第47話 正門拡張工事編 ― 洗剤と正座の三時間
その朝、総務課長・藤井仁(36歳)は、正門前で一枚の図面を広げていた。
そこには社長の筆跡による朱書きが、紙面いっぱいに躍っている。
前日、社長室に呼ばれ、搬入トラックの通行をスムーズにするため正門拡張工事をする様に指示された藤井だが、そこには、施工範囲も時期も何も聞かされなかった。
いつものことだ。社長の“指示”は、常に命令形と気合いで構成されている。
その上で社長は、腕を組み、にこやかに言った。
「ただし、当社の営業中は工事はしてはいけません。生産が止まりお客様の迷惑になります」
(……じゃあ、いつやるんですか)
「土日で終わらせなさい!」
「二日で、ですか?」
「誠意があればできるはずです!」
(誠意、って便利な万能語だな……もはや施工管理じゃなくて宗教)
かくして、藤井は施工業者と打ち合わせ、近隣住民への説明資料を手作りした。
文面は丁寧だ。
――「ご迷惑をおかけします」「早朝工事は致しません」
その横に、「お詫びの品」として並べたのはア◯ック粉洗剤(1kg入り)。
社長は「これで印象が良くなります」と言い、なぜか倍量を買い込んでいた。
(いや、洗剤で騒音は洗えませんよ……)
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工事前日の金曜夕方。
お局が言った。
「近所への手土産、あんたが行くのね」
「はい、総務ですから」
「そう。あたしなら柔軟剤にするけどね。角が立たないし」
(粉より液体を選べという話じゃないんですよ……)
土曜は静かに終わった。
業者はフェンスを仮設し、翌朝の作業に備えて帰った。
問題は――翌日だった。
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日曜午前6時。
バリバリバリバリ――ッ!!
爆音が住宅街に響いた。
まだ朝食前。鳥が飛び立ち、犬が吠え、会社へは苦情の電話が鳴り続けた。
「なにしてんだぁあああ!!」
怒号。
会社の正門の外で、スキンヘッドの男が立っていた。
腕は太く、目は血走り、手には粉洗剤。
(いやな予感しかしない……)
男は怒鳴った。
「これかっ!?オマエらの“お詫びの品”ってのはっ!?」
手の洗剤を藤井に向かって投げつけ命中!――ボンッ! と粉が舞った。
白い粉で藤井のスーツが粉まみれになった。
「この洗剤で、この騒音、洗えると思ってんのかぁあ!」
(アタ◯クは万能じゃない……!)
藤井は必死で頭を下げた。
「誠に申し訳ありません! 業者の手違いで――!」
「やかましい!今すぐ社長を出せ!」
(きた……本命……!)
だが、社長は出張中、しかも遠方。
急いで連絡するもスマホ越しの通話でこう言われた。
「私は営業案件で忙しい。地域対応はきみに任せたはずです」
(いや、あなたの命令で始まったんですけど……!)
仕方なく返答する。
「……申し訳ありません。社長は出張中です」
男は鼻息を荒げて言った。
「わかった!オマエでいい、こっちに来い!」
その瞬間、藤井の腕がガシッと掴まれた。
引きずられるように道路を渡り、向かいの民家へ――。
***
男の家は、フローリングのリビングだった。
カーテンは閉め切られ、蛍光灯の白い光だけが室内を照らす。
空気は重く、タバコと焼酎の匂いが混じっていた。
椅子は一つ、男が座る。
藤井は床に正座していた。
「なぁ、あんた。日曜の朝六時にドリル鳴らされたこと、あるか?」
「……いえ」
「子どもが飛び起きて泣いてんだよ!」
「……はい」
「猫も驚いて吐いた!」
「……はい」
「嫁は“離婚する”って言い出した!」
(いや、それはたぶん工事関係ない)
説教は続いた。
一時間経過。膝がしびれる。
二時間経過。足が感覚を失う。
三時間後――藤井の意識は、半分彼岸に行っていた。
男がようやく言った。
「……もう帰れ」
「……ありがとうございます」
正座のまま立ち上がろうとしたが、足が動かない。
ピクリとも。
「…立てないのか?」
「……すみません。血が……下りてなくて……」
男はため息をつき、
「…次やったら、社長も一緒に座らせるからな!」
「(出張から帰ったら、私が座らせられそうです……)」
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会社に戻ると、お局が待っていた。
「どうだった?」
「三時間、正座です」
「合格よ。うちの“誠意査定”は時間制だから」
(なんの制度ですかそれ……)
その報告を聞いた社長は、営業先から電話で言った。
「相手が許すまで謝りに行きなさい」
「……まだ許されてません」
「なら許されるまで何度でも伺いなさい。企業の信頼は足で稼ぐものです!」
(足、今、死んでますけど)
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翌日。
藤井は再びその家を訪れた。
インターホンを押す。
――ピンポーン。
無言。
もう一度。
――ピンポーン。
中から声。
「やかましい!帰れぇぇぇ!」
まさに取り付く島もない状態…。
その後も諦めずに訪問、
二日目:インターホン越しに「帰れ」。
三日目:無言。
四日目:無言。
五日目: インターホンに『迷惑』と貼紙。
六日目:また無言。
七日目、このままではラチがあかないと町内会長(70代)に相談をする事にした。
「まぁまぁ、君、大変だねぇ。あの人、怒ると長いんだよ」
「三時間、体験しました」
「そりゃ軽い方だ」
(どんな基準だ……)
藤井は町内会長に事情を話し、仲裁をお願いした。
「すぐは無理だが、まあ、時間が薬だ」
(薬より効かない薬、ここにあり)
そして二週間目の朝。
門の前に男が立っていた。
腕を組み、無言でこちらを見る。
「……また来たのか」
「はい。謝罪に」
男は鼻で笑った。
「まあ……いい。もう工事終わったんだろ」
「はい」
「なら、いい」
「ありがとうございます!」
「だが、次やったら覚悟しろよ!」
(…次はありませんと言ったらフラグが立ちます)
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その日の午後。
藤井は社長に報告した。
「相手の方、ようやく納得してくれました」
「そうか。よくやってくれました。これで地域との絆が深まりましたね」
「……はい」
「では次は東門も広げましょう」
(速攻でフラグ回収……もう嫌な予感しかしない……)
お局が横で呟いた。
「洗剤ひとつでここまで揉める会社、他にある?」
「……ないと思います」
「うちはね、洗っても落ちないの。伝統の汚れが」
(確かに、うちの汚れは“歴史的遺産”レベルです)
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その夜、藤井は席に戻って机の上に置いた粉洗剤の袋を見つめた。
破れて中身は半分ほど。
(これ、最初に投げつけられた分か……)
袋の裏には、「ガンコな汚れに強い」と書かれていた。
藤井は苦笑した。
「……ああ、うちは“ガンコな体質”だもんな」
現場では最長老が出荷伝票を手にして待っていた。
「おかえりなさい…ご近所さん落ち着きましたか?」
「ええ、洗剤まみれになりましたが」
最長老は目を細めて笑い、古びた手帳をめくった。
そこには、達筆でこう書かれていた。
『誠意は使いすぎ注意。泡立ちすぎると、足をすくう。』
藤井は思わず笑ってしまった。
「ほんと、在庫より誠意がダブついてますね」
窓の外で、どこかの家の洗濯機が回る音がした。
静かな夜だった。
耳鳴りだけが、まだ少し、ドリルの音を思い出させた。




