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総務課長・藤井仁の憂鬱 ― 臨終雇用は日本の縮図  作者: みえない糸


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第52話 事故後対応編 ― “誠意のゴールデンウィーク”

 連休初日、社内の時計の針だけが、やけに大きな音を立てていた。

 蛍光灯が白々しく照らすオフィスの片隅で、藤井仁(36歳・総務課長)は机に頬杖をついていた。


 誰もいない会社。

 休暇届が整然と並んだ引き出しの中で、自分だけが“空白”だった。


 ――社長からの一言。

 「何かあってはいけません。休暇中は会社を頼みます」


 休暇を“頼む”とは、便利な言葉だ。

 (頼むじゃなくて、“命じる”ですよね、社長)



 午前十時、社長から電話が入った。

 「藤井くん、いま病院に着きました」

 「……どうなりました?」

 「相手の方は、まだ意識がないようです。ですが、私は感じました」

 「……何を、ですか」

 「“社長さんが来てくれた”という感謝の波動です」

 「……そうですか」

 「誠意とは、言葉ではなく伝わるものなのです」

 「伝わるといいですね、現実にも」


 社長は続けた。

 「とりあえず、差し入れを渡してきました」

 「何を……?」

 「うな重です」

 「……ICUに、ですか」

 「そうです。栄養をつけてもらわねば」

 「……重すぎます、誠意の比重が」



 午後、保険会社の担当者が来社した。

 スーツ姿の青年が、神妙な顔で名刺を差し出す。

 「このたびは……ご愁傷様、いえ、お見舞い申し上げます」

 「ありがとうございます。物損は軽微でしたが、相手が入院中で」

 「ええ。こちらも状況を確認しております」


 青年は書類を広げながら、少し困ったように言った。

 「ただですね、過失割合の協議がまだできていないんです」

 「社長が病院に行ってしまったので……」

 「行ってしまった?」

 「救急車のあとを、車で」

 「……それ、現場離脱ですよね?」

 「誠意的同行らしいです」

 「……誠意、便利ですね」


 「はい、会社では共通語です」



 夕方。

 お局が顔を出した。

 「アンタ、まだ残ってんの?」

 「ええ、社長から“留守番の誠意”を命じられまして」

 「はいはい、出た。“誠意シフト”ね」


 お局はため息をつきながら、コンビニ袋を机に置いた。

 「ほら、これ夜食。栄養と誠意は早めに摂るのよ」

 「ありがとうございます」

 袋の中には、カップ麺と胃薬、そして缶コーヒー。

 「……救援物資みたいですね」

 「総務って、いつも災害対応してるじゃないの」

 「……確かに」



 翌朝。

 社長から、また電話。

 「藤井くん、朗報です」

 「はい?」

「医師が“容体は安定”と申しておりました。

  私は“誠意が届いた”と確信しております」

 「……医学的には?」

 「医療とは誠意の延長線ですよ」

 「…その理屈、救急学会で発表しないでください」


 「それから、被害者のご家族に再度差し入れをしました」

 「また、うな重ですか」

 「いえ、今度はカステラにしました。甘味は心を癒やします」

 「……誠意の糖分ですね」



 昼過ぎ。

 藤井は病院へ向かった。

 受付で名刺を出した瞬間、看護師が冷静に言った。

 「ご家族以外は面会できません」

 「ですが、“誠意の引き継ぎ”で……」

 「意味がわかりません」

 「僕もです」


 待合室の自販機前でぼんやりしていると、スマホが震えた。

 社長夫人からだった。

 「藤井さん、主人は……大丈夫かしら」

 「ええ、かなり元気です」

 「やっぱりね……病院じゃなくて“現場”にいる気分で電話してきたの」

 「まさか……」

 「“被害者の家族が励まされた”って言ってたけど、

  それ、看護師さんに怒られたって話よ」

 「……誠意が滑ったんですね」



 三日目の朝。

 工場の電話は鳴らず、FAXだけが律儀に届く。

 差出人:社長。

 タイトル:《誠意報告書(第二号)》

 ・病院ロビーにて祈祷

 ・警備員に退去を促される

 ・誠意は止まらず


 (……まさか誠意が職務妨害になるとは)



 五日目。

 保険会社から再び連絡があった。

 「藤井さん、朗報です。

  被害者の方、意識が戻られました」

 「本当ですか!」

 「はい。診断の結果、軽いむち打ちと擦り傷程度。

  念のため入院していただけだそうです」

 「……あのICU、誠意で入ってた可能性がありますね」

 「は?」

 「いえ、なんでもありません」


 藤井は受話器を置き、深く息を吐いた。

 (よかった……これでようやく終わる)



 その夜。

 社長から、また電話。

 「藤井くん! 奇跡です!」

 「ええ、軽傷だそうで」

 「そうです! 誠意は伝わるんです!」

 「……医学的には回復力ですね」

 「いや、誠意です。偶然とは誠意のもう一つの顔ですよ」

 「顔、多すぎません?」

 「これからは“誠意の運転”を心がけます」

 「安全運転って言ってください」



 連休の最終日。

 久しぶりに会社に差し込む朝日。

 藤井が書類を片付けていると、最長老から電話が入った。


 「藤井くん、ずっと出ていたそうですね…」

 「ええ、社長が……いろいろありまして」

 「事故というのはね…車より心がぶつかるものですよ…」

 「……深いですね」

 「ぶつかった心は、ちゃんと磨かないと錆びる…

  誠意で磨きすぎても、削れてしまう…」

 「気をつけます」

 「あなたはよう働く…少し休みなさい…」

 「……ありがとうございます」


 受話器を置くと、机の上に社長からのメモが残っていた。


 《藤井くんへ

  君の誠意対応、立派でした。

  次は“予防誠意”の時代です。》


 藤井は無言でメモを裏返した。

 その裏には、最長老の置き土産が一枚。

 老眼の字で、こう書かれていた。


 ――『誠意は止められぬが、休むことはできる』


 藤井は笑って、蛍光灯を消した。

 十日ぶりの夜が、ようやく自分のものになった。

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