第36話 法令遵守編 ― “祈る支援と指導愛”
総務課長・藤井仁の机は、まるで“法の墓場”だった。
厚生労働省の通達、改正労基法の資料、顧問社労士のメール、そして空き缶になったコーヒー。
上から順に積み上がり、もはや塔だった。
(……積み重ねた努力が、積み重なった絶望に見えるのがこの仕事の特徴だよな……)
顧問社労士から届いたメールの件名が光る。
『ハラスメント規定・介護休業対応案(これ以上は譲れません)』
(……毎回この文面。たぶん、もう祈りの域に達してるな)
ドアが開き、お局が顔を出した。
夜のオフィスに彼女の声が響く。
「アンタまた夜なべ? あの社長の下で“法令遵守”とか、もうギャグよ」
「法改正対応なんです。放っとくと是正勧告の二巡目が来ます」
「“是正リターンズ”ね。次は“是正・ザ・ファイナル”で映画化できそう」
「笑えません」
「笑うしかないでしょ。社長が法律より上なんだから」
お局は自販機のコーヒーを置いた。
「で、今度は何を直すの?」
「ハラスメントと介護休業です」
「ハラスメント防止って、社長が一番防止できないじゃない」
「防止どころか、“奨励キャンペーン中”です」
「“叱る愛”とか言い出すんでしょ?」
「言いました。去年、労基署の前で」
「現場で実演すんな!」
藤井は遠くを見つめた。
「明日、社長に説明します。“ハラスメントは悪”って」
「命懸けね」
「できれば生きて帰りたいです…」
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翌朝。社長室の扉を叩く音が響いた。
「入れたまえ」
社長は椅子にもたれ、新聞を畳みながら眼鏡を外した。
その眼差しには、怒鳴り声より強い“圧”がある。
怒号が要らないのが彼の長所であり、最大の短所だ。
「君ねぇ…これ、読んだけどねぇ……なんですかこれは」
「法令改正に基づく就業規則の改訂案です」
「“ハラスメント防止規定”って、どういうつもりで書いたのですか?」
「どういう、とは?」
「“禁止”と書いてあるじゃないですか」
「はい」
「これじゃあ、社員が私に意見できない!」
「…逆です」
「“禁止”という言葉は、経営者の心を縛る。私は“自由な指導”を大切にしている!」
お局:(“自由”と“野放し”の違い、まだ学んでないのね)
社長は指で紙を叩いた。
「“上司は部下の人格を尊重し、叱責を避けること”――これは削除しなさい」
「なぜですか」
「“叱責”がなきゃ会社は回らん。叱るのは“愛”だ!」
「……愛、ですか」
「“指導愛”と書き換えなさい!」
お局:「出た、“愛の押し売り”」
藤井:(これ、“労働契約”じゃなくて“恋愛トラブル”の話になってる)
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社長はページをめくりながら次の文に目を留めた。
「“介護休業は従業員の申出により取得できる”……これは甘いと言わざる得ません!」
「法律に書いてあります」
「“申出る”前に“相談する勇気”を評価しなさい」
「勇気を……評価?」
「そう。勇気があれば、休まず頑張れます」
「それ、倒れる前提ですよ」
「立派でしょう!」
お局:「…ブラックを通り越して“漆黒”ね」
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社長の筆が止まらない。
「“会社は支援する”――これも問題です」
「なぜですか」
「“支援”というのはコストです。私は“祈る”に変えたいのです」
「祈る?」
「“介護を祈る経営”! 支援は有限、祈りは無限です!」
お局:「…宗教法人にした方が早い」
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「“匿名で相談できる窓口を設ける”――これも削除しなさい」
「なぜでしょう」
「匿名は卑怯でしょう!顔と名前を出してこそ信頼が生まれるのです!」
お局:「匿名じゃなきゃ誰も言わないでしょ」
「そういう社員は“覚悟が足りないのです”!」
藤井:「覚悟の強要が一番のハラスメントなんです」
「違います!“心の鍛錬”です!」
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ページの最後。
「“安全で快適な職場を提供する”……ぬるい過ぎます!」
「ぬるい?」
「うちは“快適”だと怠けます。だから“安全で適度に緊張感のある職場”にしなさい!」
「それ、“常時火の車”じゃないですか」
「緊張は生命線です!」
お局:「いや、“電流ショック経営”ね」
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結果、社長の“改訂”によりこうなった。
•「禁止」→「節度をもって愛」
•「支援」→「祈る」
•「匿名」→「実名」
•「冷静」→「熱く」
•「快適」→「緊張感」
つまり――。
“法令遵守”は“社長遵守”へと進化した。
藤井は紙を見つめ、呟く。
「……これもう、“日本語の皮をかぶった異世界ルール”ですね」
お局:「社長語って、翻訳機が壊れるレベルよ」
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午後。顧問社労士から電話が鳴った。
『どうでした? 承認、いただけました?』
「ええ。“魂の改訂”が行われました」
『……嫌な予感しかしませんね』
「“ハラスメント禁止”が“指導愛の推進”に変わりました」
『逆! 完全に逆です!』
「あと“介護休業”が“介護祈願”に」
『……御社は神社じゃない!』
「“匿名相談”は“実名勇気制度”に」
『……厚労省が泣くぞ』
「僕も泣きました」
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お局が笑いながら言う。
「アンタ、もう悟り開いてんじゃない?」
「ええ、“修行僧型サラリーマン”です」
「この会社、法律じゃなく“風習”で回ってるのよ」
「“判例”より“社長例”が優先ですからね」
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翌朝。
社長から戻ってきた原稿の朱書きに、こうあった。
『法令的には正しいが、経営理念に反するため却下。』
藤井:(理念が法を超えた瞬間、文明が滅ぶんだよな……)
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昼休み。営業課長が駆け込んできた。
「課長! “指導愛”の研修、すごいですよ!」
「研修?」
「社長、朝礼で“愛をもって叱る”って実践してました! 二人辞めました!」
お局:「すごい即効性ね」
藤井:「致死量の愛……」
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午後。社長が社食でマイクを持った。
「諸君! これからは“法令遵守”ではなく、“理念遵守”です!」
(ざわ…)
「法律は変わるが、理念は不変なのです!」
お局:「宗教講話かな?」
藤井:「多分、厚労省と戦ってる」
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改訂した就業規則を送ってから1週間後。
労働基準監督署から電話が入った。
『“祈る支援”は支援に該当しません。社労士と相談して再提出してください。』
藤井は書類を見つめて呟いた。
「……祈りが届かなかった」
お局:「法の壁、高かったね」
藤井:「信仰より改正法が強いです…」
「そりゃ法治国家だからね」
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夜更け。
藤井は書類を束ね、椅子にもたれた。
(労基署が来るたび、人間として成長していく。でも会社は昭和に回帰していく……)
社長の声が遠くから響く。
「私は法令を否定していません! ただ、“私の方が早い”だけです!」
(速さの問題じゃないんだよ……)
お局がぼそり。
「この会社、“臨終雇用”どころか“輪廻雇用”ね」
「来世でも是正してる気がします」
「じゃ、今世は祈っときなさい」
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オフィスの隅。
最長老が静かに手帳を開き、一行書き記した。
『法は改正される。理念は暴走する。だが、紙は沈黙して受け入れる。』
そして、そっとページを閉じた。
ペン先が止まった音だけが、夜の総務課に残った。




