインバンク。
最後の砦に行って、断られたら終わり)
だから社長は「行くな」と言っていた。
裏返せば、社長もそこが最後だと分かっている。
だが、もう後がないのは同じだ。
藤井は、机の上の電話を睨んだ。
「……かけますよ」
誰にともなく宣言し、ダイヤルを回した。
メインバンクの担当者は、藤井と同い年の男だ。
名前は朝倉。
背も高く、MBAまで取っているくせに、飲みの席では普通にグチるタイプの銀行員。
電話口の声は、いつも通り軽かった。
「藤井さん? お久しぶりですね。どうしました?」
「久しぶり、ですね……」
声が自分でも驚くほど疲れていた。
「……実は、東洋メガ機工が」
その一言で、電話の向こうの空気が変わった。
「――倒れました」
一瞬の沈黙。
続いて、非常に人間的な反応。
「……マジすか」
藤井は、売掛金二億と在庫三億の話を、
包み隠さず一気に話した。
第二メインの態度。
第三以降の門前払い。
セーフティネット対象外の現実。
政府系の「メインが動かないと無理です」の一言。
「……なるほど」
朝倉は、ゆっくりと相槌を打った。
「被害総額は五億。
資金ショートまで三カ月。
すでに他行の追加支援はゼロ。
第二メインは、将来的に引き上げ方向」
「はい」
「……正直に言ってくれてありがとうございます」
「嘘をついても、決算書と通帳見られたらバレますので」
「まあ、そうですね」
短い沈黙の後、朝倉は声のトーンを変えた。
「藤井さん。
一度、じっくりお話を聞かせてください。
明日、お伺いしていいですか?」
「……本当に、来てくれるんですか」
「逃げても、どうせ資料は見ますからね。
それなら直接聞いた方が早い」
そう言って笑う声に、いつもの軽さはあったが、
その裏に、妙に頼もしい硬さがあった。
「明日、会社で」
「はい。全部お見せします」
翌日。
メインバンクのロゴ入り紙袋を提げて、朝倉がやってきた。
営業事務・お局が、小声でぼそっと言う。
「なんか一人だけ“令和”って感じの人材ね」
「うちは昭和通り越して明治ですからね」
会議室に通すと、朝倉は開口一番、こう言った。
「……まず、全部ください」
「全部?」
「資金繰り表、売掛明細、在庫一覧、銀行借入一覧。
それと、東洋メガ機工との取引履歴が分かるもの全部」
藤井は、事前に山積みにしておいた資料を一気に押し出した。
「遠慮なく、どうぞ」
朝倉は、ひとつひとつ丁寧に目を通していく。
ページをめくる音だけが、会議室に響いた。
一時間。
二時間。
途中、お局がお茶を出しに入っても、
朝倉は「ありがとうございます」と笑うだけで、手は止めなかった。
三時間目に入った頃、
朝倉は資料の山から顔を上げた。
「……いや。これは、なかなか」
「なかなか?」
「なかなか地獄ですね、これは」
「銀行に地獄って言われたくなかったです」
藤井は乾いた冗談を言ってみたが、声は震えていた。
「でも――」
朝倉はまっすぐ藤井を見た。
「数字は酷い。正直。
でも、ごまかしてない」
「ごまかしても、バレますから」
「それをやる会社が多いんですよ。
見栄えのいい資料だけ持ってきて、都合の悪いものは出さない」
朝倉は、売掛明細の束を指で叩いた。
「東洋メガ機工の売上比率、ここ半年で三割。
この集中は、本来なら我々も止めるべきだった」
その一言に、藤井は思わず顔を上げた。
「……それは」
「銀行側の反省点です。
だからと言って、“全部助けられる”と言える状況ではありませんが」
朝倉は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「本部にかけ合います。
ただ、正直言って――俺、多分怒られます」
「いつもより少し多めに怒られる感じですか?」
「昇進のレールが二本ぐらい折れるかもしれませんね」
「重症じゃないですか」
それでも朝倉は笑った。
「でも、やります。
あなたが正直に全部出してくれた以上、
こっちも“正直に勝負”しないとフェアじゃない」
銀行員にしては、危険なセリフだった。
「結果がどうあれ、またご連絡します」
そう言って、朝倉は大量の資料を抱え、支店へ戻っていった。
