第5話 労基署、来たる
午前十時。電話のベルが鳴った。
「労働基準監督署の者です。――先日ご案内した立入調査、明日でよろしいですね?」
あ、来た。
藤井仁(36歳)の胃の中で、カフェインと胃酸が喧嘩を始めた。
郵送で通知が来ていたのは知っていた。
ただ、“長時間労働に関する実地調査”と書かれていたその文面は昨今の働き方改革の一環程度と思っていたが、まさか本当に実行するとは思っていなかったのだ。
「……あの、明日ですか。ちょうど月次の締めでして」
「ええ、他の企業も同様に順次調査に伺っていますので。実地で確認させて頂かないと」
実地――その一言が、妙に不吉に響いた。
(なんでよりによって“現場教材”に選ばれるかな……。俺の人生、モルモットコースか)
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【翌日、午前九時半】
玄関のドアが開く音がした。
先頭には五十代後半のベテラン監督官、後ろに男女二人の若手。
黒い鞄がまぶしいほど真っ直ぐに光っている。
「本日は若手職員の教育を兼ねて、実地で調査をさせていただきます」
若手女性が丁寧に言った。
社長は満面の笑みで応じた。
「教育? つまり、うちが教材ということですな」
(社長、それフラグです。全力で踏みに行くやつです……)
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【応接室、空気圧ゼロ】
監督官たちは書類を広げ、淡々と進める。
「時間外労働の集計方法を確認させていただきます」
社長は穏やかに頷きながら、どこか誇らしげに言った。
「うちは法令遵守で経営しております。ご安心ください」
ベテランが目を細める。
「“しております”と仰る方ほど、往々にして違反が多いのですが」
ペンの音が“カツン”と鳴った。若手男性が無表情でメモを取る。
(うわ、出た……“カツンの人”だ……)
社長の眉がピクリと動く。
「ほう? つまり、私が怪しいと?」
「いえ、一般論です」
「では、なぜ私にその一般論を?」
若手女性が慌てて言う。
「あの、私たちは“味方”です!」
(あー、もう……それ、戦場で撃たれるやつ……)
「味方? 私は戦っておりません!」
「落ち着いてください」
「私は落ち着いております!」
部屋の温度が一気に三度下がった。時計の針が“コチコチ”と音を立てる。
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その時、お局(71歳)がノックもせずに入ってきた。
「まぁまぁまぁ。社長、血圧あがるわよ」
「私は平静です!」
「その声で言っても誰も信じないわよ」
若手男性が小声で呟く。
「……この方が“お局様”ですか」
(メモ取るな! それは社内用語!)
ベテラン監督官が咳払いをして言う。
「教育というのは、現場の理解を――」
「教育なら、まず礼儀を教えたまえ」
「私は礼儀を心得ております」
「その態度が、心得ていない証拠だ」
(……なんでこの人たち、バトル形式なんだ……)
若手女性が困り果てて空気を読もうとするが、失敗する。
「社長、とても活力のある職場ですね!」
「うちは“活力”で回しておる!」
(違う、それ“限界突破”で回してるやつ!)
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ついに社長が立ち上がった。
「もう十分でしょう。私は法令遵守で経営している。それだけです!」
ドアを“バタンッ”と閉めて去る。
その音が、まるで試合終了のゴングのようだった。
ベテラン監督官が静かに笑った。
「では……総務課長さん、続きを」
(やっぱり俺のターンか……)
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そして尋問が開始された…
「残業時間の集計方法は?」
「各部の報告書とタイムカードを照らし合わせて……」
「照合“だけ”?」
(あ、地雷……)
「確認も、しております……たぶん」
“カツン”とまたペンが鳴る。
「確認“たぶん”」
(書くな、そこは書くな!)
若手女性がフォローを試みる。
「“空気で判断している”という文化的背景は……」
(文化って言った! 行政で“文化”って言っちゃった!)
「……すばらしい社風ですね」と若手男性。
(褒めたのか、煽ったのかどっちだ!)
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その時、再度ドアが開きお局が入ってきた。
「コーヒーおかわりいる? 今日みんなブラックでしょ」
お局が笑顔でカップを置く。
「私はミルクだけで」と若手女性。
「若いっていいわね。砂糖なくても甘い空気」
(やめて……その空気、今は硫黄ガスなんだ……)
ベテラン監督官が咳払いして立ち上がった。
「では、本日の内容はこの書面に記載します」
“是正”の二文字が空気に残る。
「本日はありがとうございました!」と若手。
「こちらこそ社会勉強になりました!」とお局。
(この会社、教育される側の自覚ゼロだ……)
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調査が終わり残された机には「是正勧告書」と書かれている。
藤井仁の胃が再びキリキリと音を立てた。
「是正って……つまり完全にアウトじゃないか……」
お局が書類を覗いて言う。
「役所って根に持つのよ。女の恨みよりタチ悪いわ」
「……あの人、新人教育のつもりが社長に面子潰されたから容赦なかったですね…」
「男はプライドで動くのよ。あんたも気をつけなさい」
(いや、俺、毎日プライド削って働いてます……)
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【夜の事務所】
蛍光灯がチカチカと点滅する。
机の上には是正勧告書案。
もはや芸術作品のように整列していた。
藤井仁は呟いた。
「……いくら体裁を整えても実際に守る人がいない、“是正”って…俺の希望嘆願書かよっ…」
静かな事務所。
遠くでパソコンが「ピッ」と鳴った。
画面には、件名「労働基準監督署指導:是正勧告書、規定改定確認のお願い」。
藤井仁は天を仰いだ。
(……社長はこの件、絶対指示だけだして近寄りもしないだろうな……)
蛍光灯が最後の力で瞬いた。
その光の下で、藤井仁は悟る。
日本の“労務管理”とは、もはや宗教ではなく儀式。
信じる者が救われるのではなく、書類が救われるのだ。




