第51話 交通事故編 ― “誠意、現場を離れる”
午前八時半。春の陽射しがまだ柔らかい時間帯、総務課の電話が鳴った。
受話器を取った藤井仁(36歳)は、聞き慣れた社長の落ち着いた声に眉をひそめた。
「藤井くん、少し事故を起こしてしまってね」
社長が“落ち着いた声”を出すときは、たいてい落ち着いていない。
藤井は即座に立ち上がった。
「事故……ですか?」
「うむ。出勤途中、原付と接触した。大したことはない。いま警察を呼んでいます」
「お怪我は?」
「私は無事だ。だが、相手が少し転んでしまってな。救急車も呼んだところです」
「場所はどこですか?」
「県道沿いのコンビニの前。すぐわかります」
(……“すぐわかる”って言うときほど、たいてい分かりづらい)
藤井は書類と携帯を持ち出ようとしたが、背後からお局が声をかけた。
「また“誠意運転”?」
「はい。原付と接触らしいです」
「社長が原付乗ってたの?」
「逆です。クラウンで」
「そりゃ“接触”じゃなくて“圧勝”でしょ」
出ようとしたその時、もう一つの電話が鳴った。
ディスプレイには〈社長夫人〉。
嫌な予感が、胃を締めつけた。
「藤井くん!? 大変なの!」
「はい、事故は伺いました。今すぐ現場に――」
『違うの! もう現場にいないのよ!』
「え?」
『救急車が来て、相手の人が運ばれたの。で、社長が“心配だからついて行く”って言って、
そのままクラウンで追いかけちゃったの!』
「クラウンで!?」
『そう、潰れたバンパーのまま! サイレン追って!!』
「……(誠意が加速した……)」
⸻
現場に着いた藤井の目に映ったのは、警官二人と散乱した原付の破片だけだった。
肝心のクラウンの姿はない。
警官が腕を組んで言う。
「あなた、会社の方?」
「はい。総務の藤井です」
「運転手は?」
「救急車を追って……病院に向かったようです」
「救急車で?」
「いえ、事故車で」
「……逃走ですね」
「誠意で追走です」
「どっちにしろアウトですよ」
「(はい、知ってます……)」
⸻
一方そのころ。
シルバーのクラウンは、前がへこんだまま低速で救急車を追っていた。
社長は窓を開け、サイレンの音を聞きながら独りごちた。
「責任者として同行する。これが誠意というものです」
助手席には書類鞄と、飛び出した免許証。
周囲の車が避けていくたびに、社長は満足げに頷いた。
「道を譲ってくれる。世の中まだ捨てたもんじゃない」
(※単に前が潰れて煙を吐いているだけである)
⸻
会社では電話が鳴り続けた。
警察、保険会社、そして社長夫人。
「藤井さん! ニュースで出てる!」
営業課長がスマホを見せる。
《市内で車と原付の事故 加害者が現場を離脱》
お局がつぶやく。
「タイトル、“誠意”が入ってないわね」
「入るわけないです」
⸻
昼前、社長から電話。
「藤井くん、病院に着きました。相手は意識があり感謝しています」
「感謝というより、驚愕だと思います」
「いや、“誠意は通じる”ものです」
「いや、通じちゃまずいです」
「いまから戻ります」
「警察からも連絡ありました。説明が必要です」
「よし、“誠意で説明”します」
「それが一番危険なんです」
⸻
午後。
潰れたシルバーのクラウンが会社に戻ってきた。
フロントバンパーが外れかけ、右ライトは割れている。
にもかかわらず社長は上機嫌だった。
「いやぁ、誠意とはやはり行動てすね!」
「……現場離脱の行動は誠意じゃありません」
「現場を離れたが、心は現場にありました!」
「警察の心も追ってきてます!」
「誠意が届いた証拠です」
お局がぼそり。
「誠意で片づけんな、物損よ」
⸻
翌日、FAXが届いた。
差出人:県警交通課。
内容には赤字でこう書かれていた。
《※“誠意のため現場を離脱”は理由として不適切です》
藤井は頭を抱えた。
(誠意、法的には無力……)
⸻
その午後、警察から報告。
原付の男性は意識はあるが精密検査中とのこと。
社長は一瞬神妙にうなずいた。
「やはり、私の責任です」
「……そうですね」
「明日からゴールデンウィーク連休、休みの間に容体が急変してはいけません、会社に残って留守を守ってください」
「え?」
「ゴールデンウィークだ。何かあってはいけないでしょう」
「何かって……?」
「“何か”は起こる。私は経験で知っています」
(あなたが起こしてるんです)
こうして――
社長は心の休息を選び、藤井は心の過労に突入した。