そこからの一週間は、地獄だった。
朝倉からは、一切連絡がなかった。
電話しても「席を外しております」。
メールを送っても既読にならない。
支店にかけても「只今、本部に出向いております」の一点張り。
(……本当に怒られてるんじゃないだろうな)
社内では、社長の情緒不安定がさらに悪化していた。
朝、社長室からむせび泣きが聞こえたと思えば、
昼には会議室で「わしはここから大逆転する!」と叫び、
夕方になると、
「すまん、藤井課長……わたしが全部悪かった……」
と廊下の端で膝を抱えていたりする。
お局が小声で言った。
「……ねえ藤井くん。
この人事評価、誰が付けるの?」
「労基署じゃないですかね。
“メンタルヘルス配慮不足”で」
そして――支払い期限、五日前。
総務課のドアが激しく開いた。
「藤井くん!! メインの朝倉さんが来てるわよ!!」
お局が素っ頓狂な声で叫んだ。
藤井は、椅子を倒しそうになりながら会議室へ走った。
会議室では、朝倉がスーツの上着を脱ぎ、
ワイシャツの袖を捲り上げた姿で座っていた。
顔には疲労が刻まれている。
「……お待たせしました」
机の上に、分厚い書類がドンと置かれた。
「これは?」
「金銭消費貸借契約書。
二億、決裁通りました」
藤井は、喉が詰まって声が出なかった。
「……本当に?」
「はい。本当に。
本部で、もう何回会議したか分かりません」
「どうやって……説得を?」
「“ここで切ったら、うちは銀行として終わる”って言いました」
(お前の方がよっぽど主人公だよ……)
藤井は、笑いながら目頭を押さえた。
「ただし」
朝倉は真顔に戻った。
「この二億は、俺のキャリアと引き換えみたいなもんです。
正直、異動は覚悟しています」
翌月。
その覚悟が現実になった。
朝倉は、地方の小さな支店に異動になった。
銀行内では、いわゆる島流しとささやかれている場所だ。
見送りの席で、藤井は深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます」
「いや、こっちこそ」
朝倉は笑って、紙コップのコーヒーを掲げた。
「こういう仕事を一度でもやれたなら、
銀行員として多少はマシだったかな、って思えるんで」
「恩は、いつか必ず返します」
「返さなくていいですよ。
代わりに――会社、絶対潰さないでください」
「…全力で頑張ります」
メインバンクの二億が決まったことで、
状況は一気に動き始めた。
藤井は、その足で政府系金融機関に向かい、
メインバンクが協調した事実を突きつけ、
「これで“他行の支援がない”という理由は消えましたよね」
と、笑顔で詰め寄った。
結果、制度融資で二億が決まり、
さらに営業に来ていた新規の金融機関に対しても、
「メインと政府系が出ます。
あなたのところが最後の一枚です」
と畳みかけ、最後の一億をこじ開けた。
合計五億。
帳簿上、綺麗に穴が埋まる数字が並んだ。
だが、藤井は知っていた。
この数字は、「誰かのキャリア」と「誰かの寿命」と引き換えで成り立っている。
倒産した会社の従業員たち。
異動になった朝倉。
現場で必死に汗を流し続ける自社の高齢社員たち。
その全部を背負って、
この数字は立っている。
総務室の端で、最長老が例の手帳に何かを書き込んでいた。
「最長老、今日の“社史メモ”は何ですか」
「うむ…」
最長老は、老眼鏡の奥で優しく笑った。
「『借りた恩金には利息が付かん。
心の中でだけ、ずっと増え続ける』」
「……名言ですね」
「わたし…そういうのだけは得意なんですよ…」
藤井は笑いながら、深く頷いた。
(忘れませんよ、朝倉さん)
こうして会社は、首の皮一枚、繋がった。
だが、その裏で社長は、
「自分の決断」と「会社の底力」が評価されたと信じ込み、
外部から「危機を乗り越えた経営者」として持ち上げられ始めていた。
藤井は、その様子を横目に見ながら、
胃薬の箱をそっと引き出しにしまった。
(……この帳尻を合わせ続けるのが、俺の仕事か)
そして次の戦いが静かに幕を開けようとしていた。
――続く。




